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第三章 心から希(のぞ)む、遺したい風景 

❀1❀

 津の冬もめっぽう寒いが、長崎(ながさき)海軍(かいぐん)伝習所(でんしゅうじょ)の比ではない。特に、冬の造船学は地獄だ。教官すら寒さに歯を鳴らす。痺(しび)れた指先に息を吹き掛けた。
(うう、己は負けず嫌いだが、寒さと雪ん子に至極弱い。冬は苦手やぁ)
 寒い上、空腹で、鍬次郎の脳裏には忽ち暗雲が立ち篭(こ)めた。外の光を、温かく感じ、観念して、ふらふらと講習の部屋を抜け出した。
(あかん、くらくらする。何か、あったかい甘いもん……買ぅて来よ)
 ――ベルの撮影失敗から、通算五十回目の現像。
 戒めのために、亡霊となったベルを壁に飾り、鍬次郎は現像三昧の日々を過ごしている。
 昼間は日課をこなし、夕方になると、興味で受けている兵学(へいがく)講習(こうしゅう)の終わった彦馬と合流。二人で秘密の舎密学の研究。薬剤は、ヨハネス軍医が調達してくれるようになった分、問題は減った。――後は己の未熟さと彦馬次第になるわけで。
(己、上級舎密学、上がれんのかな……)
 いかん、いかん。弱気は敵。凍えた指先を温めようと擦った。ほんのり温かくなったところで、弱気も薄れた。だから、冬は嫌いだ。春がいい。
 ところで、伝習所の遊学生に人気の甘味屋は、ちょうど唐人屋敷の角にあった。
 禿げ上がった爺さんが顰め面で、むっつりしながら蒸かし饅頭を手早く詰めてくれる。
(彦馬、頑張ってくれとるかな。そうだ、奉行所にも差し入れが必要やな)
 ご厄介になっている奉行所の面々は、甘党が多い。鍬次郎は露店で蒸かし饅頭をおよそ二十個分も頼み、彦馬への労いには、格安の餡衣餅(あんころもち)を選んだ。
 一縷の北風が通り過ぎてゆく。季節は冬の終わり。霜柱の音も、すっかりしなくなった。津では雪解けの時季。長崎では雪の代わりに冷風が吹くと知った。

❀❀❀

 夜も間近の、冬の色の夕焼けが忍び込んでいる。伝習所の廊下は、ほんのりと橙である。
 少し水が湿った匂いの廊下を通り過ぎ、鍬次郎は実験に使っている空き部屋に飛び込んだ。彦馬が会長を務める〝長崎『彦』ハタ連合会〟の部屋だ。
「彦馬!」叫ぶと同時に「鍬! いい出来ばい!」と彦馬が飛び出して来た。
 手には大きな凧ことハタ。むっとする前で「こいつは飛ぶし、つぶやかしばっちり!」と彦馬は胸を張った。(餡衣餅、食ったろか)と思いつつ、風呂敷包みを突きつけた。
「己はな、おまえが一生懸命に現像しているからと思うて、寒い中な! わざわざ買いに」
「できた。そのどでけぇ目ン玉ぁで見てみればよか!」
 短気を起こした彦馬は、机に立てかけたままの銀板を指した。
 手前に薬品に浸かった一枚の写真がある。ヨウ素に反応し、コロジオンの溶けた銀板を、暗室で薬品に漬け込む。その後、今度は薬品を落とし……ともかく、すべての手順を平明にしなければいけない。だが、まずは成功事例を仰山抱えるが第一歩。
「成功でよかやん。……スゴイで、見るからに美味そうに映ってる」
(美味そう?)と恐る恐る覗き込んだ鍬次郎の肩を彦馬が饅頭の打ち粉のついた手で叩く。
 どでかい木の箱に、サツマイモのふっくらとした姿に、椎茸、綺麗に乱切りされた煮物に、焼き鰺。……カレフ軍医の弁当が、活き活きと映っていた。机に、置いてあった空の木箱を見比べた。
(やっぱ、上野彦馬、只者やない! 盗んだ弁当映して、現像成功かい!)
「ほんまに、映っとる! 早速ヨハネス軍医に報告や!」
 つん、と袖が伸びた。彦馬が引っ張っている。「フン!」と腕を振って腕が自由になったが、今度は、ぬっと伸びてきた足に蹴躓いた。
「たいかぶっとれ」彦馬は低く唸ると、「弁当を食ったのばれるやん」とまたどうしようもない理由を述べた。後、ニヒ、と目を細めた。
「唐人屋敷に、また可愛かっさオンナがおる。見に行かん?」
 唐人(とうじん)屋敷(やしき)とは、異人の区画である。近くの丸山(まるやま)遊郭(ゆうかく)から来る遊女を迎えるための、中国娘の姿をよく見かけるようになった。玻璃の玩具を並べて、怪しい薬や壺と一緒に売りつけてくる。またオンナの子は頭をくるくると纏(まと)めていたり、綺麗な髪飾りで彩ったりと確かに愛らしい。
「あかん、あかんあかん! 伝習生は絶対に唐人屋敷に近づいたらあかん言われたろ!」
 と諭すように言い返すと、彦馬も負けじと「和蘭陀商館の娘」と言い返した。
「写真、亡霊(おもじょ)なった聞いたら、ぎゃーこくわ。ぎゃーこいて、泣きよるわな」
「……卑怯やな。知っておるが」
「うはは。卑怯万歳! では、今夜、桜大門の手前まで、機材持ち出す算段しよか!」
 彦馬は笑って、「やるで!」と手をパンと叩いた。思い出した如く「厠!」と部屋を出て行った。気付けば、奉行所土産は全て平らげられていた。蓬草餅(よもぎくさもち)の饅頭の食べ過ぎ。
(一人で、一生ずーっと腹ぁ壊して、厠でニヒニヒしてりゃぁええ!)
 鍬次郎はじっと〝おもじょ〟のベルに視線を向けた。もし、映っていれば、ベルの最高の笑顔が遺せたのに、残念だ。
(離れても、ベルを忘れずに済むのに。今日の現像は、まぐれや。それに、そろそろ薬品も尽きる。また、薬作りを始めたいが、冬は凍ってしまって、上手く行かんのや……)
 こればかりは、冬が過ぎ去るを待つしかない。だから冬と蛇は嫌いだ。躑躅(つつじ)の節季までは、まだ遠く。次の春霖の時期で長崎遊学は二年目を迎える――。


