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第二章 長崎海軍伝習所

❀1❀

 長崎出島は約二百五十年前に葡萄(ポルト)牙(ガル)の隔離のために、湾内に拵(こしら)えられた。
 石段を登り尽くすと、西屋敷の入口、左側には長崎を縦断する大通りがある。大通りから、また小径に分かれ、それぞれが下町と繋がっている。
 鍬次郎の入所した長崎海軍伝習所には造船所と鍛冶場があり、『製帆所』『フレガット船の器具展覧』『実地訓練所』といった具合に、敷地に主要場所が散らばり、生徒は奉行屋敷で学科を受ける。
 長崎の現在の季節は春の終わり。住み心地は悪くない。坂の上にある長崎奉行所の屋敷から、伝習所までは急斜面。数度の往き来で、へっぴりだった足腰も鍛えられた。
 入所半月も経てば、お気に入りの場所も見つけられる。鍬次郎が気に入った場所は、やはり桜の木々が植えられた一角だった。
(津にも桜があった。染井吉野という立派な桜があった)
 長崎の春はとうに通り過ぎ、葉桜も、もはや終盤に差し掛かる。もうじき散るものもなくなり、今度は青々とした葉が夏を彩る季節に変わる。
 ザアア、と海風が吹いた。葉桜が靜かに散る樣を、鍬次郎も、靜かに見詰めていた。

❀❀❀

 と、一枚の桜の葉が、鍬次郎の前髪にぶら下がった。(なんや)とむっとして指先で払うと、葉は指にべたついた。
(長崎の桜の葉、べたべたしとるん?)
 今度は白い塊が降ってきた。指先で確かめると。米だった。
(なんで飯が降ってきた? 祝い事か?)
 首を傾げた前で、「退(ど)かんかい!」のドス声と同時に、大きい獣が米と一緒に降ってきた。
「退け言ってるやん! あ、わわわわわわ――っ!」
「どわぁっ!」一緒にもんどり打って転がった。鍬次郎の上に飛び込んで来た男の肩を揺すった。男は頭から落っこちた。ピクリとも動かない。頭を打ったのだ。
「おい、大丈夫か! 頭、打ちよって!」
 狼狽(ろうばい)する前で、がばり! と起き上がったは少年だった。ムスっと怒鳴られた。
「吾の着地地点でもたつくそっちが悪い! ずんだれがァ!」
 呆気に取られる前で、素早く退いた。「吾(おれ)の飯!」と鍬次郎の頬についたご飯粒を抓み食いしてスタコラサッサと逃げた。
 ――頬の飯より、己に謝れ! 長崎の人間は、どうなっとるん!
「あーあー……あまり着替え持ってないというにドロが」
 泥がついた絣木綿を丁寧に払っていると、遠くから図体のデカい軍医が歩いて来る光景が見えた。兵器学科のヤン・カレフ軍医である。背中を丸めた鍬次郎に一目散に来た。
「……鰺を奪ったは、貴様か」和蘭陀語。首を傾げたら、軍医は日本語で伝えてくれた。
「お前の足元に証拠がある。よくも、海軍伝習所で鰺(あじ)弁当(べんとう)の盗み食いなど!」
 見れば、鍬次郎の足元に、さっきはなかった鰺の尻尾が落ちていた。冷や汗が垂れた。
「お、己、知らんて! 鰺なんぞ盗んでおりません!」
「言い訳は無用だ。ここは海軍伝習所。それなりのルールで処罰しよう。確か懲罰(ちょうばつ)部屋が空いたばかりだったな」
「い、嫌だ。なんで己が! 懲罰部屋なんて物騒(ぶっそう)や、怖い……っ!」
「反省は、後でたっぷりしろ! 来たまえ!」
(誰か! 異人さんに連れ去られる!)目を瞑った前で、「鍬次郎?」と対称的な優しい声に、鍬次郎は取り縋(すが)った。鍬次郎の首を掴んだ軍医が「ん?」と現れたヨハネス・ポンペを見やった。
「た、助けて……ええと、へ、ヘルプ! ノー、懲罰、嫌やぁっ!」
「ほら、きみも、弁当を奪われたくらいで、懲罰はやめなさい。私の生徒ですよ」
 鍬次郎は担当軍医ヨハネスの取りなしで、ようやく鬼軍医カレフから解放された。

❀❀❀

「失礼します……」げっそりとしながら教官室の前で頭を下げた。
 異人はすぐに裁きたがる。津の数人が怖れ戦いて辞退したとの話も頷ける。何しろ、伝習生徒は強い人間ばかり。机を並べていても、ギラギラしている。皆が、使命を背負って遙か長崎に飛び込んで来たが、良く分かる。
 それに、齣(くぎり)分けされた課題と日程のこの容赦のなさ。時間は限られているのだと謂わんばかりの詰め込みようである。予習・復習はもちろん、実地に至っては、理解するまで帰れない。異人の使うABCの記号で成績を監理される。分かってはいたが、何だかもう。
 部屋を出て、廊下を渡りきるところで足を止めた。そろそろ場所にも慣れてきた。(親父の刀)を思い浮かべる余裕もできた。
 ――聞いてみよか。誤解だって分かったわけやし。案外すんなり教えてくれるやも。
 鍬次郎はまた、教官室の前までやって来た。扉を叩こうと拳を作ったところで、中の会話が耳に飛び込んだ。
「津国の鍬次郎、試験の時から思っていたが、真摯(しんし)な人間だ。鰺を盗むはずがないよ」
(わ、己の話しとる)落ち着かなくなった。声音からしてヨハネスと、カレフが喋っている。褒めてくれているはヨハネス軍医だ。カレフ軍医の声は地響きがするほど低い。
「しかし、爆弾がいるだろう。彦馬だ。あやつ、カリキュラムを全部、終わらせて、講義はお昼寝タイムだとのたまった。上位舎(じょういせ)密(いみ)研究所(けんきゅうしょ)への斡旋(あっせん)もあるが、恐らく他の遊学生は、田舎へ戻る話になるだろうな」
「カレフ軍医。それ以上は和蘭陀語でお願いできます? 外聞を憚ります」
「長崎の問題児が優遇され、地方からの生徒が敗北か。中央から苦情が来る。まあ、地方で蘭学を広めてくれたら、それはそれで良いが。梅毒(ばいどく)の検査もできん国など、信じられん。奉行所に申請したが、いつ通るんだ」
「また、きみは、事ある事に梅毒、梅毒と」
 ――そろり、と鍬次郎は爪先を滑らせた。そろぉりと方向転換して、抜き足差し足で教官室を離れた。木造の床がギシと音を立てた。
 むかっ腹が立った。
「言ってろ、あほんだら」
 悪口を口にして外に飛び出した。
 伝習所にはよく西日が射す。西屋敷の別名を持つも頷けた。長崎の夕陽は淡い癖に眩い。橙の鮮やかな空。鴉が飛んで消えた。
 ――親父の刀、探そ。まだ陽があるうちに。
 鍬次郎は伝習所をぐるりと歩き回った。船が見えた。恐らく観光丸の辺り。ということは、ここは造船所か。妙な臭いがする。
 うっと袖で鼻を押さえた。試験の時のあの臭いだ。涙目になりながら、壁を見上げた。鬼が消えた地点である。
(間違いなく、ここだ。ほら、蔦が凄い絡まって。登れるか、やってみようか)
 ……止めておこう。己は運動神経があまり良くない。だが、実証はしないと、と片足を載せた。ぶつんと蔦が切れて、尻から落ちた。弾みに切れた蔦が頭を襲った。
「ずんだれ」
 低い声に振り向くと、少年がニヤニヤしながら鍬次郎を見やっていた。
「何やってるん。頭に葉っぱ、めっちゃ載っけてさ」
 突き抜けるような明るい声、一際ぐんと明るい髪の少年が「よう」と手を挙げた。
「講義では逢わない顔なぁ」とじろじろ鍬次郎を検分し、「まあ、いいか」とばかりにすり寄った。帽子を落とした行為に気付き、腰を屈めて拾って頭に載せた。
 ――あ、こいつ。さっき降ってきた顔、だよな?
「なに」と二重に迷惑を掛けてきた相手が気怠げに首を傾げた。
「……お陰で弁当泥棒として、処罰されるところだったで! 怖い思いさせよったな!」
「悪い、悪い。カレフ軍医に見つかるとは。まあ、弁当を置き晒して消えたから、かっさらったまでじゃ。とーぜんなかや。鰺は美味かった」
(何言ってるか、分からん)長崎の方言がまたもや理解の邪魔をした。
「悪い。己も方言ださんから、分かる言葉で言うて。ずんだれって、何や」
 少年はくるりと背中を向けた。どうやら笑っている様子だけは分かった。腹立つ。
 今度は振り返って「艦を見てたんかい」と眼を細めた。猫のように、表情がよくも変わる。今度は欠伸をして、眠たそうだ。
「処分されんと何よりでよか。ウロウロ何を探してる? 弁当の詫びに付き合おか」
「刀や。親父の……長崎に着くなり、鬼に奪われた」
 眠たそうな眼がぱっちり開いた。
「そりゃ、親父さんも、浮かばれとねえ」
(いや、死んでおらん。まあ、いいか。あほんだら親父やし)と鍬次郎は頷いた。
「長崎に着いた夜に、長崎の鬼に出逢った。んで、鬼は刀を奪って、ここ。この壁を飛び越えて消えた。でも、こうして見ると、結構な高さだなと思って試してたら、蔦が切れた」
 鍬次郎の言葉に、少年も頷いた。
「人間業(にんげんわざ)じゃなか。ほんまもんの鬼かも知れん。長崎には鬼が出よる。〝長崎の鬼〟がな」
 ――何が可笑しい。鍬次郎はむっとしてニヤニヤ笑いを浮かべた少年を見詰めた。
「長崎には失礼なヤツが多いわ。そんなわけで、己は刀を探さないと。何としても見つけてやるんや。鬼なんぞに怯えていては、津の和泉守樣に逢う顔がない。意地でもさがす」
「面倒臭いな」と少年は呟き、舌打ちをした。
「あんまりこの辺り、ウロウロして欲しくなか。手伝うわ。俺の友人にも声掛けよか。名前。見たところ、同じか、俺より下か。何て呼ぶ? 短めに頼むわ。名前を覚えるん苦手」
 基本あけすけな性格らしい。鍬次郎は名乗ったが、「鍬」ということで落ち着いた。弁当泥棒だの、人助けだの、つかみ所がない。
「俺は上野彦馬。長崎生まれじゃ。そうそう、盗むはカレフ軍医の弁当に限る。米めっちゃ詰まっとるし、何よりデカいから食べ応え充分」
 ――上野彦馬? こいつが?
〝しかし、爆弾がいるだろう。彦馬だ。あやつ、カリキュラムを全部、終わらせて、講義はお昼寝タイムだと〟 カレフ軍医の嘆きを思い出した。
「全部の課題を終わらせたって」
「眠たい、課題か? あんなんひつましか。なんの役にも立たない」
 彦馬は頬を光に向けた。つるんとした肌は、うっすらと陽に焼けて、少しばかり褐色に近づいている。
「吾(おれ)がやりたいこととは離れておったから。ささっと片したまでじゃ」
「やりたいこと? 伝習所で?」
 鍬次郎の問いには答えず、彦馬は長い腕を伸ばし、スタスタと歩き始めた。
 歩く速度が速い。草履を鳴らして、鍬次郎も続いた。
 やがて奉行屋敷に辿り着き、彦馬は学科を勉強していた学友を呼び集めたが、どうやら組が違ったらしい。鍬次郎の教室は東側だった。
 彦馬は集まった学友に手早く説明したが、やはり親父は殺された話になっていた。
「親御の形見? 鬼に奪われた? そりゃ、難儀なこっちゃ。じゃらじゃら(ふざ)しとっ(け)たらあかんな。なあ、彦馬。刀はまずい。きゃっきゃ(おに)が来る」
「長崎界隈では、あっという間に売られる。売買が整っておるから。ひっちゃ(いちいち)かまし(こま)か(かい)の奉行に見つかると、またやかましか」
(だから、好き勝手に方言を使うなっての。人の話をちっとも聞かん、上野彦馬!)
「あのさ、分かる言葉で話そうやない。方言、あかへんでしょ」
 彦馬と多分、四国(だろう)の友人の視線が鍬次郎に同時に向いた。彦馬が額を近づけ、眉を顰めた。「何ぃ言うた?」と不愉快そうな声を出した。
「ほんま、田舎の方言ちぃともわからん。おまえさん、なんて言ぅた?」
 上野彦馬とは、このように勝手で、大層な自信過剰少年だった――。

