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7:ポール・クレンドラーの想い出に捧ぐ

 燃えている。
 ごうごうと燃えている。
 可燃物など積んでいない筈の機内が、ごうごうと燃え上がっている。
 旅客機に搭乗している兵士の一人は、機内の消火システムが作動しないことに気付き、困惑していた。
 通常、機内で火災が発生した場合は、コクピットから操作を行うことで、機内に設置された消火装置に消火剤が充填・噴射される。それが全く働かないのだ。
 消火装置からは、かしゅっ、かしゅっと、空気の漏れ出す音だけが聞こえている。〝まさか〟と思った。
 ――消火剤が積まれていない!?
 一瞬、その兵士は、あり得ないことだと首を振った。そんな状態で旅客機を飛ばす筈が無いと。だが直ぐにも、もう一つの異常に思い当たる。
 本来なら機内の各所に備え付けられているはずの、手持ち式の消火器も無いのだ。

「くそっ! やっぱり神なんか役立たずだ!」

 天を呪う言葉を、その兵士は呟いた。事ここへ至り、まさか〝整備班があまりにも愚かで防火設備全てを用意し忘れた〟などと思う筈も無い。これは必然――吐き気を催すほどの悪意の元に用意された策謀であろう。
 理由は知らぬ。しかしどうやら、これを仕組んだ〝誰か〟は、〈積荷〉の四人を除く輸送スタッフを全て、東の果ての雪原に葬りたいと願っているらしい。
 殺されてなるものか。憤りと共に兵士は、機内を機首側へと走り、客室スペースを抜けた。
 足は直ぐに止まった。コクピットへの扉の前に、炎の壁が出来ていた。

「は――!?」

 その冗談のような光景には、今年で40歳になる歴戦の兵士とて、目を見開いて立ち尽くす他に術を見出せない。
 鞄や衣服、雑誌や、床から引き剥がされた座席が積み上げられ、バリケードとなり、燃えているのだ。兵士の鼻は油の臭いを嗅いだ。これもまた、持ち込み厳禁の可燃物だ。

「おい、機長は無事か――っ!?」

 後方から別な兵士――こちらは20代だろう――が駆け込んで来て、先の兵士と同じように絶句する。彼は、先程から呼び掛けに応じない機長の様子を確認しに来たのだ。
 歯嚙みする。機長さえ無事なら、まだ不時着の目があるというのに、応答が無い。意識を失っているのかも知れないが、叩き起こそうにも、コクピットへの扉までの数メートルが遠い。忌まわしくも道を妨げる炎の壁を前に、各種の武装は全くの無力だ。

「お手伝いします」

 その時、涼やかな声が背後から吹いて、二人の兵士の耳を撫でた。振り向くとそこに〈積荷〉の一人、アデラ・アードラーが立っていた。
 彼/彼女は十指を顔の前で絡めて祈りの姿勢を取り、指の甲に額を預けて軽く俯いていた。異形の眼――黒い強膜と白い虹彩の眼は、癖であろうか細められ、瞼の間に特異性を押し込めている。
 アデラは、そのまま、前へ進んだ。祈りの姿勢のまま、炎の中へ踏み込んだのだ。

「おっ――おいっ、お前!」

 兵士の喉から、驚愕と困惑で震えた叫びが絞り出される。油の悪臭の中に、人体の焼け焦げる酷い臭いまでが混ざった。アデラは炎の中を数メートル歩き、コクピットの扉の前に立つと、穏やかな心根を表す微笑みを見せた。

「ご心配なさらず。焼かれるのは慣れましたので、大丈夫です」

 兵士二人は声を失ったまま、炎の中に立つアデラを指差し、口をパクパクと動かした。
 アデラは扉の開閉レバーを掴んだ。分厚い金属の扉自体も、炎によってかなりの高温になっており、掌が焼けて開閉レバーに張り付く。相応の痛みはあろうに、それを〝もう慣れた〟というだけの理由で耐えて、アデラは扉を引いた。
 動かない。ハイジャックに備え、旅客機の扉は厳重なセキュリティにより守られている。

