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❀1❀

 江戸は伊能(いのう)忠(ただ)敬(たか)というマメなおっさんが作成した大日本(だいにっぽん)沿海(えんかい)輿地(こしち)全図(ぜんず)によれば。
 津領から、長崎へ向かう航路は三つ。一つは、津から紀伊半島を回り、瀬戸内海、馬関海峡を通過、玄界灘に出て長崎へ向かう航路。次に敦賀から日本海側を行く航路。残る一つが、なんと黒潮に逆らって薩摩半島周りで進む航路。
 高猷は当然とばかりに黒潮を遡ると言い切った。
(大丈夫なんか、本当に。和泉守樣の決断は、時折危ういと知っておる。己、船には乗った経験がないから尚更不安なんやけど)
 蒸汽(じょうき)船(せん)はシュンシュンと心地よさそうに円筒から煙を噴き上げている。
 鉄と木造を織り交ぜ、見るからに頑丈そうではある。八十馬力・長二十六間・幅三間五尺・二百五十トンの鉄製スクリュー汽船は、船というよりは、軍艦の類いだ。
 江戸の御公儀(おこうぎ)から譲り受けた。予てより藤堂家と徳川家には主従以上の信頼がある。本邸に飾られていた鐙も、その内の一つ。
 と、艦がいささか強く、横揺れになってきた。
「藤堂の艦は黒潮なんぞに、負けはせん。陸に沿って走るから、遭難はない。本艦は室戸岬、足摺崎、佐多岬を通り、薩摩を過ぎて天草灘を通過して長崎だ。大樹樣から賜(たまわ)った汽船だ。黒潮に勝てる船は、日本有数。強さを証明できれば、大樹樣への恩義になる。お? どうした?」
「……和泉守様。腑がムカムカすんで。なんや? 目が回るんです」
「そりゃ船酔いや。来た来た。大人になれるで~。鍬次郎。船酔いを制覇せい」
(うう、揺れが酷ぅなって来た。……眩暈(めまい)も、ますます激しくなった気がする。船酔い?)
 津国から、まずは第一関門となる〝室戸岬〟。ますます黒潮の激しさも増しつつある。
「この潮の難所では、馬力を出しても、四ノットしか出ねぇ。しかも、全てを黒潮にぶつけ尚且つ信じられねぇほどの揺れが来んのよ。こんな序の口のちっちぇえ揺れじゃない、デカイヤツが何度も何度も」
 話に割り込んで、かっかっかと男衆は笑い、日焼けした顔を向けた。
(やはり最悪や!)鍬次郎は不機嫌最高潮の氷の視線を、高猷に向けた。
「もっと楽な航路があったはずでしょう! 和泉守樣!」
(いや、判っている。和泉守樣は、敢えて過酷を受け入れている。男として、苦難を自ら招聘(しょうへい)し、己を鍛え、常に時代の先を行こうとする。素晴らしい考えの基にやな……)
 命綱を掴みながら、背後の高猷に視線を向けた。
(……怪しい。子供の好奇心爛々の目をしている。このおっさん、興味で選びよったな!)
 振り返って吐き気をぶり返させた。胃液の苦さがまた気持ち悪さを呼び起こした。出掛けに飯を腹一杯に食って来た。津の少年は皆、しばしお別れの故郷料理を、悦んで食べた。
 船の上でもよく動く、水主(かこ)と呼ばれる男衆は、船酔いの気配など微塵もない。海慣れした若手衆は誰も彼も逞しい。悔しい。鍬次郎は右手で口、左手で頭を押さえて背中を向けた。そろりそろりと手摺り磨きで艦橋を渡ろうとし。
「ここからが大勝負だぜぃ、丸頭」ゲラゲラ笑い声と共に、艦はぐるんと南西を向いた。
 海は文字通り真っ黒に、墨を流し込んだような黒い潮が蛇行している。
 船は悠々と黒い潮に突っ込んだ!
「紀伊半島の熊野灘だ。「大蛇行流(だいだこうりゅう)路(ろ)」! 江戸の浄瑠璃(じょうるり)も真っ青の、荒波遊興だぜぃ!」
(ヒィ)と目を瞑る足元で、大きく艦体が跳ね上がった。仲良く水を被った高猷が吼えた。
「こんな潮、突っ切ってしまえ! オイコラ、全力でやらんと、全員、海で寒中水泳させんぞ、こら! がんがん罐(かま)に石炭ぶっ込んで速度上げぇや! 容赦はいらんで!」
「これ以上揺らさんといてやぁ! し、死んでまうやろ……っ!」
 男たちは喚(わめ)いた鍬次郎にニヤニヤ笑いながら、仕事に戻った。彼者(かのもの)は帆を大きく拡げ、縦帆を風に向けた。艦は唸り軍艦は蒸気を上げ、一層ぐんと逞(たくま)しく、海原を斬り進んだ。
「うっ」また視界が回った。鍬次郎は艦橋の手すりに寄り掛かって、胃の中の痞(つか)えを吐き出した。(地獄)の言葉を脳裏に浮かべる。
 すっかり〝津領の親分〟の表情になった高猷は、平然としていた。
「鍬次郎。目ばっかり回してねえで、見ろ」