❀❀❀

 一人二人、三人、四人。人海戦術で彦馬は刀を探してくれたが、やはり見つからなかった。夕暮れになり、ぽつんぽつんと伝習生は去って行った。
「大切な、ものなん?」泥だらけになった顔で、彦馬は、ぼそりと呟いた。
「ああ、まあ、親父のモンやから。黙って持ち出した己がいけないんだけど」
 ふーん、と言いたげに空を見て、もう夕焼けに心を遊ばせている。
「上野、やりたいことと違うて何や」
 彦馬はよっと背伸びをして、切っていたらしい手の甲を舐めた。泥を口にして「うへぇ」と吐き出した。
「おいそれと教えるか。んだな。吾のことは彦馬でええよ。今度の試験で一番を取って見せて。その頃にゃ、親父殿の形見も見つかるって、な? まあ、無理か。舎密は難しいし」
(なんだと!)喧嘩を売られたと思った瞬間、遠くから「彦ー」と数人が声を掛けた。最後に「鍬」と付け足して手を振った。
「遅くまで、すまん」と鍬次郎は大きく手を振った。
 一時の友人たちを、温かく見守った。素性も分からない鍬次郎のために、泥だらけになった学友は、頼もしく思えた。
 鍬次郎は慇懃無礼ではあるが、上野彦馬にもきちんと礼を述べた。ただし、言葉の壁の方言で。伊勢の方面の清水婆がよく使っている「すんませなんだな~」と。
 意味がわかったらしい。彦馬は「いんやぎーん」と笑顔で告げた。

❀❀❀

 ほくほくのふかし芋の気持ちで、鍬次郎は奉行所に帰り着いた。
 奉行所には、これでもかと書面が溢れ返っていた。見ていたら、一つの山が崩れた。
「おい、鍬。駿河守樣がそこの書類を纏めろって」早速、扱き使われる気配。
 鍬次郎は宿を借りるかわりに、奉行所の仕事を手伝っている。些か横暴な気もするが、宿無しよりは、ましだ。教材を置くと、八沢通詞の隣に胡座を掻いた。
「まったく、ひっちゃかましかやな」ふと八沢が彦馬と同じ言葉を吐いた。
 鍬次郎はさっそく一つの書簡を手に、問うた。
「八沢さん、今日な、友達できたんやけど。そいつ、何を言ってるかさっぱり分からんて。ええとな、まず、ずんだれって言われたわ、あと、いんやぎーんて意味何やろて」
 役人が偲び笑いをした。むっとする鍬次郎に、八沢は、にやりと笑って続けた。
「平たく言えば、かっこ悪い、だな。いんやぎーんは、〝なんだ、このやろう〟だ」
 ……どう解釈しようと、笑顔で言う台詞やない。
(なんで、すみませんでした、が、なんだこのやろう! で返される! ああ、分からん、長崎ちーっとも分からんし、分かりとうない! あんなヤツに負けて堪(たま)るかい!)
 決まればこんな仕分けをしている場合ではない。鍬次郎は手の速度を上げた。
「ここに置いときます!」と頼まれた書類の仕分けを手早く済ませた。怒りに任せて、どかどかと砂利を蹴りながら、離れの部屋に帰り着いた。
「かっこ悪くて悪かったな! なんだこのやろうは、こっちの言葉だ! あほんだら!」
 ――勉強したる。あんなヤツに負けてたまるか。ああ、勉強して、一番取ったる。
 怒りに任せて教材を捲って、半分以上をすっとばして、冷静に還った。
 彦馬の決意の籠もった横顔が、脳裏から離れない。
「俺のやりたいことと離れてる……か」
 鍬次郎は筆を止めた。己のやりたいことは、果たして見つかるのだろうか。
(いいや、見つけたかも知れん)視線の先には、舎密学の文字があった。