「うーん」

 炎の中でアデラは、せいぜい〝瓶の蓋が開けられずに困っているような〟程度の声を上げた。そして、ぴょんと小さく跳ねるように、炎の外――兵隊二人の間に立つよう飛び出した。

「少し下がっていてください」

 衣服の半分ほどを焼失した姿で、アデラは言う。焼け落ちた衣服の間に見える皮膚もまた黒く炭化していたが、それは兵士達の目の前で、瞬時に元の白い肌へと修復されていく。真白の髪は背に広がって、炎が乱す気流に靡いて、建国神話に語られる悪魔の白翼のようだ。重武装の兵士二人は、言い知れぬ恐怖に引きずられるかのように後ずさりした。
 そうして生まれた空間を、アデラが馳せる。
 人が出せる速度ではなかった。
 人体が、自分を破壊することと引き換えに瞬間的に発揮できる〝全力〟で、アデラは疾駆したのだ。
 一歩ごとにアキレス腱を断ち切られ、足首や踵の骨を損傷しながら、それを瞬時に修復して、アデラは5mほどの距離を四歩で駆け抜けた。60kgに満たない人間の肉体が、恐ろしい音を立てて、金属の扉へぶつかって行った。
 びしゃっ。
 肉袋が破裂して、骨が砕け、内側の臓器が潰れ、裂けた血管から大量の血が機内へぶち撒けられた。即死であった。アデラの肉体が無惨にねじくれて、未だ燃え続ける床に伏す。多量の出血がわずかばかり、床の火勢を削ぐ。

「開きましたかっ!?」

 数秒。アデラが、立つ。すでに全身の修復が完了している。眼前の扉は大きくひしゃげ、しかしまだ開いていない。

「ならば――っ!」

 それを見て取った次の瞬間、アデラは再び扉から距離を取り、そしてまたも、人外の速度で駆けた。
 二度。
 三度。
 城壁へ破壊槌が打ち込まれるように、アデラの肉体は扉へと叩き付けられ、その度にアデラは即死と再生を繰り返す。
 ついに扉がひしゃげ、僅かに隙間が開く。そこへアデラは、身体を強引に押し潰しながらねじ込み、〝再生する自分の身体をジャッキ代わりにして〟扉をこじ開けた。

「機長さん! 無事で――」

 コクピット内に踏み込んだアデラは――血溜まりを踏んだ。
 副操縦士の割れた頭と、機長の裂けた喉から溢れた大量の血が、狭いコクピットに赤い池を生んでいた。
 副操縦士は座席に座ったまま。機長は床の上で、緊急用のアルミ斧を手に絶命していた。副操縦士を背後から襲って殺害した機長が、自身の喉を切って自殺したものと思えた。

「……酷い」

 自分の血はもう慣れたアデラだが、他者の死は別だ。〝悪魔〟と忌み嫌われた己などよりよほど誰かに愛されただろう者の亡骸。それは悲劇に伴う、見知らぬ何百人もの慟哭を、錯覚として脳髄の内に響かせる。悲痛な幻聴が喉から迫り上がるのを、粘つく唾と共に飲み込んだ。
 背後で、ガタガタと物音がした。先程の兵士の一人が耐火シートを貨物室から見つけて、床の炎の上に敷き、コクピットへ入って来たのだ。

「どうした、おい――っ」

 熟練の兵士は、さして驚く顔も見せなかった。室外まで漂う血の香りに、既に内側の惨状は予想できていたようだ。彼は機長の死体を跨ぎ越すと、座席に腰を滑り込ませ、操縦桿を握った。

「動かせるんですか!?」

「ああ、これでも空軍落ちだ」

「良かった、お願いします! 落ちたら皆、誰も助けられなくなる……!」

 熟練の兵士が、墜落を続ける機体との格闘を始めるのを見て、アデラはコクピットを抜け出す。ここに、これ以上力になれることは無い。ならば他に、身を尽くしてでも人を助けられる場所があるのでは。
 そういう場所が、あって欲しい。
 願うように、祈るように、アデラは機内を駆け戻る。今度は機体後方で火と戦う誰かを救えないか――
 走るアデラの進路上、座席と座席の間の通路に、ソフィー・リーが膝をついて嘔吐していた。