「回したくて回してんじゃない! 勝手に回るんや! 目がぐるぐるぐるぐる」
 再度、ゲー、となった。怒るも叫ぶも、無理。勝ち気に言い返せば吐き気もついて来る。
(こ、ここは大人しくしてたほうが懸命や……。うー。胸くそ悪……)
 俯いた鍬次郎を波は虐め抜くかの勢いで、艦を叩いては、去り、また強く艦を揺らした。
「鍬次郎。船酔いなんぞにヘコたれてんじゃねえ。目の前だ、前!」
(くそぉ、目が回る言うとるやろ!)顔を上げて、高猷の刳(しゃく)った方面に、ようやく目を向ける。と、海水が、円形に集合していた。渦とも違う。まるで一つの生命体の如く、浮かんでいる。涙目で鳩が豆鉄砲食った顔の鍬次郎に高猷がせせら笑って教えてくれた。
「冷水塊だよ。温度差でできる現象やで。一度、発生すると、消えるまで十年は掛かるそうでな。これは、幸先が良い」
 聞いていた水主の一人が唸りを上げた。
「異変の〝黒潮(くろしお)大蛇行(だいだこう)〟! 当主サマよ、あんた、津には戻れねえやも知れんぞ」
 高猷は、せせら笑った。鍬次郎の丸い頭に寄り掛かりながら、独特の口調で野次った。
「なァにが異変や。命名してやる。これは〝津の奇跡の渦〟。面白いこの世界の、面白い部分は、一つでも多く、とことん見て死なんと損や。それに、俺にゃ、奥のほうが怖ぇ、怖ぇ。こんな渦、奥の睨み顔と勝負になんねぇ」
 水主と若手衆が、藤堂家の奥方・瞳子を手に入れた男、高猷への文句を言い出した。
「憧れのオンナを手に入れた俺に憧れてもいいものの。野郎という輩は単純やなぁ」
 騒然とした艦は賑やかさで埋め尽くされていたが、鍬次郎は酔い対策に必死だ。
 何しろ、こんな揺れなど知らぬ。艦の震動に慣れるには時間が掛かるだろう。
(……そうか、遠くを見れば。酔いも軽い。目を動かさなければ)
 〝奇跡の渦〟を見詰めていた鍬次郎の横に、うんざりした顔の高猷が寄った。
「あいつらに、褒賞はやらん」と冗談で告げて、手すりに腕を伸ばした。
「いい風だ。穏やかに四国を抜けられる」
「てっきり、瀬戸内海を横断すると思ってましたけど……ゥ」
「その航路だと、時間を喰う。干満が一日二回やで。その都度、停泊してたら、半日は余分に掛かる。その点、黒潮を遡航(そこう)しちまえば、まあ、水主の一人、二人が溺れるくらいで済む。人生にゃ、荒波も必要だろうが」
(それは違うで! 断じて違う! 要らん、荒波など、要らんっ! ついでに船酔いもや!)
「和泉守樣。恐れながら申し上げ候(そうろう)」と鍬次郎は吐き気を持ってしても慇懃無礼(いんぎんぶれい)に反論しようと唇を尖らせた。高猷の声がふわりと柔らかくなった。
「飛び込んで、溺れりゃええ。やがて水にも慣れてくる。両手両脚で大騒ぎして、泳ぐ行為を思いつく。気がつきゃ泳いでる。そういうもんだ。鍬、おまえの道は、こんな荒波よりも激しいぞ。何しろ、長崎海軍伝習所にゃ、猛者が犇(ひし)めき合ってるからなァ」
 しばし、船酔いがぶっ飛んだ錯覚がするほど、息を飲んだ。
「全部ぶっ倒して、頂点を目指せ。他人を押し退けるんじゃねえ。己の頂点ぞ。津から派手に文明の嵐、起こしてやろうじゃねえか」
 和泉守樣は、男ならば飛び込めと言いたいのだろう。鍬次郎は竹蜻蛉の職人になりたいなどと言い、親父を仰天させた。勝ち気だが、元々戦いに向かない性質だ。
 ――刀で、人を殺すは嫌だ。侍など、夢も興味も抱けやしない。
 また船体が大きく持ち上がった。うげ、と顔を顰(しか)めた鍬次郎に「そろそろ限界やな」と高猷もまた顔を顰めた。見れば額に脂汗が浮かんでいる様子。(己と同じやないか。大人なのに、船酔いしとる)。ちょっと溜飲が下りた。
 蒸気がモクモクと空を煙で染め続けている。黒潮が勢いよく巻き上がり、艦に反発する。
 目前には出っ張りの陸、室戸岬(むろとみさき)が迫っていた。
 男衆は船酔い連中をゲラゲラ笑い、波を突っ切った。更なる大揺れが艦を襲った。
 幾つもの荒波を乗り越える度に、艦体が持ち上げられる。檣に摑まった鍬次郎の脳裏では、先ほどの高猷の言葉がぐるぐると渦を巻いて暴れていた。
 己の頂点。だが、まだ登る山も、溺れる海も見えてはいない。理想を語るは簡単だが、誰が行く道が正しいと証明できるのだろう?
 胸にも、冷水(れいすい)塊(こん)。いや、〝津の奇跡の渦〟? そんなものは、どうでもいい。
(な、長崎まであと五日やて? まだまだ序の口、やて! 耐えられるのか、己は……!)
 早くも前途多難。真っ黒の海の如く、お先真っ暗、というやつだ。