❀2❀

「あれや、あれ」と唐人屋敷前で、彦馬が顎を刳った。
「駿河守樣に見つかる前に、帰るからな!」と念を押して、柱からひょいと顔を覗かせた。
 丸山遊郭の大門の市。中国の衣裳は煌びやかだ。どうやら遊女と、そのお付き用の市らしい。彦馬は遊女を見て、頬を紅潮させて、鼻を膨らませている。
「わ、乳、でっけぇわ」彦馬が洩らした瞬間、ぶん、と槍が飛んできた。槍は、彦馬のすぐ横に刺さってビィンと鳴いた。鍬次郎のボサ頭の髪を少し削って落ち着いた。
 少女がスタスタと槍を取りに来た。清国は武術が盛んで、皆武器を持っている。
(ばか、でか丸頭、出すな! そげなこつ、見てわからんのか!)
(おまえがもっと屈め! 見つかるやろ、このフワフワ! ちょ、顔、近づけんなや!)
「朱里?」と声がして、少女は何やら凜とした言葉で受け答えをした。茂みでごそごそ怪しくやっている内に、足音が遠ざかった。
 ほっとしたところで、足音がピタリと止まった。槍先が、茂みをがさがさと揺らしたが、それも、やがて消えた。彦馬の頭をぶん殴って、当然即刻逃げ帰った。
「重要警備、言うてたやろ! おまえが〝乳でッけぇ〟なんて言うから! 己の髪が!」
「ま、偵察や、偵察。そのうち、正式に被写体のおねだりする。それでよか! 吾、腹が昼間からしぶっとる。たいかぶっとるわ~」
 軽くいなして、彦馬は機材を持ち帰ると、そそくさと消えた。
 ――それにしても。和蘭陀人が減った。行き交う人の波は、どれもこれも、清国の色に染まっている。ふと、ベルはどうしているだろうと商館に目を向けた。
 和蘭陀商館は静まり返っていた。寝ているのだろうか。鍬次郎は指で、測量の真似事をして見せた。
(懐かしな。長崎に来たての頃、あの窓辺にベルがおった。己を見て、頭ぁ引っ込めて、目だけ出して、こっち見てた)
 ああ、月が綺麗だ。でも何か足りない。冷えた草花が氷結の雫をたらしている。
 駆け抜けた感情は巧く言えない。胸焼けがする。あの失敗した写真を悔しく思い出す。
 長崎の冬は、短いと聞くが、その分、寒さも激しい。温暖の上下が波打つ如く、極端だ。
「船が出港の準備しとるんか」
 遠くの船着き場から、蒸気と電気を稼働する音が響いた。ぽつんぽつんと灯が灯る。
 貿易の終わった船が帰るのだろう。
(それにしても、ほんま、清国のほうが増えた。……己は和蘭陀のほうが良いな)
 物思いに耽りながら、部屋に帰り着いた。奉行所の灯りは消えていたが、駿河守の部屋の灯りは灯っていた。駿河守は小さな行燈だけで、手紙を書いている様子だ。
 何となく、罪悪感。今頃腹を出して寝ているであろう彦馬と、鍬次郎の神経は違う。
(やはり、自分からいうべきやろ。規則違反は、違反やし……)
「駿河守樣」声を掛けると、駿河守はさっと書面を机に押し隠した。
「堀江鍬次郎。俺は、そなたの上司ではないが、夜に突然……悩み事か?」
(何を隠したんや)と思いつつ「唐人屋敷、見て来た」と懺悔した。
「違う国の異人がいっぱいやった。最近は和蘭陀人、見かけんくなったんです」
「間もなく、和蘭陀人は出島から、一人とていなくなる。商館長が国に引き上げれば、お付きも、はたまた乙名たちも、止める所業はできんね。……伝習所と、病院なるものを企画している和蘭陀人を退け、世界の流れは華やかな清国に戻りつつ在る」
「己、和蘭陀の人たちがいなくなるは寂しいですよ!」
 駿河守は微笑んだ。が、淡々とお叱りが来た。
「世界と敢えて言うが、いつかは人は消える。あまり依存せんことだ。唐人屋敷へ向かった理由と、やむなき行為については、提出せよ。懲罰を視野に、審議する」
 げぇっとなった鍬次郎の前で、駿河守は「そうそう」と白い包みを見せた。
「掃除のおばさんが気にしていた。捨てて良いか、迷っていたので取り上げたまでだ」
 竹屑が再び手に帰ってきた。
(そういや、これも、随分ご無沙汰やな。彦馬と研究ばっかりで。作りかけの風車も、全部が中途半端……)
 ――故郷だ――……ふとベルの声が過ぎった。
 真っ暗だった和蘭陀商館。出港の船の汽笛。少なくなった和蘭陀人たち。
 不安を隠さない鍬次郎に気付いた駿河守は、口調こそ冷淡だが、ゆっくりと告げた。
「そんなに早く、訴(そ)求(きゅう)は通らん。まず、伝習所は、そうそうなくならん。和蘭陀商館とて、莫大な利益を見込む商人の長だ。ベルシュカ嬢も、外交の役目を果たしておる」
 見えない速度で、時代は、長崎はゆっくりと次の世界へ向かっている。和蘭陀人がいなくなる。それは、夢の終わりにも等しい気がした。
(笑顔を、この手で遺したいんや。まだ、おってくれ。湿板でベルの存在を遺したい。おまえが長崎にいたこと、笑顔は宝物やから……)
 ――この溢れる気持ちは何だろう? ぽっかりと開いた風穴に、時という不安の冷風が吹き付ける。あまりに時は無情だ。鍬次郎は世界の冷たさと、己の無知を噛み締めた。