❀2❀

「よそわしか」鍬次郎の顔を見て、上野が眉を顰めた。
 気付かなかったが、伝習生の中には、講義を選んで参加している者がいる。しかし、巧い具合に講義は必要な内容を揃えており、舎密学は蘭学と同じ種別に分けられていた。
 上野彦馬も、選択としてヨハネス・ポンペの授業に顔を出していたし、見ればヨハネス軍医の講義生は結構な人数の人気の学科だ。
「よそわしかって何や。あー、ええわ。どうせ、ロクな言葉じゃなさそうやし」
「汚ったねぇって言ったんだ。眼が真っ赤で、ギラギラしとる」
「人のこと言えんか。なんだ、目の下、どすぐろで」
「これは、夜更かしした証。別にガリガリ机に囓りついとぅわけじゃなかよ!」
 似た者同士の二人は、一定の距離で睨み合った。先に肩を竦めたは彦馬である。
「ひだるか~」と興味を失った如く、去って行った。
(ひだるか~って。今度は何だ。いちいち気になる。長崎の田舎弁、ちっとも分からんし、和蘭陀語よりこう頻繁に出されると、勉強せなあかんかな思うやんか)
 不愉快になった鍬次郎に構わず、今度は彦馬は、外に見える戦艦に心を遊ばせていた。
(こっちの気も知らんで。そっち、見てろ。己はもう少し勉強する)
 突然、彦馬がはっちゃけた声を発した。
「凄い、かっこよか! 帆ぉ揚がっとるん、初めて見た。鍬、損せんと見とけ! なかなか見られんもんじゃ。観光丸が帆揚げとるよ」
 ――今の、口調……。〝凄い、かっこよか!〟
 鍬次郎は、はたと気付いた。長崎の鬼に口調が、似ている。
(まさかな)と、欠伸を噛み殺して涙を拭っている彦馬の横顔を睨んだ。
 ――いや、考えすぎ。昨日は誰よりも一生懸命に刀を探してくれておったし……。
 先生がやってきた。白い服のヨハネス軍医は、遠目からも目立つ。姿勢がいいし、ふわふわの金髪も悪目立ちしている。
「みな、席に着きなさい。試験を始めますよ」
 ――いよいよだ。
 鍬次郎も、彦馬も席に着いた。とはいえ、いろは順なので、〝ほ〟と〝う〟では距離は遠い。互いに姿が見えなければ、余計に疲れる意地の張り合いも減る。
(一番を取ったら、俺のやりたいこと、教えてもええ)彦馬の言葉を噛み締めた。
 ……長崎の鬼。鍬次郎は頭を振った。違う。でも、似ている……。
 きょろきょろしていたら、不正行為と疑われた。
「堀江鍬次郎。二度目はないですよ。心して解きなさい」
 彦馬は涼しい顔をして、文字を走らせている。良く動く眼だ。獲物を狙う鬼に見えた。
 ――いや、違うやろ。
 舎密学とはオランダ語で、〝化学〟を意味する単語「Chemie」を音写して当てた言葉である。江戸でも一部の地域にしか流通していない学問だ。だが、読めば読むほど、鍬次郎の興味をそそる。幼少の〝障子に映った逆さの柳の葉っぱ〟も解明するかも知れない。
 物には重さがある。液体は蒸発して、分解する。全ての物質は細かな粒子で成り立ち、己の体も、同じ仕組みでできている。
 仕組みを知るは第一歩だ。長崎の鬼……いや、今は集中……もしも彦馬が鬼なら、刀はどこへ行った。
「堀江鍬次郎。不正行為しないように見張ります」軍医が、ぴったりと鍬次郎の横に立った。しかも、ヨハネス軍医は時折(ときおり)かつかつと爪先を小さく打ちつける。そのせいで、最後の問題の答を思い出せないまま、流れる如く、試験の時間が終わった――。

❀❀❀

(ああ、もう! 最低や、最低! 絶対に最後、間違えておる気がする! 元に戻したい)
「堀江鍬次郎、机に齧(かじ)り付いていないで、用紙を」
 無情にも用紙を回収した後姿を睨んでいると、ヨハネス軍医が振り返った。
 舎密学は難しい上に、ヨハネス軍医の評価が厳しい。どやどやと生徒が出て行くと、教室には鍬次郎と彦馬が残った。
「鍬次郎、皆は舎密が嫌いなようです。次回の人体解剖を恐れているのでしょう。ようやく、献体(けんたい)の手配ができました。日本では初となるでしょうが」
(ひぃ)と思いつつ、鍬次郎はヨハネス軍医に寄った。
「何を臆する必要があるのですか。舎密を知らずに何ができるのか。むしろ、知る機会がある奇跡を光栄と思いなさい。伝習所にね、もう一つの研究施設ができるのですよ」
 ヨハネスはゆっくりと喋る。時折ちらほら和蘭陀語が混じるが、基本的に日本語だ。たどたどしさはなく、かと言って、異人くささもない。〝軍医独り占め〟の褒美を噛み締めたところで、彦馬が割り込んだ。
「それ、無理矢理どうにか蘭学に向けようと、できた施設。ヨハネス軍医、悪どいわ~」
「私のどこが悪どいと? あー、聞き捨てなりませんね」
「鍬の意見を聞かんと、舎密から蘭学に導いとるやん。聞いてて苛々、舎密に興味を持たせといて、お国がため、蘭学やれと言ってるやん。あー、吾は絶対に言うことなんぞ聞かん。おまえさんも、素直に従ってアホか、ずんだれ」
「きみが、私の言うことをいつ、聞きました? また性懲りもなく牛の頭を引き摺って、屋敷を泥だらけにしたは、きみですね! 掃除しなさい!」
 彦馬はそっぽを向いて、にたぁと笑った。「んじゃ、あいばねぇ」と逃げて行った。
(今のは分かった。さよぉならや。しかし、牛の頭を引き摺ったって?)
「きみも、早く帰りなさい。また、花魁行列の波に呑まれて、帰れなくなりますよ」
「ヨハネス軍医、己は、舎(せ)密(いみ)面白いと思います。蘭学もやるんで、もうちょっと知りたい」
「嬉しい言葉ですよ。しかし、道は険しいです。まあ、きみは筋が良いからね」
(わ、褒められた。ヨハネス軍医、好っきや)
 へら、となったところで、また邪魔者彦馬が顔を出した。「ずんだれ」とからかって、頭を引っ込めた。
 ――また、ずん(かっこ)だれ(わりぃ)言ったな。鍬次郎は彦馬の後姿を睨んでいたが、ある一点に気がついた。途端に背中が寒くなった。彦馬の、袴……。
 見間違えはしない。いくつ同じような袴を持っているのか、今までの袴は丈が揃っていたから気付かなかった。今日の彦馬は、丈の高さを変えて、太腿を剥き出しにしている。
 ――動かぬ証拠があるやないか! あの、へんてこ袴の丈や! 間違いない。長崎の鬼!
 ……とすると、彦馬は平然と、刀探しに参加し、「そのうち見つかるし」などとのたまった。おちょくられたと、ようやく気付いた。額に青筋が浮かんだ感覚。鍬次郎は突進した。
「おんどれええええー! 待たんか! 返せ、己の親父の刀ぁ!」
 眼の前をスタスタ歩いていた足が、止まった。胸ぐらを掴み上げたが「何のハナシですか?」と涼しくも、にっこり言い返された。
(あれ? 違うのか)と躊躇(ちゅうちょ)した鍬次郎の前で、横を向いた彦馬の頬が揺れた。
「もう、辛抱(しんぼう)ならん。笑ってもうたから、終わりや。おまえさん、面白い! せびらかしたくなる。がっはっはっは! そう、長崎の鬼は吾(おれ)だよ。随分、騙されたなぁ」
 大層、満足そうに笑った。顔に似合わず豪快な笑い声は、いかにも〝長崎の鬼〟を物語っていた。