❀2❀

 航海の夜は危険。軍艦は土佐港で、錨を下ろした。抜け殻の吐き通しの地獄が終わった。
(も、もう艦など乗りたくもない! 海など大嫌いじゃ。しかし、長崎には海軍の勉強に向かうわけで……ああ、判らなくなってきた。己、何しに行くんだっけか)
 港には他にも艦船が泊まっているが、どれもこれも巡洋艦レベルの軍艦だ。水主たちは食糧と水の確保で一度、戦艦を下りていった。
(あー、くそ。まだ揺れている気がする。脳内がぐわんぐわん回ったままやんか……)
 鍬次郎は意識を逸らそうと、やりかけた竹蜻蛉を思い出した。
(確か竹籤は削った。あとは羽の部分を如何に薄くするかだが。ここからが勝負……)
 カタン、と階段が軋んだ。ひょいと津から従いて来た若手衆が一人、顔を見せた。
「鍬次郎、当主がお呼びや。そろそろ食事やで。こっちゃ来い」
「飯なんぞ、要らん。どうやったら喉に通ると? まだ、気分が悪い。断る!」
 同僚と雑談を交わしながらヨロヨロと甲板に出ると、早くも空は夜に傾いていた。
(和泉守様は……いたいた)
 手すりに寄り掛かってぐったりしている〝駄目な大人〟の姿を見ぬ振りして、鍬次郎は手すり掃除の要領で、近づいた。
「鍬か」と幾分か安堵した後で、高猷は「みろ」と顔を上げた。
 灯台に照らされた八〇丈の断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)の下。波が激しく地表を削っている。
 白い砕け波は岬にぶつかる度に、黒く海を揺らし、月光の下、大暴れして波は引いた。
「足摺崎や」と高猷が視線を向けた。
「滅多に見れん。鍬次郎、おまえは無理矢理にでも、危険を知ったほうが良いと思うてな」
 一層びゅうびゅう風が激しくなった。高猷は涼しげな横顔を向けていた。
「南向きで暖かい岬やで。天女がおる極楽浄土の宴は興味あるが、まだまだ幽(かくし)世(よ)に行くには早い。奥が泣くやもな。今生の別れでもあるまいが、奥には悪い話だったかも知れん」
 鍬次郎は船酔いを忘れ、聞き入った。あの激しい抵抗は、奥方樣の合図だった。
(船旅は危険や。五日でも、死を覚悟しなければならない。よぉく判ったし、思い知った)
 津で燻(くすぶ)っていた少年十二名を、藤堂家当主が自ら、危険を冒しても託したいと、長崎への航路を進んだ。それも、目的は〝江戸の大樹樣の役に立つ、人材を育てるため〟だ。
 ――堪(こら)えてくれた奥方樣。危険承知で、来てくれた和泉守様。船酔い、してられん……。
 言葉が続かず、鍬次郎はぼけっと高猷を見詰めたままになった。高猷はそっぽを向いた。