❀3❀

 いつしか、季節は春。外で昼を過ごす伝習生の姿も増えた。
 彦(ひこ)馬(ま)と鍬(くわ)次郎(じろう)も、外で弁当を食って過ごす時が多い。戻って来て夕方の実験の仕込みに入り、午後の講習。何ら変化のない日常だ。
「なあ、何か張ってね?」
 目ざとい彦馬が伝習所の門に気付いた。伝習所は長崎奉行所の延長上にある。西の奉行屋敷を間借りして作られた。城壁に堂々と掲げられた看板の横に、張り紙が現れていた。
 ――伝習生丸山遊郭へ出入りするべからず。判明時は、懲罰に加え、強制送還(きょうせいそうかん)とする。長崎奉行所より最終(さいしゅう)通達(つうたつ)――。
「おまえか」と彦馬をじろりと睨んだ鍬次郎に、彦馬は「違う違う」と片手を振った。
「吾やない。んなヘマするかい。昨晩、ボケが遊郭で粗相(そそう)したんやて。当面は行けんで。どこの田舎もんが粗相した。長崎の鬼が食ってまうで、ほんと」
 長崎出身の彦馬は、地方の伝習生を時折「田舎もん」と呼称する。鍬次郎は気に入らなかったが、こればかりは文句も言えない。長崎育ちの彦馬に、伝習に来る苦労を伝えるは、無理だ。船酔いの覚悟で勉強しに来たと言えば、「なんで?」と不思議そうな顔をする。恵まれた環境に気付いていないし、無自覚の助平(すけべい)さにも気付いていない。
「ヘマせんでも、出入りしてる事実が問題なんや。判っとらんな」
 そもそも、勉学せずにオンナに現(うつつ)を抜かしておるなら、帰国してくれたほうが、競争率も低くて済む。この冷淡な性格が、鍬次郎を色へは連れて行かない。
 ――ベルの姿が過ぎった。ベルに対しては色ではない。疚(やま)しい気持ちなど微塵もない。
「まあ、おまえさんはどっちかってーと和蘭陀商館やろ。商館長の娘に手ぇ出して、懲罰室に入ればよかやん。後悔せんで済む」
 ――時折こうして鋭いから、嫌になる。咳払いで話題を変えた。
「元々伝習しに来た。遊郭で遊んでおる暇あったら、勉学せえ! ちゅうことやろ。大体な、なんでおまえの被写体は全部、女性なん! 彦馬!」
「美しいからや。決まってるやん」彦馬は、うっとりと眼を閉じた。
「あの胸、シリ、まあるい柔らかな線。神秘の、あの割れ目。美しいモンを残す所業(しょぎょう)が、吾らの使命や。丸山遊郭の、遊女のお付きに朱里(あかり)ちゃんちゅう、めっさ可愛かっさおなごがおって、いつか手ぇ突っ込んだろ思ってたん、計画パーやん!」
 ……付き合ってられん。やってろ。鍬次郎は、教本を抱え直した。
 実は単位が、足りない。おなごの割れ目に付き合っては、いられない。
 担当軍医のヨハネスは鼻に皺を寄せて、鍬次郎に容赦なく結果を告げていた。
『鍬、きみは、どうしても臨床学に点が低いようです。舎(せい)密学(みがく)はすべてと繋がっているのですよ。このままでは、上級へは許可できません』
『上野彦馬の成績はどうなんです』
『全て、合格ですよ。ついでに言えば、先日のハタ大会でも、優勝していました。元々の医学センスが違うのでしょう。頑張りなさい』
(なんで割れ目に現を抜かすヤツが合格で、己(おれ)が足りんて! 神様、何処見てるんや!)
 彦馬に八つ当たりしそうな気配。彦馬が悪いわけではないのに。
「そや。己、軍医に呼ばれてたんだ」
「そか。ええ加減、現像の法則を見つけんとなぁ。ちんころりんやないで。舎密に「もしかすると、できるかも」は、ない。ま、ゆっくりやればよかやん」
 ――余裕ぶっこいて。だめだ、ちょっと頭ぁ冷やそ。
 鍬次郎は差し障り(さしさわり)ない理由をつけて、彦馬から離れた。
 春の香りのする廊下を抜け、庭で、はあ、と大きな息を吐いた。ところで、「鍬次郎?」と見慣れた長身が見えた。長崎(ながさき)奉行所(ぶぎょうしょ)の和蘭陀(オランダ)通詞(つうし)・八沢(やざわ)蒼(そう)眞(ま)である。八沢は、うんざりして紙の束を持ち上げた。片手には糊(のり)缶(かん)を抱えている。
「駿河(するが)守(かみ)に言われて、スケベい伝習生徒への注意書きを張ってる」
「手伝います」鍬次郎は着物をさっと縛り上げると、八沢の持っていた糊の箱を引き取り、広げた紙に塗り始めた。
 黙々と作業をこなしている内に、柔らかな風が吹き始めた。
「和蘭陀、本格的に撤退らしい。鍬次郎。それどころじゃねぇか。おまえさん、上級を目指すんやて?」
 鍬次郎の頷きを確認した後で、八沢は矢継ぎ早に話題を繰り出した。
「和蘭陀商館の話、聞いてへん? まあ、貿易国の競争の過酷さはよぅ知っとるが、今回の和蘭陀の置かれた境遇には、辟易(へきえき)するわ。中央で、和蘭陀人がワルさしよったせいや」
 鍬次郎は糊の塗り終わった「注意書き」を渡した。
「駿河守樣に聞いとる。でも、そんなに早く訴求は通らへんて。あ、八沢さん、曲がってんで。もうちょい、右です」
 伝習生へのお叱りの張り紙を各教官室や、実験室、造船研究所まで張り回った。
「お疲れさん。かみさん特製の、健康茶と団子や」と差し出された団子を抓んだ。
「俺ら通詞役も、和蘭陀人が撤退したら、食っていけなくなんで。仲間内では、早くも辞職した者も、離縁された者もおる。時代の流れと一蓮托生(いちれんたくしょう)の職や。俺はまだ、奉行の役所の仕事があるからな。駿河守樣も、胸中穏やかやないやろ。顔にはださんけどな」
 くぴ、と喉を鳴らした前で、八沢が最終(さいしゅう)通牒(つうちょう)を告げた。
「清国と中央が、密談を交わした。早ければ、和蘭陀人は今週には商館長を筆頭に、出島を追い出される。和蘭陀商館も、閉鎖や」
 鍬次郎の手から竹筒が落ちた。

