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竹取の翁とかぐや姫

「わたしね、月に帰ることになったの」

 そう告げると、沖名は宿題をしている手を止めてこちらを見た。
 月、というのは私が二歳になるころまで住んでいた月島町のことである。
 ここよりもずっと北の方にある町で、ちょうど今住んでいるところとは日本のはしとはしといっても過言ではないくらいに離れていた。

「この前行ったばっかじゃなかったっけ?」

 お盆に行ったばかりだから、まだ一ヶ月ほどしかたっていない。沖名の疑問はもっともだった。

「あ……あのね、遊びに行くんじゃないの。お引越し、なの」
「は?なんで、そんな、急に……」
「おばあちゃんがこの前倒れちゃったじゃない。それで、一人じゃ生活するのがむずかしいみたいで。お母さんは前から月に帰りたがってたから、一緒に帰ろうって」

 沖名の表情が、驚きから悲しみと悔しさの混じり合ったものに変わった。
 言葉を探すように何度か口を開いては閉じ、そして

「お前だけ、残る……とかは?」

 やっと搾り出したのはそんな言葉だった。

「あんたばかなの?」
「はあ? 俺はただ姫香と」
「わたしたち、まだ小学生なんだよ……?」

 わたしが被せるように言った言葉で、この時さえぎられた沖名の言葉の続きはなんだったのだろう。
 わたしだって行きたくなんてなかった。でも、自分はあまりにも幼くて、無力で、それがどうしようもなくくやしくて。
 いつのまにか溢れていた涙をぬぐう自分の手の小ささに、よけいに涙がこぼれた。

「今日は、帰る……」

 なんとかそれだけ言うと、わたしは自分の荷物を乱暴にランドセルの中につっこみ、沖名の家の真向かいにある我が家へと帰っていった。
        
        ◆   ◆   ◆


 ほんとうに、かぐや姫みたいだと思った。
 姫香という名前と、お母さんがアンティークものの家具のお店で働いていることから、わたしはよくかぐや姫と冗談でよばれていた。
 そして、そんなわたしと家族のようにいつも一緒にいた沖名は、その名前のせいもあって竹取りじいさんとしばしばからかわれていた。

 ひとり自室のベッドに腰かけ、窓の外の月を眺めながらあの時のことを思いだす。
 おばあちゃんが再び倒れたと連絡が入ったのは、その日の夜のことだった。
 それからいそいで月へと向かって、やっとおばあちゃんの容態が安定したころには、本来の引っ越す予定だった日の直前となっていた。

 前住んでいたところの友達には、ひとことのお別れの挨拶もしないで月へと越してくることになってしまった。
 そのときにもわたしはずいぶん泣いて、もう一度みんなに会いたいとせがんだのだけど、

「おばあちゃんが死んじゃうかもしれないって時だったんだからしょうがないでしょ?!」

 と母に怒鳴られては黙るほかなかった。
 あれ以来、沖名とは一度も連絡をとっていない。
 一度だけ、向こうに戻らずそのままこちらに住むと決まったときに、沖名の家へ電話をしてみたことがある。
 けれど、電話に出たのは沖名のお母さんで、

「あら、沖名ならいまお友達の家に遊びに行ってるわよ?」

 なんて言われてしまって。
 こっちはおばあちゃんを見守るかたわら沖名のことが気になってしょうがなかったのに、むこうはわたしのことなんてどうでもいいのかなとか。自分はこんなに大変なのに沖名ばっかりずるいとか。遊びに行ってるお友達の家って女の子のお家かな、とか。
 そんな子供じみた汚い感情でいっぱいになってしまって。

 「かけなおさせようか?」ときいてくれた沖名のお母さんに「いいですっ」と返事をしてすぐに切ってしまったのだった。
 それ以来、自分の醜い感情を見るのも、沖名がわたしのいないあの町で楽しく過ごしてるのをみるのもこわくて、だから沖名に連絡がとれないでいたのだ。
 それに、家が近いというだけで、血のつながりもなければまして恋人でもないわたしからの連絡なんか、沖名にとっては邪魔なだけなんじゃないかとも思うし……。

 あれからずいぶんとたって、わたしは中学生になった。
 今日こそは、やっぱり沖名に電話してみようかな。そんなことを思ったのは、今日学校で好きな人について友達と話したりしたからだろうか。
 と、そのとき。
 携帯を買ってもらってから、めったに鳴らなくなった家の電話が着信を告げた。
 今は家にわたししかいない。あわてて電話にでて、そして――

『竹取物語から約千年。アポロ11号に乗って、人類は初めて月へと降り立った』

 思わず思考が停止する。

『月はもう、誰にもたどり着けない世界の果てなんかじゃなくなったんだ』

 混乱すると同時に、その声の懐かしさに目頭が熱くなった。
 待って。なんだ、なんだこれは。
 この言葉からさっするに、沖名は、いま――

『いま、家にいる?』

 この言葉をきくと同時、わたしは玄関の扉を勢いよく開け放っていた。

「なんで、なんでここにっ」
「お前の母さんが俺の母さんに年賀状だしてたからさ、住所調べて、それで」
「そっ……か」
「そっかじゃねーよっ。お前は電話も年賀状のひとつもよこさないし」
「だ、だってそれは」
「こっちは馬鹿なこと言ってお前のこと泣かせちゃったし、お前はそのまま行っちゃうし。ほんとはもっとはやく来たかったけど、ぜってーお前怒ってるって思ってたから、こっちから連絡とかできないし」
「ご、ごめんってば」

 と、そのとき。
 急に真剣な顔つきになって沖名が口を開く。

「お前が引っ越すってきいてから、最後に会う日に言おうと思ってたんだけど」

 御伽噺みたいだと思った。

「なに……?」

 けれど、それは竹取物語とはぜんぜん違っていて。

「俺はあのときからずっと、お前のことが……」

 こうして、おじいさんとかぐや姫は末永く、幸せに暮らしましたとさ。
 めでたしめでたし。

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