❀3❀

 波の揺れは激しいが、嵐には見舞われずに済んだ。航海四日目に差し掛かると、黒潮とも別れを告げる地点まで船は来た。
 大隅(おおすみ)半島(はんとう)、佐(さ)多岬(たみさき)である。
 鍬次郎は船酔いを抱えつつも、持ち前の勝ち気で艦首(かんしゅ)まで這い出しては、他の少年に混じり、高猷の言葉に聞き入っていた。高猷は、世界と歴史のあれやこれやを説明した。
「佐多岬を経過し、天草灘(あまくさなだ)に入る。ここからは黒潮の邪魔もねえから、速度を上げて向かうぞ。元気よく行こうな。船酔いなんぞ、うっちゃらかして。そら、異国の船がいる」
 いくつもの帆をはためかせ、異国の旗を掲げた大型の船が、ゆっくりと横切ってゆく。
「中央に、追い返された異国の船や。大樹樣は長崎か神戸から出直せ、と沙汰を下したに決まっておる。横浜なんぞから国交など、できまいて。阿呆や」
 進むごと、異国の船がちらほらと海面に見えるようになってきた。
「キリシタン騒動で、葡萄(ポルトガル)牙と西班(スペイ)牙(ン)は日本から追い出された。あの船の形態は、英(イギ)吉(リ)利(ス)船やな。今は和蘭陀(オランダ)との国交が盛んと聞くで」
 世界の訊いた覚えのない国の名前。聞くもの、見る物すべてが、面白い。鍬次郎は貪る如く、異国の風景に夢中になった。
「そら、もうすぐ天草灘に差し掛かる。一層、異国の船も増えてくるだろう。鍬次郎、数えても無駄や。淸水婆の零した米粒より多いからな」
 黒潮を抜けて、船は急激に速度を上げた。酷い揺れはない。少しだけ、揺れと流れる視界にも慣れた気がする。
「長崎までは半日や。落ちねぇようにな」と高猷は船室に戻って行った。
 やがて鍬次郎も甲板を引き上げたが、船酔いに慣れた余裕か、異国の風景への興味は尽きない。何度も何度も命綱を持っては、甲板と船室を行き来する。
 ――蒼海の色が鮮やかになった。
「近づいたんや。もうすぐ、波止場が見えて来んで」
「和泉守さま、来たことあるん?」
「一度、下見にな」
 ――なんや。かっこええ。この荒波を数度往復していた和泉守の力強い眼に、鍬次郎は見惚れた。
「ここからは流れも緩やかやで。命綱持ってれば、まず死なん」
 潮が漆黒から、淡い青に変わってゆく。ざぶんとした波も、足摺岬とは大違いだ。
「長崎やで! もうちょっとだ! ちゃっちゃと乗り切れぃ!」
 船夫たちが俄に賑やかになった。
 鍬次郎はしばらく甲板で、見え始めた〝日本の表玄関〟を眺めていた。色とりどりの帆を風に遊ばせ、泊まっている帆船に色の変わった海。歪曲した港・長崎港。埠頭にちょこんとある粗末な見張り台に、ずらりと屋敷を等間隔に並べた街区。
 屋敷群を背にした場所には大きな赤塗りの昇殿がある。
 規模が違う。艦に乗っていても、日本に迫る世界の波は、ひしひしと押し寄せてくる。風は少し暖かく柔らかい。
(凄ぇ。なんという、力強い波動。海が眩く光っておる。面白ぇ)
 まだ長崎で燻(くすぶ)っている文明開化の音と声が耳を澄ませば聞こえてきそうではないか。
(これが、長崎、同じ日本とは思えへん……! なんや、すごい、すごい迫力や!)
 船はゆっくりと罐の動きを止め、すー、と水面を滑るように波止場に近づいた。
「賑やかやなあ」「蒼海が光っておんで!」
 同じく甲板に出て来た津の猿たちが、好奇心で顔を光らせている。
「燈籠を流してんのや。ほら、おまえらがいると、船夫たちの邪魔だ、邪魔。船室の散らかりっぷりを何とかせえ!」
 ――やだもん持ってきな! つぶやかし仕掛けんぞォ!
(やだもん? つぶやかし? なんじゃ、そら)
 海面が、ぽう、と淡く光っている中、聞こえてきた妙な言葉に、鍬次郎は首を傾げた。
 少年たちが、闇に紛れてバタバタと走り回っている。よく見ると、凧だ。
「こんな夜に、まーだ、ハタ揚げ大会か。相変わらずのお祭り御料(ごりょう)め」
「祭り? あれ、祭りなんですか」
「そうよ。ここいらの連中は、何かというと、祭りを始める。ほれ、見えるか? あのお屋敷群が唐人屋敷。異人さんたちを持て成す場所さァ。今日は春祭りの日だったなァ。ハタとは凧(たこ)。やだもん、とは奪うための棒や。凧を奪い合うガキの遊びだが、これがまた物騒でな……」
(また海が光った……)
 近づくごと、海に流された灯火はゆっくりと波に押し流されては、どんぶらこと流れて行った。判った。四角い匣に、蝋燭(ろうそく)が灯されて流れている。数はあまり多くないが、何のために流しているのだろう?
 鍬次郎は、幼少に、障子に映った柳の葉っぱが逆さまな事象を不思議がった想い出をぼんやりと脳裏に浮かべる。
 夜光に照らされた柳の葉は何度見ても、逆さまだった。思えば、鍬次郎の〝不思議〟への興味はあの瞬間から目覚めたのかも知れない。
(あほんだらな親父は、答えてくれんかった。何故か、思い出すな……)
 津の好奇心旺盛な少年が、我も我もと甲板に集まっては、風景の論議を始めようとする。
 あまりに違う、世界の匂い。迫る異国同様の地。艦はゆっくりと港に近づいてゆく。
(何を怯える。同じ日本だろうに。親父にせせら笑われる。しっかりせい)
 鍬次郎は御守りの父の刀を、ぎゅっと握り締めた。長崎着港の汽笛が大きく鳴り響いた。