❀❀❀

「集中しろ! 阿呆!」
 明くる日の午後の兵器学。黒塗りの砲台が置かれている。カレフ軍医はいつも機嫌が良くない。彦馬が弁当を盗むせいかも知れない。早速、定規で頭を叩かれた。
「堀江鍬次郎! 兵器を扱う時に、ぼけっとすんな! 火薬の点火は別のヤツに頼むから離れて見ていろ」
「はい……すみませんでした」
 叩かれた頭をさすりながら、鍬次郎は和蘭陀商館の方角を見詰めていた。昨日、八沢に聞いた言葉が頭をぐるぐるして、ベルシュカの泣き顔に結びつく。
 何か約束を交わしたわけでも、契りを交わしたわけでもない。変な娘だ。和蘭陀人なのに、「鍬と同じ言葉」と田舎言葉を覚えて嬉しそうに喋る。彦馬と撮影に挑み、失敗してから、何となく疎遠(そえん)になっていた。
(逢える機会もなく、むしろ、好機だと思った。それは、ベルがずっと長崎にいるが当然と思ったからで! このまんまで終わるんか?)
 考えたくなかった。ベルは、いつしか帰国する。永遠に日本にいるわけではない。
 写真の現像さえ成功していたら、堂々と和蘭陀商館を訪ねられたのに。
 眼の前で、大砲が火を吹いた。火薬点火の実戦だ。
 ガアン、小さな模擬(もぎ)大砲(たいほう)が、また火を吹いた。藁の塊が燃えた。あれは、何のためにあるものだろう。人が人を撃ち抜くためか? 物騒過ぎる。
 ――そういえば、ヨハネス軍医や、カレフ軍医も、消えるのだろうか。取り巻いていた世界が崩れるように思えて来た。色褪(いろあ)せて行く実感など、要らない。
 だから、写真を成功させたい。未だに鍬次郎は成功していなかった。彦馬は二枚の写真の現像ができたというのに。
(己の自他ともに認める成功はベルを、生きたベルを、しっかり現像する奇跡――……)
 ズンズンと大柄のカレフ軍医が歩いて来て、ぬっと顔を近づけた。
「堀江! ちゃんと見ていろ! 上野彦馬の相棒ならあの爆弾を、しっかり押さえ込んで貰わないと困る! それと、全員、梅毒検査の補助をするようにとの、奉行所の通達だ。梅毒を甘く見るな。発生から二十年で世界一周している病原菌だ」
 梅毒とは、性感染症であり、江戸では「古血」と呼ばれ、手がつけられなかった病である。カレフ軍医はひたすら長崎での検査を訴え続け、この度に許可が下りたと聞いた。
 至る所に張ってある、『伝習とは、最前線の技術を学ぶが、最前線の危機や未知なる遭遇(そうぐう)でもある』カッティンディーケと呼ばれるヨハネスの師匠、博士の言葉には、深く頷けた。
(今の己には、梅毒なんざ、どうでもいい。何とかせんと、もう、永遠に撮れなくなる)
 どんより雨雲を背負った鍬次郎に、再びカレフ軍医の影が近づいた。
「なあ、和蘭陀人、いなくなるん?」
 カレフ軍医は、笑った。
「我らは、いなくならん。和蘭陀の商人ではないからな。全く、侍というは、もっと魂が大きいのではなかったのか。和蘭陀商館の娘如きで、伝習をフイにするとは」
 驚く前で、カレフ軍医はまた、むっつりとした表情になった。
「色恋は男を駄目にするとの日本の言葉があったな。ワカと言うのだったか。〝君がせぬ わが手まくらは草なれや 涙の露の 夜な夜なぞ置く〟」
 古今和(こきんわ)歌集(かしゅう)を引用して、からかって去って行った。和蘭陀人のくせに和歌を詠むとは。侮れない軍医だ。さすがは上野彦馬の担当を務めるだけある。
〝お前がしてくれない手枕で寝るなど、野宿と一緒だよ。泣いてやるからな〟
 どこぞの時代の、歴史に埋もれた日陰の帝が嘆いた子供の愚痴の詩だ。
「泣くものか。ただ、未練が残る。ステキな笑顔なんや。残したい、思うやろ」
 ――ずっと心に従う行為を躊躇していた。
(取り返せなくなっても? ――嫌だ。逢える方法を、とにかく考えよう、今夜は徹夜だ)
 握り締めた教本に、火薬の臭いが纏わりついた。


❀4❀

「和蘭陀人がいつ出立するか、調査しろだぁ?」