❀❀❀

「ほんの冗談やってん」と彦馬は、怒りの鍬次郎に悪びれもなく告げ、眉をひそめた。
「おまえさん、どこまで従いて来る」
「親父の刀や。おまえやろ、持ってったの。あ、思い出した! おまえ、何か物騒な言葉言って己が油断した隙に逃げたんや」
「斬れんかったわ。首」
「冗談やない! 己の刀で首なんぞ、斬るな!」
 ――おえ。忽(たちま)ち強烈な臭いが鼻を冒した! 
 即座に口元に布を引き上げた鍬次郎の前で、彦馬はがさがさと草むらに進んで行った。
 ちょうど、城壁の後。壁を少し離れた場所に、藁が山になって積んである。
「斬らんと、脳味噌は取り出せん。まあ、笑ぅたから、ここらで返す。ただ、仰天すな」
 黒い大きな虫がぬぅと出て来て、葉っぱの陰に、ちょろりと隠れた。津国より、でかい。温かいからか、虫は健やかに育つが、ちっとも穏やかではない。
「お、ごっかぶり」と彦馬は地中に手を突っ込み、掴んだ刀で虫を払った。
 久方ぶりに見る、親父の刀が帰ってきた。ゴテゴテとした柄は間違いがない。
「ほい、返す。ちょっと使っただけやん」
 嫌な予感。ようやく戻って来た刀を抜いた。折損までは行っていないが、刃は擦れて使い物にならず、何を切ったのかべたついている。その上、綺麗だった刀剣の歪曲したラインは見る影もなく、ただの、金棒だ。見るも無残な醜態を晒していた。
(親父の、堀江の刀が!)柄以外は、ボロとしか言いようがない。
「おまえ、己の刀、こんなボロにして! 鍛冶屋へ持って行かんと! 何してくれとるんじゃ!」
「刃毀(はこぼ)れくらい。唐人屋敷の中の婆さんが打ち直せるよ」
「刃毀れ以前の問題やろ! 聞いてるんかい!」
 口をぱくぱくする前で、彦馬は藁を足で蹴り退かしていた。
 見えたは、ぼろぼろの、獣の頭。しかも腐っている。
(何じゃあああ!)と飛び退いた前で、彦馬は一度「もうあかん~」と吐いた。だばだばに溢れたヨダレを拭って、息も絶え絶えになった。
「牛の腐った頭から、薬品ができる。どうしても、必要やけど、長崎に売ってない。えろぅ苦労した。唐人屋敷のゴミだめから、引き摺って、奉行に追いかけられるし」
「……己、多分、最後の問題を間違ったから!」
 彦馬は「何け?」と首を傾げた。
「だから! 成績で一番取ったら教える言うたやろ! 己、一番やないと思うから、聞くわけにはいかん……」
「真面目なやっちゃねえ。おまえさん。そういうやつ、吾は好き」
 彦馬は軽口を叩くと、さらりと謝った。
「刀、悪かった。言うたる。吾の目的。舎密学の一部や。ヨハネスが持ってて、使えないとぼやいた。写真湿板(しゃしんしつぱん)、言うやつ」
 口を覆っているせいで、彦馬の声はモゴモゴと籠もる。彦馬は続けた。
「感光(かんこう)材料(ざいりょう)の一種で、ヨウ化物を分散させたコロジオンを塗布した無色透明のガラス板を硝酸銀(しょうさんぎん)溶液(ようえき)に浸す。湿っているうちにとっと(撮っ)っと(て)し、硫酸第一鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液でくつけて、転写すると、今が映るんよ」
「ちょっと待て! 一気に喋るな! 写真湿板なんて知らん。さーっぱり分からん」
「現在が、映るらしいで。薬剤がなくて、試せんいうから、吾が作って……くっさ。もうあかん、くっさいわ! しかも、なあ、明かり、こっち向いてん……」
 城壁が照らされ始めた。一番に正体に気付いた彦馬が叫んだ。
「長崎奉行所やん! 逃げんで! 少しばかり、むしり取れたから何とかなる。骨と、肉! 壁、壁超えれば逃げられる。西屋敷の裏山には、ごっかぶりが多いが、文句言ってられん」
「いや、そこは文句言わせてくれ! ごっかぶりとは遭遇したくない!」
 彦馬は意図も容易く壁を乗り越えて見せた。突き出した尻をオンボロ刀で、どすっと突いてやった。ごっかぶりと引き替えに、奉行たちからは逃げ切れたらしい。
「火ぃつけるとな、背中に町内会が来ん。まあ、写真湿板に残したら、後世を驚かせるかも知れん。――刀、済まんかった」
 急に口調を真摯に変えた彦馬の笑顔が眩しい。
「そんでも、現在を残せる。そんな夢のような、技術が舎密学にはある。やらん手はなかやん。とことん、やったるで。あー、ひだるか~」
 ――なにがだ。ごっかぶりと遊んでろ。人の刀をオンボロにしておいて、夢語りか。
(なんや、台風の目みたいな男やな、上野彦馬)
 しかし、巻き込まれてみるも面白そうだ。
〝飛び込みゃええ。いつしか泳いどる〟和泉守の言葉が、鍬次郎の心に温かく甦った。
 ちなみに「ひだるか~」は「あー、腹が減った~」の意味だと、後に聞いた。

❀3❀

「ひだるか~……食うか?」
 彦馬が腹ぁ減ったと喚き、差し出したモノはどうやら食べ物らしかった。
 ふんわりとした焼けた匂いがする。鍬次郎は手持ち無沙汰を誤魔化していた竹蜻蛉(予定)を置いた。
「ほれ」と半分に割って見せた真ん中に顔を近づけた。どうやら小豆餡。餡はお萩で馴染みがある。ふわっとした香ばしい香りに混じって、甘い匂いが鼻をついた。
 しかし、この餡をくるんでいるものは、いったい……。
「あんパン言うて。小麦粉練った真ん中に餡を仕込んだ食い物。長崎には、色んな食い物が出回っちょる。どれも美味しい。ほんなこつ長崎はよか」
「嬉しいがな……時と場合があるやろ……」
「さっき見たモン、いつまで引き摺っちょる。まあ、ぶよぶよしてたが」
(うっぷ。思い出してもうた)鍬次郎は固く眼を閉じたが、閉じたら閉じたで、色鮮やかな臓器の数々が浮かんでは消えた。
 つい先ほど、ヨハネス軍医の実地講義が終わったところである。お昼前の時間をめいっぱい使った蘭学の実地の講義は、〝人体解剖〟と呼ばれるものだった――。

❀❀❀

 いよいよ、この日がやって来た。中央に置かれたものを見やる。皆の顔には大きく「嫌だ」の文字が浮かんでいた。
 ヨハネス・ポンペの蘭学の実地である。
 筵(むしろ)を被ったご献体に、皆で胸に十字を切り、合掌した。
『見ていてください。己の体内の仕組みを、これから見せます』
 ツゥ、と溶けるように斬られる肉体の柔らかさに、まず驚いた。次にむっとした臭い。
 口を覆っていても、鼻に届く。この時点で数人が逃げた。すっかり皮膚を切り取ると、まだ色鮮やかなぶよぶよした臓器が見えた。この時点で、数人が消えた。
 気がつけば、広い造船所は、ヨハネスと鍬次郎だけになっていた。
『まだ、動いてますが』
『ええ、体内の臓器は、命が止まるまで、時間が掛かる。こう、骨に護られて配置されているのが分かりますね』
 鍬次郎は覗き込んだ。なかなか興味深いが、血でよく見えない。噎せ返るような血液と体液の臭いに負けじと聞き返した。過ぎった事項は、知っておいて、損はない、だ。
『この白い線、何ですか』
 ヨハネスは驚愕(きょうがく)の眼を向けた。
『これは、神経筋です。もう死んでいるので、緩んで切れそうになっている。鍬次郎。きみは、死体に慣れているのですか。全然動じないが……逆に心配になって来ますね』
(そんなはず、あるかい、我慢しとるんや!)
 質問を続けていると、彦馬が口を挟んできた。
「これが、呼吸をするための臓器? んで、こっちが消化の……」
 むかっ。不愉快さを顔に出すと、彦馬はふふんと笑った。「こっち、壊死しとる?」とわざとらしく高度な質問を見つけて、分からない話をしてやったぞと、見せつけた。
 逃げた数人が戻って来た。ヨハネスは丁寧に説明を始めたが、また数人が脱落した。
『では、こちらを切って行きますよ。ここに命令をする機関が』とヨハネスは献体の頭にナイフを当てた。ギザギザになっていて、切れ味は良さそうだ。
 だが、その後に見たものは、忘れたい。鍬次郎は蘭学には向いていないと悟った。
『あれなら、切れるとばい。首……』性懲りもなく彦馬が呟いていた――。