❀4❀

「長崎奉行所に顔を出して来る。すぐに戻る。ここで待て」と高猷はどすどすと重い足音で軍艦を去った。
(相変わらず、せせこましいな)と見送っている鍬次郎に船夫の一人が歩み寄って来た。
「驚いたかい、侍のボッチャン。さて、みな散ってったが、いいのかねェ」
 言われて振り向くと、津の少年たちは、降りるなり思い思いに祭りの環に加わっていた。
 祭りの行列だ。みな、ぞろぞろ後をついていく。太鼓、御輿、お囃子。張りぼての大きな龍の模型を持った男たちが恰も龍様が暴れているように見せかけて、通り過ぎた。
 大通りを練り歩くらしく、裸足で土を踏んで、賑やかに去って行く。
「こら! 和泉守樣の命令が聞こえなかったのか! ついて行くな!」
 しかし、少年たちは鍬次郎の言うことなど聞きはしない。どうしたものかと考える前で、また一つの御輿が近づいた。
「女の御輿やぁ……凛としてて、ええな」
 晒しを巻き、肩に粋な法被を纏う。「唐人屋敷の御輿や」言われて見れば、綺麗どころばかり。見とれているうちに、鍬次郎はすっかり人混みに囲まれていた。
 太い婆に挟まれて、むぎゅっとなった。
「あの! 出られないんやけど!」シャンシャン鳴る鐘楼と、太鼓。よいとまけの笛に、葦笛。尺八の音に「鍬次郎!」と負けない高猷の大声が聞こえ、鍬次郎は腕を伸ばした。刀を掲げつつ、人混みに流されそうになった。
 御輿を追いかける列に巻き込まれていると気付いて反対方向に抜け出すと、ようやく息が吸えた。人の波を抜けたところに、巴旦杏(はたんきょう)の木を見つけ、鍬次郎は息を吐いた。
(何だってんだ。いったい!)抜け出したはいいが、服はぼろぼろ、草履はほつれ、上着は緩んでいる。髪は……どうせ硬くてボサだから、変化なし。
(和泉守樣の声がした。はぐれたらしいな。己は祭りの最中だなどと、聞いてない)
 月が蔭り始めた。妙な気配を感じ、鍬次郎は振り向いた。
 ――鬼や!
 月光に鬼の般若の顔が浮かび上がっていた。違う、天狗面だ。被った男が、鍬次郎の背後に忍び寄っていた。
「我は長崎の鬼――ア――……名前がのうては、かっこ悪い……な、長崎じゃ!」
 男は「ウォォ」と襲いかかる真似をした。鍬次郎は、すたすたと歩み寄って、天狗の長っ鼻を掴んで振り下ろした。
(生憎、茶化されて黙っていられる性格やないで!)
 勢いよく鬼の面を剥ぎ取った。月明りにどんと現れた牙剥き出しの般若に後ずさった。
(くそ、二段構えとは卑怯な! 動揺した。弱味を見せてなるか!)
 素知らぬ振りで、睨み続けた。般若が「ああ、もうっ!」と自ら面を剥ぎ取った。月が雲間から姿を出した。
 ザンバラにした髪を一纏めに縛り上げ、適当に散らしている。双眸は爛々と輝き、鍬次郎を映していた。印象を覚える眼だ。ちょうど那智の黒飴のように透き通った黒い目。
「驚け、面白みがないじゃなかか!」と男は頭をガリガリやり、鍬次郎を見下ろした。
「知ってるぞ。おまえみたいな格好、お侍と言う。――刀、持ってるし、変てこやん」
「おまえこそ。なんで袴の丈が違うんや。それに、そんな着物は、見たこともない」
「やぐらしか。吾(おれ)はハタ揚げに負けて、機嫌悪ィんだ。ふうん」と、じろじろと田舎者の観察をしながら、般若の少年はニヤついた。
「それ、刀か」
 訊かれて、鍬次郎は脇差しに手を当てた。
「お侍さーん、刀ぁ抜いてみ。かっこええから、吾、見たいなぁ」
 胡散臭い笑顔だが、好感が持てる。期待されるは大歓迎。
「しゃあないなぁ。ちょっとだけやで」
 鍬次郎は、颯爽と刀に手を掛けた。柄を握ると、父の忠一を思い出す。抜刀しかできないが、刀に触れると、眠っていた侍の息吹をちゃんと感じる。
 鍔なりをさせて、鍬次郎は「ほら」と刀を引き抜いて、見様見真似で翳した。
「凄い。かっこよか!」
 方言になると、途端に男らしさが出る。不思議な声音の持ち主だ。
「触ってみるか?」と気を良くして、刀に触れさせてやった。「結構、重いんだな」と般若の少年はゆっくりと鞘に納めながら、にやりとし、低くゆっくり、呟いた。
「こいなら、斬れるとばい。あやつの首……っ!」
 ――首? ぞっとするような低い声に呆気に取られている前で、般若の少年はサササと蜥蜴(とかげ)の如く逃げて行った。しかも、刀を持ったままで、土手を駆け下りて逃げた!
 鍬次郎の雄叫びが長崎港に響いて消えた。草履の紐を引きずって、鍬次郎は船酔いを抱えつつ、走り出した。
「このやろう! 己の刀、返せ――っ!」