 鍬次郎は充血した眼を向けた。見つけた八沢は露地(ろじ)の酒場にいた。大衆食堂のような粗末な木の台に、煮物の皿。お銚子が二本。提灯に照らされた暖簾が揺れている。
「……悪かった。俺が言った話、真に受けよる。和蘭陀の娘は、まだ商館にいるよ」
「己は、どうしても、ベルの写真を撮りたい。笑顔を残す。それが、己と彦馬の夢なんや」
「やれやれ。三十路のおっさんに、よくも夢なんぞ、語る気になれますねぇ~。ほら、帰れ、帰れ。酒場に出入りすんのは、オトナになってからや~丸頭ぁ。はー」
 酒臭い息を掛けられ、バタバタと手を振った。
(この、酔っ払い! 話にならん!)
 腹いせに、ダン! と水を置いてやって、席を立ったところだった。
「明後日だよ」と八沢がシラフに近い声で答えてくれた。
「和蘭陀人が引き払うは、明後日や。俺にも仕事が来てる。明後日、早くも長崎を追い出される。奉行所の監視の下にな。自尊心が高い和蘭陀人や。恐らく昼間に堂々と帰る。やってられへん。子供すら、残してはあかんて鬼か、中央の連中!」
(子供?)鍬次郎の勘が働いた。
「なあ、八沢さん、もしかして、奥さんて、和蘭陀の……?」
「一目でアイラブヤやったよ。でなきゃ、面倒くさい和蘭陀語なんか、頭に入れるかい。話したかったんや、ただ伝えたくてな……」
 八沢に、深く頭を下げた。愛する人と並べて撮ってあげたいと思った。
(そうや。写真は、こういう使い方もできる。離れても支えにできる。素晴らしいやん。彦馬、己らの夢は、皆の希望やで)
 鍬次郎の夢の可能性が、また一つ、増えた。しかし、一人では叶わぬ夢だ。
 外に出ると、青白い月が長崎を照らしていた。桜は、まだ咲く気配がない。梅の花が恥ずかしそうに花開き、蒲公英(たんぽぽ)の茎が気怠そうに伸びていた。
「とことんやって、とことん知る。人より多く、知って、飛び込んで、溺れて泳ぐんや!」
 ――和泉守様の言葉を思い出した。そういや、元気かな。
 鍬次郎は灯りの灯っている異人屋敷を眺めながら、思いに耽った。
 貿易のために、閉じ込められ、不自由ながらも日本を愛してくれた和蘭陀人たち。陽気で、明るい国には同じ風車があるという。案外、文化はどこかで繋がるのかも知れない。
「故郷だー」と、ベル、嬉しそうに風車を回していたな。泣いている暇はない。もう、失敗は許されない。
「もう一度、やるで! ベル。ぎりぎりまで粘る。それが、津の男子ってモンや! 強いんやで。長崎の鬼なんぞより……諦め、悪くて済まん!」
 一回やって駄目なら二回、二回やって駄目なら三回。数に終わりがない限り、挑戦の可能性も、成功の可能性も、また終わりがない。何度だって、やれば、いい。
「よっしゃ! やったるで! なんでも来いやぁ! 長崎の鬼でも、何でもな!」
 茂みが揺れた。鍬次郎は、ぎょっとした。
 ぬ、と冬眠明けの蛇が顔を出した。春の神の代名詞だが、有り難くない神様だ。
(己、蛇! 苦手や! あっち行け! この!)
 落ちていた小枝を握り締め、追い払うべくジリジリ足を進めた。
 だが、よく見ると、蛇の顔、四角い。ハブだった。
 ――噛まれたら、死ぬヤツや。まだ現像が成功しとらんのに蛇に殺されて、堪るかい。
「お、お帰りくだせぇ、蜷局(とぐろ)を巻くなよ……」そおっと、そおっと、後ずさりした。ハブはすぐに茂みに引っ込んだ。すぐに八沢が追いついて来て、合流した。
「そこ、ハブおったから、走らないほうがええですよ。ハブ」
 手で蛇の形を作り、合図すると、気付いた八沢もまた、そろり足になった。
 アイラブヤの意味を聞くと、八沢は優しく微笑んだ。
「相手が喜ぶ言葉よ。言うたら、和蘭陀の娘も笑顔ンなるで。さ、奉行所に戻ろか。蓬饅頭に銚子で手ぇ打ったるから、手伝え。和蘭陀の船なんぞ、ごまんとある。出港を調べてりゃ、夜が明けちまわぁ。なんも、悪いことしてへんのにな……」
 同じ思いを抱えた者同士、夜の長崎を、ゆっくりと歩いた。