❀❀❀

(己の中も、あんなんちゃんと入っているのかいな。かなり恐怖やで。凄い仕組みや)
 窓の外を見ると、葉っぱが風に流されてゆく。雲が速い。穏やかな時間だ。
「要らんの? 食うてええかい」暢気な彦馬は美味しそうな食べ物を、また口に運んだ。
「蘭学に興味は出ん」ともしゃもしゃと噛みながら、彦馬はちらと右上に目線を置いた。
 言い倦(あぐ)ねている様子だ。鍬次郎は椅子を進めた。
「さっき興味あるように見えたけどな」
「吾のやりたいことは違うと言うに」
 彦馬はぴしゃりと言い切ると、食べ終わったあとの指をぺろりと舐め、猫がふいっと動くような素っ気なさで歩き出した。
「おまえさんに、面白いもん、見せたるよ」
「命令すんなや。面白いもん? ああ、ええよ。とことん見て、見倒さないと、損や、損!」
 彦馬は「違いない」と頷き、笑った。どうやら、共犯ができて嬉しいらしい。また要らぬ問題を起こしそうな、危険な気配。
(ま、ええか。こいつ、面白いし。――一人きりの長崎遊学は寂しいもんや)
〝彦馬がいる〟から、別に安心するわけではない。駿河守樣や、和泉守樣の持つ大人の男の頼れる感じはまるでない。
(長崎だから、長崎の鬼、ハイ、名を長崎じゃ。こんな安直な言葉を吐くから、眼が離せなくなるだけや。決して〝安心する〟なんて言うモノかい)
 しかし、彦馬のこの突拍子のなさは和泉守樣にちょびっと似ている。
「じゃあ、練習せな。そろぉりそろぉり、や。コツは足指に力ぁ入れい。ハイ、抜き足、差し足、忍者や忍者。ハイ、右足出しぃ~」
 練習する意味はちっともわからんが、鍬次郎は抜き足、差し足の泥棒の歩き方を覚えた。
「よっしゃ! 進むばい。ええか、あせがったらあかん」
 彦馬と共に辿り着く先は、教官室だった。匍匐(ほふく)前進(ぜんしん)のように身を屈めて、二人でちろと頭を出した。無人である。すっくと彦馬が立ち上がった。
「よし、では次に、カレフ軍医の弁当探せ」
「一人でやれ。面白いもんとは、何や。軍医の弁当なんぞに興味ないわ」
 軍医たちは別の伝習を行っているのか、部屋は無人だった。
「あれや」と彦馬は部屋に忘れ去られた様子の布の掛かった状態の器具を指した。
 随分と大きい。布の上には埃が載っており、少しカビ臭い臭いがした。
「じゃーん」と巫山戯(ふざけ)ながら剥がされた布の下から、大きな真四角の器具が顔を出した。足が三脚で、蛸のように丸い口が突き出している。側面には布張りがされており。ちょうど鍬次郎の頭部くらいの四角箱が載っかっていた。
 更に奇妙な話だが、左上には大きな銀の皿が掲げられている。彦馬は布を捲ったまま、腕を震わせていた。
(なんだ? このガラクタが、彦馬のやりたいこと? チンケな話やな)
「ヨハネス軍医、薬品があれば、言うた。もうそろそろ、できる頃や」
 彦馬は慌てて駆け出していった。
 ――忙(せわ)しない男や。人の刀ボロにして、ガラクタで遊ぶんかい。
 鍬次郎はじろ、と奇妙な物体を眺めた。三脚がある。測量の器具にも似ている……興味が沸いた。鍬次郎はじーっと箱を覗き込んでみた。
 ……己が映るやんか。変なの。
 汚れた銀板が突っ込まれたままになっている。吹き付けられた塗料が指先に付着した。
 くんくん、と指先を嗅いでいるところで、うんざりした顔のヨハネス軍医が彦馬に引き摺られて入って来た。
「……冗談だったのですが。まさか、本当に牛の臓器で薬品を作るとは。その集中力があらば、立派な蘭学者になるでしょうに」
「親父と同じ生き方は、せん。吾は舎密学んで、湿板(しつぱん)やると決めたばい。そげな説教は、言わんでよか。……な、どうやって動かすん?」
 生まれたての小牛を狙う鴉のごとく、彦馬はヨハネス軍医の前を飛び跳ねた。ゴオンと鐘が鳴った。時間と規律にうるさいヨハネス軍医は「ここまでです」と白襟を正した。長崎の夜が密やかにやって来ていた。もうすぐ初夏――。

❀4❀

 夏を迎えた長崎は、より一層賑やかさを詳(つまび)らかにしていた。
 立ち寄る船はむろん、長崎を通り過ぎる船も増えた気がする。
 あらゆる分野の知識が、これでもかと鍬次郎を包み込む。文化の波にひたひたになった。
 石段を上がった高台。ヨッコイショと椅子を持ち込んだ。長崎の街が一望できた。
 ――己、長崎、嫌いやない。むしろ好きだ。さてと。
 教本は今日は二つ。一つは、肌身離さず持っている『舎密学』もう一つは(いつか、和泉守樣のお役に立つ)と信じて選択した『騎兵砲隊(きへいほうたい)築城(ちくじょう)諸頂(しょいただき)』の教本を開いた。
 高猷が津から連れ出してくれたからこそ、今の生活がある。一つくらい、臣下に相応しい知識を拾っておいても、決して無駄にはならんだろう。
 彦馬の〝吾のやりたいこと〟に通じる、あの謎の器具についてを考え始めた。
 鍬次郎と彦馬が狙っては、カレフのどでか弁当と一緒に持ち出そうとする事態を知ったヨハネス軍医は、カレフ軍医のために、器具の置き場所を変えてしまった。
(見ろ! 弁当なんか盗むからだ! 彦馬の食いしん坊!)
 怒ったところで、何も変わらない。鍬次郎は、じっくり見た器具を再び思い返した。あれは、そんなに危険なものだったのだろうか。
(彦馬は「現在を残す」と言っていた。残すという言葉から察するに、絵のようなものか?
 まさか現在をそのまま形に残すなど、できるはずもない。ああ、彦馬が恨めしい。いつもいつも言葉が足りない! 面白くなりそうやったのに。ヨハネス軍医のいけず!)
 出島の空に、いくつものハタが翻っている。ハタとは凧。長崎奉行の駿河守によれば、長崎のハタ揚げは、ハタを奪い取る。迷惑な戦いだという。
 ――あ、彦馬のハタ発見。
『彦』は大暴れで他のハタに食いついて行った。あの糸の下で、また般若のような顔で、ハタを振り回しているのだろう。ハタ遊びで長崎育ちの上野彦馬の右に出る者はいない。
(あいつ、すっかり諦めちゃったのか……)
 どんなに二人で懇願しても、ヨハネスは頑として器具を譲らなかった。
「これは、ためになりません」の一点張り。言い合いに疲れたのか、それとも、興味を失ったのか、彦馬は鍬次郎に声も掛けなくなった。
『騎兵砲隊築城諸頂』をある程度まで読み終え、鍬次郎は次の教本を開いた。お楽しみの舎密学である。
 薬剤を作る課程に興味を持った。つまり、この葉っぱと、この葉っぱを擂り合わせて……といった調合の過程。カンタリス軟膏の作り方、腹痛というは、腹の中にムシがおるからだけではない。腸にうんころこっこが溜まり、壁を圧迫するせいもある。
 基本中の基本の齧った蘭学が手助けをした。鍬次郎は夢中で文字を追った。時折ちらっと和蘭陀語と思わしき言葉が出てくる。奉行所の通詞たちが、日本語で書いてくれている。彼の者らは、異人と意図も容易く会話をこなす達人だ。
 こういう症状には、コレが効く。平明な理屈が面白い。
(津の婆さまの腰曲がりは背骨の老化だが、膝っこ擦り剥いて葉っぱ載せてた子供らに、今度は薬を塗ってやれる。咳き込む爺様に薬を渡してやれるな)
 津国は全国でも蘭学を取り入れているほうだが、まだまだ知っている人間は足りない。
 ヒトの体内の仕組みも、なかなか面白かった。二度と見られない、貴重なものだった。
 しかし、運命は時に面白い事項を突きつける。
 鍬次郎が一番興味を持ったは、偶然にも、感光材料の一種の薬剤作りだった。どうしても内臓を腐らせて作製するアンモニアの抽出が上手く行かない。
 彦馬は、長崎奉行に睨まれながらも、再び僅(わず)かな量の牛の内臓を手に入れた。(どこで見つけてきたのかは不明)。貰った内臓を、奉行屋敷の庭に埋めておいた。お陰で鍬次郎の部屋の庭には誰も近づかなくなった。
 野菜は放置すれば、勝手に腐る。しかし、意図的な腐敗は難しい。腐る=物質が変化する。物質が分解して、違う物質や状態にする。理屈では分かっているが、どうしても、乾きが出てしまう。取り出すのが速いのか。彦馬は、できていたのに。
(できたなら、試させてくれたらええのに。理由、あるんかな。相当な毒薬、とか)
『……ヨウ化物を分散させたコロジオンを塗布した無色透明のガラス板を硝酸銀溶液に浸したものである。湿っているうちに撮影し、硫酸第一鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液で定着して、ネガを得る』
 ――絶対に手に入れたる。面白いことは、とことんやらんと、損や。損。
 鍬次郎は勢いよく、教本を閉じた。