❀❀❀

(どこ行った! 気配が消えたで!)
 追いかけたが、般若の少年は、足が速い。葦のびっしり生えた土手を滑り降り、途中の躑躅(つつじ)を飛び越え、咲き誇った菜の花の畳を横切り西の建物の一角を飛び越えて消えたところだった。
 竹と草の巻き付いた洋館仕立ての城壁は、異国の匂いがする。頑丈で、高い。
 ――まだ、気配がある。この壁の、裏に、いる。
(中に入ろう)思ってハタと気付いた。この城壁を、どうやって超える? 
 長崎の鬼はひらりと飛んだが、足に羽根でもついているのか。
 鍬次郎はごん、と壁を小突いた。手がじんじんした。見た覚えのない素材だ。
(あいつ、本当に鬼か! なんでこんな壁を乗り越えられるんや)
 やたら頑丈な扉に書かれているは『長崎(ながさき)海軍(かいぐん)伝習所(でんしゅうじょ)』。
『長崎海軍伝習所』とは大樹樣が、未来の日本を支える人材育成として、建築した異国の文化を知るための学舎。鍬次郎が入学する予定の学舎である。
「伝習所って! 己の目標やないか!」
 ――なんてこった。泥棒鬼を追いかけて、目的地に辿り着くなんて。鬼少年、伝習所に通っている話になるやないか。
 有り得ない。今は奪われた刀だ。親父に知られたらと思うと、気が気ではない。堀江に伝わる、伝刀。爺さんの爺さんから、父へ。父は鍬次郎に託したかったのかも知れない刀だ。二倍の良心の呵責(かしゃく)など、ご免被りたい。
(それに、あの鬼っ子、首って……何するつもりや、己の刀で!)
 爪先を伸ばし、見上げると城壁の上には軍艦のてっぺんが見えた。
(船が、陸におる。もしかして、これが軍艦? でっけえな……)
 潮と桜の香りがする。夜桜が濃紺の空に、黒い影を拡げている。見とれている内、足音がしなくなった。りぃんりぃんと春蟋蟀(こおろぎ)。ざわわと夜風。遠くに祭りのお囃子。
 ――しまった! 完全に見失った!
「親父の大切な刀やで! お祭り小僧! 侍は刀が命だと知っての狼藉か!」
「鍬次郎!」と遠くから、提灯を持った長崎奉行様を従えて、高猷が走って来た。
「刀、どうした。親父の刀、どこへやったんや!」
 見抜かれた。敬愛する和泉守樣の、「ええか、侍にとっての刀は古来から命に等しいもんや! そもそも、鍬次郎は……」説教が始まった。また視界が揺れ始めた。