❀5❀

 いつもの昼休憩。鍬次郎は皆が出払った『兵器学』の教室を選んだ。
 理由は、ただ一つ。カレフ軍医を怖(おそ)れ、人があまり寄りつかない。彦馬だけはへっちゃらと入り込むので、軍医は呆れて放置している現状があった。
 と、じっと耳を傾けていた彦馬が動いた。八沢から受け取った和蘭陀船の一覧を眺めていた鍬次郎は、顔を上げた。彦馬に〝頼み事〟をしてから一時間が経過している。
「……手伝ったるで。ただし、吾はタダじゃぁ動けんな? 判っとるやん」
(この業突く張り! 人の刀ボロにしたこと、忘れよって!)
 ニヤリとして、彦馬はいやらしい表情になった。筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい、いやらしい助平な笑みだ。何かを企んでいる。油断はできない。
(心を落ち着けよ。茶、残ってたかな)
「和蘭陀の娘っこ。ベルちゃんだったか。好いとるん?」
 手が滑って、和蘭陀船の一覧が緑の海に沈んだ。
「あほ! おまえが要らん(いらん)話すっからや! 大事な書面が! あー、どれや! 和蘭陀商館の船! もうええ! 一人でやる!」
「持っていけるんか? 機材。重いですよ~?」
 彦馬は椅子に厭味な長い片足を乗せて、知らんぷりで鍬次郎の饅頭をせびり、伸びた。
「あまりな話だ。和蘭陀人は出て行け、日本に生まれた子供まで送還と。軍医たちが申し入れしとったが、商人と軍医の扱いは違うやん。中央のおっさんら、蘭学蘭学……親父まで蘭学蘭学やぐら(やかま)しか(しや)! 吾は舎密やる。ほかせば(ほっとけ)よか(この!)!」
 八沢に聞いた話と同じ。和蘭陀人と見なす異人は、全て日本から撤退せよ。むろん、生まれた子供も、妻も、夫も、立場関係なく。中央は厳命を下した。
(なんも、悪い事してへんと、最後に八沢さん、言ぅてた気がする)
 彦馬の愚痴を聞き流して、鍬次郎はひたすら八沢が写し取った和蘭陀船の航海予定表を睨んでいた。授業開始のどんが鳴ったが、構わずに調査を続けた。
 数百の船名から、ようやく〝Mercantile vestiging〟(商館)の文字を見つけた。
 お陽さんは、西に帰る準備を始めている。
「あった! 明日の、昼や! 長崎港、出港……」
「天気次第やんな」彦馬が呟いたが、こればかりは祈るしかない。
「んで? 娘っこ抱きたいん?」と落ち着くなり、またぞろ、しつこい質問。諦めが悪い。
 ――いや、嘘つくなよ。一番に、自分が言いたいくせして。心の声が鍬次郎を動かした。
「好いとるよ」鍬次郎は、はっきり答えた。
「己は、最初から、あの子、好いとるよ」
 自分の声が、こんなに甘くて透き通っているとは知らなかった。そのくらい、疚しい気持ちは微塵(みじん)もなかった。
 聞くなり、彦馬は立ち上がった。「彦馬?」との問いかけにも答えず、彦馬はスタスタと歩いてゆく。また丈の揃ってない変てこな着物で。草履の代わりに革つっかけて。
「おい! 聞くだけ聞いておいて!」
「時間が足らん。行くで。明日の準備」と言い捨てる横顔は、いつになく真剣だった。
 ――多分、ここに写真湿板の機具があったなら、即、撮っていたに違いない横顔だった。