❀❀❀

 奉行屋敷の鍬次郎の部屋にある行燈の油の減りが早くなった。
「油は高額だ。ここは、さっさとお国の大将に、動いてもらおう」
 駿河守は、さっそく津に、行燈の油の文句と注文を書き殴った。すると、数日後には油を積んだ津の軍艦が、さっそうと長崎港にやってきた。
 鍬次郎はどどんと現れた津の艦に心を躍らせたが、油っくさい爺さんがてかった頭をへっへと下げて、お駄賃を受け取った。油の入った樽と小包を置いて行った。
(あ、夏の着物。……それに、竹と、短刀。あんなに「蜻蛉蜻蛉!」と怒鳴ってた母ちゃんが? それに〝ずんだれ〟な風車。回らへん、誰や作ったの。親父か?)
 新しい夏の着物は、またしても緑の絣木綿。また代わり映えしない。竹蜻蛉も久しく削っていない。めまぐるしくて、自分の世界に入り込むどころではなかった。
 削る、から牛の頭を思い出した。
(そういえば、そろそろまた、内臓がイイカンジになっているはず)
 ……しかし。残念ながら、この夜も、失敗した。これで、実験に使う牛の頭も、骨も品切れ。掃除の婆さんたちには、めっぽう嫌われた。最近では屑の回収に、誰も来てくれなくなったため、鍬次郎は自分でごみを抱え、ゴミ捨て場に向かった。
(くそ、くそ、くそ! また、牛の頭探しからかい!)
 唐人屋敷に一人で行く度胸はない。かと言って、彦馬に頭を下げるも癪だ。
(行動まで『ずんだれ』だの『よそわしか』だの言われとぅない!)
 ……まだ担当軍医のお叱りと嘆きのほうが耐えられる。
 翌日、鍬次郎はしょんぼりして、とうとう担当軍医ヨハネスに頭を下げた。
「手伝いませんよ」とヨハネスは研究用の牛の脳味噌の一部をくれた。
「これでだめなら、湿板実験は諦めなさい。いいですね。もうじき梅毒の検査や、伝染病の解明で、蘭学者は根刮ぎ集められ、重宝される時代が来る。今のヤーバンに必要は、蘭学。中央とのお約束です」
「……はい」沈んだ声に、ヨハネスが小さく息を吐く。
「負けず嫌い、と言うのだったか……侍の魂と言うべきか……」
「己、負けず嫌い以前に、もっと勉強したいんや!」
 ヨハネスは、座りなさい、と椅子を指した。
「もうじき、上級の舎密学研究所を始めます。ただし、ここからの知識は、更に高度で無知に扱えば、忽ち危険を伴(ともな)いますので、こちらで人員を選定します」
 ごくり。潜めた声に唾を呑んだ鍬次郎に、ヨハネスは、にっこり笑った。
「現在、入れる標準に達しているは、上野彦馬のみです。まあ、ああいう人間は、置いておいて。行きたいですか? ヨダレが出ていますよ、鍬次郎」
〝現在、入れる基準に達しているは上野彦馬のみ〟の言葉に打ちのめされた。あの無鉄砲な長崎の鬼の評判は聞いてはいたが、ここまでとは思わなかった……。
「ヨハネス軍医、あの器具は、いったい何だったのですか」
「おや? 分かりませんでしたか。写真(しゃしん)ですよ。きみが、上級舎密学への資格を手に入れられた時には、新しい伝習所の前で、撮ってあげましょう。と言いたいが」
 ヨハネスは「私は、あの器具を使いこなせていない」と、とんでもない台詞を吐いた。
「私の友人に得意な男がいて、譲ってもらっただけです。高度な舎密の知識がないと、扱えませんが、きみと、上野彦馬なら、あるいは……」
「なんで一緒にするんですか。別々に使うもんやないんですか」
 聞いた言葉に、ヨハネスは、にっこり笑った。(腹が読めん)と思わせる、人柄の良さそうな表情だ。
「きみは一人で使えるでしょう。だから、彦馬を助けてあげないといけませんよ」
 ――意味がわからん。上野彦馬のほうが、堀江鍬次郎よりできる。伝習所の教官はこぞって言うだろうに。
「写真湿板は、慎重に扱わないといけません。薬品を浸(ひた)しすぎても駄目ですし、薄くても駄目。上野彦馬は知識の吸収は早いが、大雑把で厭(あ)きやすい。きみは嫌と言うほど粘着質」
 なんだか貶(けな)された気がする。粘着質の何が悪い。大雑把で厭きやすい、という部分だけは同感だ。彦馬はすぐに厭きる。一つの物事を話していても、全然、違う話を返してくる。
「まあ、私も、これで存分に指導ができるというもの。きみは、からかいがいがあるし、可愛がる甲斐もあります、フフフ、頑張りなさい」
 ――フフフ? 首を傾げた鍬次郎に「失敬」とヨハネスは口元を押さえて見せた。

❀❀❀

 更に鍬次郎の部屋の油の減りが早くなった。油の樽は早速、一つが空になった。
 だが、掃除の婆さんたちは、またちゃんと鍬次郎の部屋の畳にも茶殻(ちゃがら)を撒いてくれるようになったし、通詞役もちょこちょこと顔を出してくれた。
 数度の試練を得て、ようやく、それらしいモノが抽出できた。奉行所内で、何より安堵した人物は、駿河守だった。
 夕焼けもますます赤く空を濃く染め、岳(だけ)樺(かんば)も赤く染まり、津ではぽつぽつと曼珠沙華が姿を見せ始める頃である。
 夏が終わる。季節の変わり目の風の匂いは、すっかり秋。鍬次郎は色合いの深くなった空を見上げ、ぼそりと呟いた。
「……夏も終わりや。腐れ牛との格闘で終わったで。己の夏が」
 視界には、今度は、どでかい赤(あか)蜻蛉(とんぼ)が映り始めた。

❀5❀

 秋が深まると、長崎の風景は眼を瞠るほど、金色で美しくなった。
 内野宿の脇本陣の一つ、内野の権現(ごんげん)の大銀杏が黄色の葉を拡げ、空を覆い始めた。
 青(あお)灰(はい)に拡がるカルスト台地には、黄金の芒の畑ができ、オニヤンマが飛び回った。
 持ち出した大判の板を抱えて、鍬次郎はへへっと笑った。久しぶりに彦馬に逢った。
「おまえの仲間や」「なにが」「オニヤンマ、蜻蛉や。長崎の鬼」「吾、しり上げしてねえが」
 ――しり? 聞けば長崎では「とんぼ」とは、ケツを上げる姿勢らしい。
 彦馬をカレフ軍医が呼んだので、鍬次郎は一人で作業に戻った。
(長崎、やっぱり、ようちっともわからん! 長崎育ちの長崎の鬼、か……)
 さて、伝習にもだいぶ馴染みが出て来て、余裕もできた。
 最初は怖ろしかった奉行所の面々も、家族みたいに思えたし、日本全国津々浦々のライバルたちも、それぞれの見合う勉強を掴み始め、少しずつ協調性が出始めた。
 人気は兵器学。恐らく故郷の領主らに言われているに違いない。
 鍬次郎はせっせと板を鑢(やすり)で削った。銀板を作る作業だ。よく磨いた銀板にヨウ素蒸気を掛けて感光化させる。次にこれをカメラの焦点位置に置いて露光させたのち、水銀蒸気中で現像し、食塩などで定着させる。焼き付ければ、まさに現在が映るという。
 裏をいうと、鍬次郎は必死のアンモニア作りに精を出し始めた。奉行所から、彦馬と同じく、造船所に牛の頭を投げ込み、二人でせっせと薬品を作った。すると、今度は悪臭がすると近隣が騒ぎ出し、長崎奉行所が動いた。とうとうヨハネス軍医は、白旗を上げた。いったいなんの戦いだったかは誰も理解していない戦いが終わった。
 ヨハネス軍医は次の段階の準備を、鍬次郎と彦馬に教えた。
 銀板写真と、湿板写真である。まずは銀板写真から取りかかったが、彦馬は銀を磨く作業に三日で厭きた。銀を磨くと、ギギィと不快音。今度は騒音問題にならなければいいが。
 おっと空が曇ってきた。鍬次郎は奉行屋敷の一角、西屋敷に引き上げた。
 しかし、今日の撮る作業は無理だ。肝心要のお陽さんが機嫌を損ねてしまった。

❀❀❀

(うん、だいぶいいんじゃねえかい)と銀板を持ち上げて、輝きと滑らかさを指で確認した。自己満足に浸っていると、扉がガタガタと動いた。
「ほんなこつ、嫌ぁになる。何で親ってああうるさい。黙って見てればよか!」
 彦馬が頭を掻き掻き教室に入って来た。
「どない?」と顔を近づけて、鍬次郎の手元を覗き込む。出来映えに満足して、落ち着くやいなや、今度は愚痴垂れ始めた。
「蘭学、蘭学、蘭学蘭学! ひっちゃかやかまし。鬼に食われてまえ!」
 長崎の鬼は大層ご立腹だ。日本の各地からやってきた少年と違い、彦馬は蘭学者の父親や母親から逃れられない。そうとうの〝乙名〟の家の出。
(まあ、いいモン着てるし。駿河守も一目置いている……違う。彦馬の破天荒ぶりに頭を抱えておったな。こいつの破天荒な性格と天網恢々(てんもうかいかい)な行動は、想像できんからね)
「できたかいな。吾は手先のちまい作業に向いとらん。頭に血が上る」
「こんな感じでどや?」
「ええんじゃないか。薬品は揃っておった? さて、じゃあ唐人屋敷の姉ちゃんでも」
「一応、己が余分に作った。ただな、彦馬。お陽さんが隠れてもうた」
 対象物を映した後、太陽に当てないと、焼き付きにならない。
 削ったばかりの出番待ちの銀板が虚しく見えた。
 彦馬は大袈裟に肩を持ち上げ、叫んだ。「何てことか! お陽さんどこ行った!」肩を落とした彦馬を嘲笑うかの如き雨が降り始めた。秋雨である。