❀5❀

 ぐわんぐわん視界が回る。鍬次郎は再び軍艦に乗せられていた。刀をなくした事実に怒った高猷が、鍬次郎を甲板にぶら下げて、艦を走らせている。
 ぶっとい命綱のはずが、大きな錦蛇が鍬次郎に巻き付いていた。シャー、と小馬鹿にしながら口を開け、チロと気持ち悪い舌を見せて笑った。
(ひぃぃ、蛇、あっちいけェ!)と手で払ったら、命綱がなくなった。
 大波が大蛇になって艦を叩く。狙う如く、空から、黒い波が降って来た。
(なんだ、不気味な黒い枝! 己に寄るな、あっちへ行け! 刀は、あれ? ない?)
 己の刀がない! そんなばかな! 軍艦が回る。津の奇跡の渦が、ぽっかりと口を開けた。艦は大きく旋回し、吐く暇も与えてはくれない。でっかい渦に呑み込まれる!
「うわあああああああああ!」
 汗びっしょりでの己の叫び声に、夢から覚めた。鍬次郎は、がばりと起き上がった。
「なんや、夢か……ひっどい悪夢……」
 しとしと、と雨の音。次に目に映るは、質素な天井。恐る恐る手を床に這わせると、藺(い)草(ぐさ)の感触。畳だ。藤堂本邸の数倍は立派な屋敷の一室に鍬次郎は寝かされていた。
 布団も、それなりに綿の詰まった高級品だ。津ではなかった。黒塗りの格子に、障子。遊郭を思わせる靜かな廊下に、鹿(しか)威し(おどし)の微かな竹が落ちる音。
(そうだった。ここは、藤堂領ではなく、長崎やった……)
 数日の航海を経て。もう波に揺れる悲劇も、げえげえと胃液を吐き出す地獄もない。目的地に到着して、泥のように眠っていた。今度は寝過ぎか。頭が痛い。
(二度と軍艦など、乗りとうない!)と鍬次郎は頭痛を堪えながら、障子を開けた。
 土砂降りの雨模様が視界を埋め尽くした。春霖(しゅんりん)の雨音の激しさに驚き、障子を閉めた。
 濡れそぼった桜の木々が更に真っ黒に染まり、不気味に揺れている。涙目で睨むと、桜の木々は澄まして揺れた。
(こいつのせいか、墨色の龍! 怖かったで! 蛇になりよって、この!)
 苛々しながら、起き上がって、着物に袖を通したところで、遠くから、高猷の声。
 鍬次郎は焦って身支度を調え、取りあえず、雨水で顔を洗った。あるはずの刀を探して、はっとした。刀は奪われたのではなかったか。悪夢の前の、悪夢は現実だった。
「そうだった。長崎の鬼に……。取り返せず戻って、己は和泉守さまにケツを蹴られて、部屋でお説教……」
 庭先の番傘がゆっくりと揺れた。
「いつまで船酔いで、寝てやがるんだ、鍬次郎!」高猷だった。

❀❀❀

「ここか? 長崎奉行所の屋敷や。長崎の中心部やな」
「伝習に来た己たちが、何故に長崎奉行樣のお屋敷に? 留置所よりは、ましですが」
 高猷は煙管を銜えた。番傘を受け取った鍬次郎の前で、煙をくゆらせた。
「数年前からな、長崎海軍伝習所の総督は、長崎奉行が務めておる。百十二代の長崎奉行は岡部(おかべ)駿河(するが)守(かみ)殿。やり手やで。伝習の前には、挨拶が義務づけられておる。長州や土佐が従ってるんや。藤堂が従わねば問題になる。とはいえ、俺も昨晩、初めて逢うたがな。凛としたええヤツや。ちょっとお堅いところは苦手だが」
 また鍬次郎から番傘を受け取り、雨の中を歩き出した。
「他の子はとっくに長崎の街に出て行った。船酔いの夢で魘(うな)されてる阿呆。ひ弱」
(阿呆だよ、どうせ弱いわ。……長崎のお奉行樣か)と反芻して、ぱっと顔を上げた。
「何や」と高猷が僅かに細目を開けて見せた。
 ばしゃん、と水溜まりに突っ込んだ草履の、爪先が濡れた。
「昨晩、親父の刀を持ってかれてもうた」
「ボケボケしてるからや。なんや、鍬! 俺の仕立てが伸びるやろが!」
 鍬次郎は和泉守の着物を鷲づかみにして、躙り寄った。
「お奉行さまに、己の刀を取り返して貰えんかな! 何が鬼だ。単なる盗人や。鬼の面で誤魔化すなんて、卑怯にもほどがある」
 藤堂の若手衆を纏める親方の迫力あまりある視線が痛い。鍬次郎は肩を竦めた。
「何を甘っちょろい話。長崎奉行は、唐人(とうじん)屋敷(やしき)に送る丸山遊郭の遊女の花魁道中の警備で手一杯と見た。ああ見えて、多忙やで。刀探しなんぞやらんだろ」
 言いかけて「待てよ?」と高猷は一人でふむ、と頷いた。
「せやな。雨の中の花魁(おいらん)道中(どうちゅう)でも見に行くもええな。駿河守にも逢えるしな」
 高猷は、にやりと笑った。
「そのついでに、鬼の盗人の顔くらい見てもバチは当たらんよ」
 いつでも高猷は味方だ。鍬次郎はほっと頬を緩めた。