「っ! 大丈夫ですか!?」

 咄嗟に駆け寄り、助け起こす。負傷は無い。あったとしても、恐らくは瞬時に再生されているだろう。立ち上がってみれば、体を支える両脚に揺らぎは無い。

「お前のツレ……頭ァおかしいんじゃねえか」

 ソフィーは、青ざめた顔で言った。
 一瞬、ソフィーの視線が後方へ向く。アデラがその視線の先を追うと、シェイマスが、イリーナの座席の後ろに立っている。アデラの立ち位置からは、座席もシェイマスも背面しか見えないが、長身の少年の背は、はっきりと分かるほどに震えている。
 座席の正面に回り込んだアデラは、まず一度、息を呑んだ。呑み込んだ息をゆっくりと吐き出し、肺を空にして数秒。泣きそうな作り笑いを浮かべて問う。

「何を……してるの?」 

「アデュー、無事だったのね。怪我は……無いか。痛い思いはしてない?」

 イリーナは、視線をシェイマスがかざす手鏡に映る、己の脳髄へ固定し、両手に持つ小さな金属片で脳漿の一部を切開しながら、友人の帰還に安堵の微笑を浮かべた。
 イリーナの頭部が割れていた。
 闇そのものの色をした黒髪の間、頭蓋の一部が切除されて、内側に秘めた脳髄が剥き出しになっているのだ。イリーナはそこへ金属片を当て、一部を小さく切り出しては、テーブルの上のトレイに並べて行くのである。

「い、痛くないの?」

「平気よ、脳そのものには痛覚が無いもの。……ちょっと頭は痛いけどこれくらい平気、それより聞いて」

 イリーナは自らの脳を細切れにし――その端から、脳は欠損を埋めるように再生を繰り返す――ながら、

「シェイマス、あんまり震えないで。見えづらいわ」

「あ……あんた、イカれてらぁ。あの枢機卿の女よりよっぽど狂ってるよ!」

「そう?」

 歯の根が鳴るほどに震えながら、しかしシェイマスは逃げようとしない。ソフィーよりは幾分か肝が座っているようだが、その彼でも、イリーナの行為は狂気的としか思えないらしい。
 だが、彼女が自らの才知の根源を切り刻むには理由がある。全く結果のみを考慮した、人間らしからぬ理由が。

「アデューは、全員を助けたいのでしょう?」

「……うん、そうだよ。それとこれが、何の関係が――」

 頷いたアデラの頬に涙が伝う。その為に命さえ捨てても良いと願う友人が、酷い痛みに耐えているだろうと思い、流す涙。血塗れの手が伸びて、アデラの濡れた頬を撫でる。涙は拭い取られ、代わりにイリーナの血が、アデラの頬に文様を描いた。

「馬鹿ね、泣かないの。……あのね、アデュー、この飛行機は落ちるわ」

「大丈夫だよ、コクピットの扉は開けた! 操縦できる兵士さんも居たし――」

「別な兵士が言ってたわ、燃料がかなり漏れてるって。私も知らなかったけど、飛行機の燃料タンクって、主翼の中にあるのね」

「――――――」

 その言葉に、イリーナを除く三人が窓の外を見る。半ばからへし折れた主翼が、僅かに抱いていた希望ごと燃え上がっている。

「じゃあ、助けられないの?」

 絶望的な光景を見て、アデラが最初に言うのは〝それ〟、他者への献身が叶わぬことへの懸念だった。場違いな心配事を抱えた彼/彼女の両頬へ、シェイマスとソフィーの訝るような視線が左右から突き刺さる。

「いいえ、助けるわ。それがあなたの望みでしょう、アデュー」

 友人の〝歪み〟に慣れきったイリーナだけが、ずれた言葉をあっさりと受け止める。
 脳髄の切除を終えた彼女は、テーブルに三十少々の小脳片を並べている。切り出した〝大元〟の脳髄と、それを覆う頭蓋、皮膚は既に修復を完了。顔に伝う血と組織液の他は、平常の姿に戻って言った。

「これを兵士達に食べさせなさい」

 シェイマスとソフィー。それにアデラまでが、数秒立ち尽くし、幾度か瞬きを繰り返した後、

「は?」

 自分の耳を疑って、問い返した。

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