❀❀❀

「どうせ映すんなら、可愛い被写体がええよな」
 しとしと降る雨の情緒などお構いなし。切り替えの早い彦馬は能天気に呟き、にへらとした。鍬次郎はさりげなく耳を貸していたが、興奮した彦馬の言葉に眼を瞠った。
「和蘭陀商館に、篦棒(べらぼう)に可愛かっさ、女の子がおる。どうか」
 ……和蘭陀商館の可愛い女の子。鍬次郎は瞬く間に頬を熱くさせた。
(どうかも何も! そんな急に! ベルや。間違いがない。え? 心の準備がな……)
「己、まだ和蘭陀語、自信ないわ。アイラブヤしか知らん」
 彦馬の眠そうな、死んだような魚の持つ悲愴的な瞳が、爛々と輝きだした。
「それだけ知ってりゃ、充分。ウプププ。ただ、問題は、どうやってあの子に近づくか」
「違う! どうやって、あのでかい器材を持って入れるか、や! 無理や、無理!」
「やってみな。わからんこつ。わいがそがんゆーたけん、こがんなったっちゃなかとや」
「すまん、方言ちいともわからん。そうやってすぐ怒るの、やめてくれんかいな」
 彦馬は親との喧嘩の苛々を引いているらしく、攻撃的になっている。面倒な「やぐら(やかましや)しか!」が始まるまえにと鍬次郎は話題を変えた。が、選ぶ話題を間違えた。
「和蘭陀商館行くなら、通詞頼もか。駿河守樣に頼み込めば、連れて行って貰えるやも」
 彦馬の顔色が変わった。(しまった!)と思ったが、遅かった。
「前から思っておった。……おまえさん、なんでそんなに手厚い待遇を受けとるん? 奉行所に寝泊まりしてるって、相当な特別扱いやん」
 まさか〝藤堂家の大将が鼻薬を効かせた〟とは言えず、鍬次郎はそっぽを向いた。こういうときに誤魔化しが出て来ない。馬鹿正直かつ損な性格だ。
(何か返答せんと)考え倦(あぐ)ねた前で、彦馬はぱっと言い放った。
「まあいいか! 馬鹿真面目な部分を買われて、長崎奉行にいいようにされとるんやろ」
 あっさりしている彦馬の性格に救われた……。
(これで和蘭陀商館知ってる)なんて言えば、また難儀(なんぎ)な話になりかねない。
 しかし、長崎奉行にいいように、の下りはほぼ、当たっているから、油断ならない。
「じゃ、頼み込んで。ヨハネスに機材の持ち出しの断りは、入れておく」
 問題は、冷やかしの帆先をどう変えるか……だ。鍬次郎は和蘭陀商館の娘を口説いたことになっているが、あれは積極的なベルの行動の結果だ。日本人の女の子も知らんのに、和蘭陀の女の子を口説けるはずがない。むしろ鍬次郎が誘われたと言ったほうが……。
「お陽さん、顔、出ないまま夜やなあ」結局この日も、〝撮影(さつえい)〟はできなかった。

❀6❀

 ヨハネス軍医は、鍬次郎と彦馬に和蘭陀商館に踏み入る許可を、なかなか出さなかった。交渉の結果、「私が同行しましょう」といったところで、落ち着いた。
「和蘭陀の商人と軍医は、自由に出入りができるので。ところで、鍬次郎。面白い喋りですが、津の御国言葉ですか? あほんだらとか、やっとれん、とか」
「そういえば、ヨハネス軍医と初めて逢った時も、和蘭陀商館やった気ぃします」
「ふむ、そうやって使うわけか」何故かヨハネス軍医は津の御国言葉にご執心だ。
 ――春は過ぎ、もはや秋。枯葉が眼の前を通り過ぎた。時間が経つのは早い。
 長崎奉行所と和蘭陀商館は近い。長崎中央区画にある彦馬の家も、然程の距離ではない。
 機材はヨハネス軍医が運んでくれる手筈で、彦馬は組立部品、鍬次郎は銀板を持参した。
 夜になると、唐人屋敷区外は賑やかになるは周知の通り。
 埠頭に異人の船が増え始めると、労いのための宴も多くなる。検問と査定と顔繋ぎを果たす場所が和蘭陀商館だ。
(銀板二枚のほうが良かったか)
 ずり落ちる銀板を抱え直したところで、気に入っている帽子を、ちょこんと右斜め横に載せ、相変わらず丈の揃わない着物で、彦馬が現れた。
 異人たちがチラチラと鍬次郎を見ている。(姿勢、姿勢)と鍬次郎は背筋を伸ばした。

❀❀❀

「軍医がおるで。ほら、あそこ」
 ハタの賜物か。彦馬は、動くモノを捉えるが早い。
「なあ、いつになく、軍医が気合い入ってねか?」
 引率に現れたヨハネスは、正装だった。きちっと髪型を整えて、手には白手袋。艶姿でちら、ちらと鍬次郎と彦馬に視線を投げ掛けていた。
「もしかして、とっとっと(撮って)か。こっち、見とるよ……」
「でも、銀板一枚しか用意しとらん。ええと、ベルはどこやろ」
 途端にぐいっと彦馬に胸ぐらを掴み上げられた。まるで(隠し事は許さん)と言わんばかりの迫力。無言の圧力に負けた。
「来たこと、ある」と、ようやく言葉を絞り出した。
 彦馬はぱっと手を離した。鍬次郎は乱れた着物の袂(たもと)を直し、彦馬を軽く睨んだ。
「おまえのせいでもあるんやで。己の刀奪ったろ。和泉守樣を通して、駿河守樣に捜索をお願いしたんや。しかし、鬼っこは見つからず仕舞い」
 鬼っここと、張本人であった彦馬はそっぽを向いた。
「奉行として見つからぬは忍びない。ちょうど伝習所の軍医がおるから、引き合わせようと言われて、ここに来た」
「なん、吾が余計なことしたから、おまえさん、特別待遇になったんかいな」
「まあ、そうやな。感謝はせんが。……だけど、和蘭陀語、分からないままで……」
 背中に、気配を感じた。鍬次郎は長崎の地を踏み締めた直後を思い出していた。思えば、あの時の奉行たちは堂々としていた。
 しかし、人は慣れるもの。今、和蘭陀商館に立つ鍬次郎は、おどおどとはしていない。
(姿勢を正すと、気持ちええな)
 袖の中に隠したあるモノが、チクチクと腕を刺した。「いて」と小さく叫んだところで、彦馬は身じろぎし、「可愛いかっさ……」と呟いた。
 突然、視界が、ふにゃんとした感触で閉ざされた。咄嗟で体がコチンと固まった。
「だぁれだー」(だ、誰?)と狼狽する前で、「うしろの正面だぁーれ」と楽しそうな声が響いた。日本の童謡「かごめかごめ」。子供の頃に、日が暮れるまで遊んだものだ。
(まさか……いや、だってベルは、日本語を知らなかったはず)
 しかし、鍬次郎だって同じだ。勉強して、少しだけは読み書きを覚えた。ベルの話を聞いてやりたい、その一心で。ベルが勝ち気な性格だという事実は、何より知っている。積極的な部分も。
「答えなきゃ、このままやからね……えと、お、ひしゃしぶり、くわ」
「ベル! いきなり何すんや!」
 手を振り払った。振り返ると、和蘭陀商館の娘、綺麗な金髪を揺らしたベルこと、ベルシュカの笑顔があった。
 ベルは「ようやっと気付いたわ」と津の口調だった――。