❀❀❀

 やるべき事項を書き出すと、山ほど在った。銀板の点検、機具の点検した後は、運ぶために解体しなければならない。その後の薬品の確認に、暗室の布の修繕まで。頭に『上級舎密学』の文字が過ぎった。彦馬も、遺憾(いかん)なく実力発揮してくれた。
「おまえさんてさ」「何や」鍬次郎は湿板を設置しながら、やんわりと会話に応じた。
 ――長崎港が一望できる高台。苦労して調べ上げた和蘭陀船の名前は『Mercantile vestiging』商館の名を抱いた船だ。
「警備、凄か。全員ひだるか(お暇かい)。見つかったら仕舞いや。一応、こんなん持ってきた」
 彦馬はにっと笑うと、服の中から、束ねた小さな火薬を出した。
「カレフの部屋で見つけた。爆竹言うんや。邪魔したら、これ投げたる。鍬、おまえさんは、しっかり撮っと」
「問題を起こすな!」
「こんなんもある。面白いやろ。火をつけるとな」
 彦馬は蜷局を巻いた物体を見せ、屈んで火を点けた。鼠花火だ。
「これ好いとる。尻尾に火がついた鼠みたいで面白か! お、そっち行きよったで……」
 パパパパパーン! 役人軍団が花火鳴らした高台に気付いた。
 もんどり打ってとんぼした彦馬のケツを渾身で蹴り飛ばして、鍬次郎は怒鳴った。
「問題起こすな言うた! 何とかせい! 船、出てまうやろ! このあほんだらぁっ!」
「よっしゃああ! さあ来い! 長崎奉行所ぁ! 積年の恨み! 晴らしちゃる!」
 彦馬は囮のつもりか、威勢良く高台を駆け下りた。「っらぁ!」と爆竹を点火した音。スパパパパパパと連続した火薬に怯む人々。
 ――ったく。鍬次郎は、もう一度しっかり眼を凝らした。
 長崎港は横長である。船がゆっくりと蒸気を噴き上げ始めた。よく見ると、駿河守の姿があった。和蘭陀人と、握手している。――こんなんで、日本、嫌いにならんといて。鍬次郎は願った。やがて顔を真っ黒に染めた彦馬が上がってきて、今度は頭を叩かれた。
「ぼっとしてんな! あれや! あれ! ベルちゃんおるやん! おまえさん。目玉どっかに落としてんのか! ずんだれ!」
 彦馬の視力はどうなっているのか。鍬次郎は目を凝らし、ようやく見つけた。
「ベルー! こっち向けぇっ!」
 大型の蒸気船の舫い綱が外され、大海に押し出されてゆく。その甲板に、髪を靡(なび)かせたベルがいた。掌ほどの、ベルの姿は確かに見えた。役人がぞろぞろと上がってきた。手が震えた。ガヤガヤが煩い。手元がぶれそうになって、むかっ腹が立った。
「邪魔、すんなや!」と機具を向けた。見たこともない機具に、兵器だと思ったのか、発した閃光に驚いたのか、奉行所の役人数人が腰を抜かした。
(見ろ。一枚無駄んなったやないか! あほんだら!)
「おまえさん、やるなあ」と一緒に腰抜けたらしい彦馬が役人に取り押さえられた。
 鍬次郎は商館の船を靜かに眺めた。後で、深呼吸して、機具を向けた。
(これが、最後や――……これ、失敗したら、己にもう、舎密やる資格などない。だから、必ず成功させる。ベル、おまえがおった証拠、この国のために尽力した国があったことも己が遺す!)
 綿(めん)火薬(かやく)の爆発性の弱い種類をアルコールとエーテルで溶解するとコロジオンという小さな爆発が起こる。その後、すぐに湿板を引き抜き、硝酸と硫酸の混合液に浸し十五秒後に取り出して水洗し、乾燥すると硝化綿ができる――……
 実験によると、この後の手順の素早さが成功を導く。爆竹片手に、彦馬が振り返った。
「もたもたしちょるな! はよ、現像に行かんか! 鍬! 最後の爆竹! ハッハァ! つん(ひっ)つら(かき)かいちゃ(まわし)る(て)で(やる)! 長崎奉行所ォ! ウッヒョォォ!」
 何とも賑やかな。ベルがいたら、「なんや、おもろいなあ。うちもやるで」と笑顔になるに違いない。
 鍬次郎は銀板を引き抜き、走った。伝習所の警備を吹っ飛ばして、走った。
 用心のためにわざと遠回りして、暗室に飛び込んだ。
 恐る恐る見ると、銀板の隅は焦げていた。祈るつもりで、薬品をタプタプにした皿に沈めた。残念ながら、ベルの笑顔は撮れなかった。だが、上手く行けば、船の甲板のベルの姿は映るはずだ。
(これで駄目やったら、津に帰るか……本当に撮りたいもん、撮れんかったいうて)
 コチコチと〝時計〟が動いている音。じりじりと汗が噴き出した。一人油照だ。
 鼓膜を虐め抜いた爆竹音で頭ががんがんする。暗室を開けるわけには行かない。光が当たっては無駄になる。
(怖い。銀板がカタカタ己を笑っとる気がする)