❀❀❀

 ……美人が、田舎の言葉を操っている。呆然となった鍬次郎の前で、笑い掛けたベルは困惑した。彦馬にぼそっと問い掛けた。
「なあ、うちの日本語、おかしい? ヨハネスに教えてもろたの。あんた、うちの言葉、全く理解しとらんかったから! 今度は、そうはさせへんよ」
「なんで、訛ってんだ」ぼそりと呟いた前で、ベルは「えへへ」と笑った。
「くわと同じ言葉知りたい言うた。んで、必死にヨハネス軍医と勉強したんよ」
 どうやら、勉強の方向を間違えたらしい。道理で、ヨハネス軍医が鍬次郎の言葉にいちいち興味を示すはずだ。ベルに頼まれて、研究していたのだろう。
「そりゃ、ないわ……和蘭陀語でよかやん……ずんだれや、よそわしかや」
 彦馬は彦馬で、固まってしまっている。綺麗なお人形のような容姿で、何故かごっつい津の田舎弁を口にする。ギャップがありすぎる。
 しかし、飽きっぽい彦馬は、長所に勘案(かんあん)してみれば、切り替えが早いと同義。
「本題、本題。鍬、ちょっと手伝え! アレ、一人じゃ運搬できん!」
(ベルの津の奥方樣風味のドスの効いた言葉に、目ン玉ぁでっかくしてる場合やない)
 湿板写真機具は、玄関を入った奥に預けてある。こんな好機はないだろう。
「どしたん? 何か運ぶんか。ヨッシャ。うちも手伝うで。任しときぃや」
 ベルが腕を捲った。やはり津の若手衆の奥方の口調にしか聞こえない。
(あああああ。可憐な印象総崩れやんかぁ……)と、がっくり来た。
 だが、慣れたら慣れたで、一生懸命〝くわと同じ言葉〟をしどろもどろに使うベルが、愛おしくなってきた。
「ええよ、男二人で充分。ここで待っとけ」
「そか」とベルは嬉しそうに頷き、チラチラとある一点を気にし始めた。
 ヨハネス軍医がチラチラ見ている。だが、撮影一枚目は当然ベルシュカだ。
「鍬次郎! 吾に一人で運ばせよって! いっちゃん手伝わんと、吾、がるやん! ふんぬー!」の声と同時に彦馬が機材を引き摺って持ってきた。
「あれ? それって」ベルの口から和蘭陀語が洩れた。ベルは、どうやら彦馬が担いだ機具に見覚えがあるらしい。二人で手分けして運び込んだ、〝撮る道具〟である。
 彦馬は手早くベルに異国の言葉で説明をした。ベルが時折「やっぱりか」などと日本語を必死に弾き出しているが、どう見ても、口説いているようにしか見えない。
「うちを撮るん? ええよ、可愛く頼むで」
「鍬、最初の撮っとはベルちゃんでええか。カレフの弁当と、どっちがええかな」
(比べる対象、おかしいやろ。和蘭陀商館の娘と、軍医の弁当て)
「ちょっと待て、銀板をちゃんと入れないと、あかんて、彦馬! どうしてそう、適当なんや! あかん、ちゃんと、この爪と爪に合わせな! あ、おまえ、力業で押し込んだから、見ィ。めり込んでガタガタ言うやないか!」
「ひっちゃか、やかましか」と彦馬はお構いなしに、銀板をベルに向けている。周りに人が集まり始めた。
「撮っと。……笑って、笑って」と、いいところ取りである。彦馬がにっと笑うと、ベルもニコッと笑顔になった。
 胸の中と、袖の中で何かが、ちくんと動いた。――袖? 指で探って焦った。
(あ、風車! すっかり忘れておった! せっかく持ってきたのに)
 風車は、確か和蘭陀の歴史と文化の教本にもあった。少しでも共通する話題が欲しかった。鍬次郎は、ぶっきらぼうに風車を差し出した。
「ベル、ベルの国にもあった。でき良くないけど。こうして、フーってやると、回る……」
「回っとらんがな」彦馬がチャチャを入れた。
「いや、そんなはずは」「貸してみぃ」と彦馬は鍬次郎の手から風車を奪い取った。髪を留めていた小さな針で、適当に縛ってあった紐を解いた。
「粗末な作りやな。ハタだったらえらいこっちゃ。引っかかっとる紐ぉ切ればよか」
「それで、回るよか」と今度はベルが彦馬の言葉の真似をした。
「よかの使い方が違う。そげんせんでよか。鍬と同じ言葉でよかやん」
 ふっと彦馬が息を吹き掛けると、風車はかたかた回った。
(ほんま、誰や作ったの。こんな〝ずんだれ〟な風車より、ちゃんと作って渡そかな)
 ふふん、の勝ち誇った顔をムシして、ベルに向いた。手渡してやった。
「故郷だー」とベルは涙を浮かべて、くるくる回り出した風車を指で悪戯した。
 ――ま、ええか。ほんまは己が作ったんじゃないけど。
「よっしゃ! やるとすっか」と彦馬は満足そうに頷き、顎で鍬次郎をしゃくった。
(お陽さん出てないの、忘れとるな、彦馬)と鍬次郎は夜の月を見上げた。
 夜の向こうのお陽さん、どうか願いを聞いて欲しい。
(ベルの笑顔を可愛いと思うた。証拠は、こうして胸にも残るけれど。いつでも、ベルと逢える。夢のようや。ちゃんと映し出せるなら、まさに〝夢の道具〟ではないか。だから、お陽さん、ちいと力を貸して欲しい)
 ベルが風車から、鍬次郎に視線を移した。見られて、一気に頬が熱くなった。
 ……手を振ってくれるの、己にだけや。可愛ええな。己、気に入られとるのかな。へへ。
「そこに座って。ベル。巧く行くかは、わからんけど」
 覗き窓から見ると、世界でベルだけが見えた。指で距離を計って狙いを定めた。
 途中から、「それでは被写体の表情は撮れませんよ」とヨハネスが加わった。
「ちゃんと、被写体全体を枠で捉えませんとね」と方向を向けてくれた。
「彦馬は、鍬次郎をしっかり支えてあげなさい。お嬢、眩しいかも知れませんが」
 シュバっと光が走った。(うわ!)鍬次郎は瞬間の閃光に眼をぱちくりした。彦馬が支えていなければ、手を離して、もんどり打ったかも知れない。
「あとは、現像の手順ですが、恐らく……」ヨハネスの声は聞こえていたが、心臓の鼓動のほうが大きい。眼を瞑ると、瞼の裏には風車を顔に寄せるベルの姿が焼き付いていた。

❀7❀

 ――悲報があった。
 現像は適(かな)わなかった。後日のお陽さんに当てる時間が短すぎて、ベルは亡霊のようになってしまって、没。日本では、まだ誰も成し遂げていない写真家への道は険しい。
 飽きっぽい彦馬ですら、悔しそうに呟いた。
「勉強したほうがよかやん。蘭学はもうええ。このまま終われん」
 何が悪かったのか、今の鍬次郎には原因すら分からない。知識が乏しすぎた。
 知識がなければ、内省(ないせい)もできない。内省ができなければ、進めない。
(せや、もっともっと勉強と、知識がないと駄目やと分かった。ヨハネス軍医の言った言葉は、正しかった。もっともっと成長せな、夢には届かない)
 銀板の磨きは充分だった。角度も悪くない。薬品も、ちゃんとした手順で作った。あとは勘と、〝確固たる方法と手順〟の研究だ。
 どのくらいの光で、どう薬品に浸したら良いか。成功の法則を見つけねばならない。
 きっとあるはずだ。鍬次郎は拳を握り締めた。
〝上級舎密学への現在の資格があるは上野彦馬のみ〟そんな言葉、悔しすぎる。
「舎密の上級。己も目指すで、彦馬」
 しかし、障害があった。銀板は高い。それに塗る薬品も、すべてが高級品だ。うすぼんやりとしたベルの亡霊の前で、決意した。
 ここは、津のお金持ちに、頼ろう。いつかきっと役に立つと信じ、己の兵器の知識と引き替えだ――。
 ようは、藤堂高猷へのおねだりである。
(津の国は先進文化に理解がある。和泉守樣も、きっと工面して貰えるだろう。あの津のおっさんが面白がりそうな話ではある)
「己、津に手紙書くわ。支援が必要やろ」
「まあ、頑張れ」彦馬はいつになく素っ気なく告げた。相変わらず考えが読めない。
 ――ベル、もう一回撮ったるで。
(眼を瞑れば、ベルがいる。へっぽこ風車を持って、嬉しそうに、こっちを見てくれた。でも、それだけでは足りない。未来に伝える奇跡がある方法を知ってしまった)
 ――そうや。〝現在を遺す〟ではない。〝現在の美しさ、素晴らしさを後世に伝える〟ことこそが、奇跡の舎密学であり、湿板写真や――……。
 彦馬のやりたいこと。同時に手探りだった鍬次郎の夢の造型(ぞうけい)が見えた。遠く育って出逢った津の少年と、長崎の少年の目指す頂点がぴったりと重なった瞬間だった。

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