 板を揺らして、取り出そうとした。ダダダダダダと廊下を走る鼠花火。いや、彦馬のドカドカうるさい足音だ。暗室の布がさっと揺れて、彦馬は忍者の如く、忍び込んできた。
「まだあかん! おまえさん、せっかちなんや。もっと、風呂入れる赤子みたいに扱え! 引き上げる時に薬品全部落としきらんと。ヨハネスに言うな言われてたばい。鍬の悪癖。薬品つけっぱなしが原因だ」
 シャツが焦げている臭いがした。しかも、片足の靴を履いていない。足音が左右で違う。
「彦馬……」「後にし。戸ォに箒(ほうき)、立てたで。しばらく持つ。役人(おまけ)ついてきたわ」
 扉を指すと、彦馬は皿を覗き込んだ。暗闇で、彦馬の気配が動く。近くで、彦馬は声を強め、ゆっくりと誓うように告げた。
「成功すんで。おまえとちゃんと舎密学を纏(まと)めあげるんが、今の夢。ええ夢よか」
(……そうやな。己も、もっと勉強したい。面白いんや、彦馬との日々)
「おまえは要らんがまあ、ええよ」
 初めて鶏卵紙(うらんし)を持った。この前段階で失敗していた。先ほどから手ばかりが震える。銀板から鶏卵紙に転写する作業は、鍬次郎は初めてだった。
「そうっと、そうっと。おなご扱うようにや。ベルちゃん思い浮かべ。頭、柔らかかったよな。壊れてまうから、壊れないように、撫でたらよか」
 鍬次郎の目に涙が浮かんだ。薬品漬けすぎの原因の中に、己の粗雑さを見た。
(何故、最初に、こんな風に優しく扱えなかったんや……想い出は、壊れやすい。だから、そうっと扱う。判ってたやないか……怖い、見るの、怖い)
 祈る気持ちで銀板をそっと持ち上げた。目ざとい彦馬が金切り声を上げた。
「おる! ベル、おるやん! ここや、ここ。ほら、この港も、長崎やん! さっきの場面やで! すっげぇ! 吾、見た。同じ風景や! どでけぇ目で、しっかり見ィ!」
 鍬次郎はこわごわと転写紙(てんしゃし)に視線を落とした。
 そこには、堂々と出港する和蘭陀の船に、小さく日本を眺める少女と思わしき姿が確かに映っていた。目を凝らすと、ベルは何かを抱えている。風車だ。風車をいじりながら、この地を離れたのだ。鍬次郎から受け取った風車。回らない歪な津の玩具。
「これ、風車や……ベルがおる。おったんや! 彦、どうしよう、己……ベルが好きや」
 瞬間、扉の箒が折れた。バアンと開いた向こうには、顔を強ばらせたヨハネス軍医の姿があった。涙も驚きで引っ込んだ。
「どうやって、箒を飛ばしたん? 大猿か」へらず口を叩いた彦馬は、げえっとなった。
「俺だ。扉を外したところで、箒を折った。上野彦馬! ちょっと来い! この問題児!」
 後に控えていた担当軍医カレフに、彦馬は瞬く間にずるずる引き摺られていった。多分火薬の件、他でたっぷり説教だ。……長崎奉行所に帰りづらくなった。
 ヨハネスが爪先を向けた。鍬次郎は反射的にさっと転写紙を背中に隠した。
「奉行所の皆さんにはお帰り願いました。問題を起こしましたね。鍬次郎。背中のものを見せなさい。――破(やぶ)ったりはしませんよ。さあ」
 首をふるふる振る自分が判らない。
(見せたらええ。自慢すればええ。なのに、なに、怯えておる……己)
 ヨハネスは「往生際が悪い」とぐいと鍬次郎の腕を持ち上げた。落ちた転写紙をそっと拾うと、真剣な目で転写した風景を眺めた。
「祖国の皆の、誇らしい姿が……これを合格としなければ、私に担当軍医の資格はない」
(今、何と? 合格?)ヨハネスの笑顔が二年前の試験と重なった。ヨハネスは僅か、目頭を押さえた。
「貴方は実力を示した。私が、推薦してあげましょう。もっと勉学をし、成長しなさい。きっと、それがこの国のためになる。上級へ行きなさい、堀江鍬次郎」
 見えなかった未来への導きの光が、ようやく見えた。手探りだった夢は、向こうから近づいて来た。
(あの時も、別れがあった。和泉守樣いう心の支えと引き替えに、長崎の地に辿り着いた)
 大切なものは常に背中を押し続ける。喜びと別れはぐるぐると回る。まるでお陽さんと、お月さんのようにくるくる回り続ける。
 ベルが振り向いた。あの時何と言っていたのだろう? 脳裏のベルが再び喋った。
〝月が綺麗やで。一緒に見んか? 鍬次郎〟
(なんで、津の田舎弁なんや……わけ判らん、涙、落ちよるし)
「おや。きみは、どすんとした侍ではなかったのか……転写紙に落ちてしまいますよ、涙」
 濁流の視界の向こう、困り笑顔のヨハネスの姿が歪んで落ちた――。

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