❀❀❀

 動きにくいだろうと、高猷はもう一つ、番傘を調達してくれた。長崎の街を散策していると、やがて、扇状(おうぎじょう)の配置に気付く。坂をゆっくりと下り、港に近づくにつれ、地形が良く見えるようになった。扇型の地線をなぞるように、様々な屋敷が所狭しと並んでいた。
 中央に一際ぐんと大きな屋敷群がある。扇型にみっちりと屋敷が詰まっている光景は、ぎゅうぎゅうに詰まった饅頭を思い出させた。
 ――津の、饅頭、喰いてぇな……婆樣たち、元気かな。
「埋め立てたんや。異人さんが溢れ、区画整理したら、奇妙な街並みになりました、とな。それが、長崎の出島や」
 港らしく、船やら軍艦が、たくさん泊まっている。異国と思われる旗や帆も多い。煌びやかで、堂々としている艦船に魅入っている鍬次郎に高猷が告げた。
「先進的な技術がてんこ盛りや。あれが砲台、あっちがエンジンという新しい動力源や。石炭とちゃう。平賀のおっさんが見つけたばかりの電気を動力源にしてるんやな。俺も、佐賀海軍所周りで軍艦を補修して津に戻る 決めた。立派な軍艦にして、大樹樣、驚かせたいものや。奥も魂消(たまげ)るで。しかし、よく降る雨や」
 長崎の雨は細く、切なげである。
「ここらは、既に異国や。文化の違い、堪能(たんのう)せぇよ、何しろ、おまえは、これから伝習」
 高猷に釣られて、ちら、と立派な洋館を見上げた。チラチラと金髪の輝きが眼についた。
 女の子だ。手を窓に添え、鍬次郎を見下ろしている。
(雨を見てるんか。おしとやかで、ええな。可愛いやないか……)
 カタン、と窓が開いた。驚く鍬次郎の前で、少女が顔を上げた。青色の眼に金色の髪。異人(いじん)だ。鍬次郎と視線が絡むと、少女はすぐにササッと窓から消えた。
 しばらくして、指先だけが現れた。また、頭が見えて、ちら、と顔を覗かせた。
(あは。まだ見てる。気になるんかな、袖、振って見るか。あ、反応した。次は……)
「唐人屋敷の中心。和蘭陀商館やな。全然、作りが違う。……何見てるんや? 鍬」
 ばばっと慌てて傘を掲げた。蹌踉けて傘の水を全部落として、びしょ濡れになった。
 げっそりしながら傘を持ち直し、ちらと窺うと、窓際はもう無人の様子だった。
(可愛ぇかったな……異人初めて見たで。綺麗で、可愛ぇ)
 ぼわと目をうつろにした。雨音の合間に、高猷は独特の口調で名前を呼んだ。
「駿河(するが)守(かみ)殿! なんと好機な! 丁度探しておったんですわ」
(己を見て、どう思たかな。己、猿と間違えられてへんかな。もっとかっこいい絣木綿……)
「鍬次郎」正面に割り込んだ和泉守のおっさん顔は、たちまち、美少女の残影を弾き飛ばした。
「とっとと挨拶せんかい! なんや、ニタニタしおって気持ち悪いわ」
 鍬次郎の番傘の隙間から、やがて爪先と、帽を被った男の姿が見え始めた。
 奉行というには、細い。しかし、目線は高猷と同じくらいに鋭い。髷(まげ)を結い、きりりとした眉に、細面な輪郭。頬と眼元には大きな切り傷。何やら物騒な表情ではある。男は軽く頭を下げた。(うげぇ)鍬次郎の大嫌いな蛇に似ている。夢に出て来た蛇だ。
「長崎奉行、岡部駿河守殿や。鍬、宿を借りた恩義をちゃんと言え。駿河守殿、船酔いで寝倒していた、最後の一匹の津の小猿ですわ。さっき寝顔見とったやつです。寝てると小猿にしか見えんもんで驚いたでしょう」
 むっとしながら「津の小猿、堀江鍬次郎です」と慇懃無礼に言ってやった。表情は変わらない。偏屈な印象だ。反論を許さないと顔で反論しているような。
 高猷には関係ないらしく、津の大将はずいっと草履を進めた。
「こやつの刀。長崎到着と同時に、かっ攫われた。これは長崎の治安が悪い証拠や。それも、また、伝習所付近や。問題が多いと聞きますなァ」
 カッ、と駿河守の目が本気になった。(お奉行樣に喧嘩を売ってどうするんや!)と思いつつ、間に入った。
「黙って持ち出した父の刀です。知られたら、己は猿のケツになるまで、尻叩きに遭い、「馬鹿息子、息子に非(あら)ず」とばかりに、掛け軸に名前を書かれる。嫌ですよ」
「ついでに藤堂の掛け軸にも俺自ら、書き残してやる。婆様が手を合わせて有り難がるで。礼は弾む。こっそり積んできた津の地酒という辺りで手を打とうやないか。好きやろ?」
 くい、と酒飲みの真似に、にこりともしなかった駿河守の口元が、ニヤリと緩んだ。
「唐人屋敷の和蘭陀商館。猿には手も届かん相手だな」
 ――鍬次郎は閉口した。

❀❀❀

 何人もの遊女とすれ違った。「ええなあ、雅や」とその度に足を止める高猷と、鍬次郎、駿河守は、艦を泊めた場所までやって来た。見事な藤棚が垂れ下がる丸山遊郭の屋敷が見える。それに桜の鮮やかな桃色が、雨を染めて濡れていた。
 鍬次郎はというと、道中、ずっと駿河守の鋭い尋問を受け、げっそりした。
「鬼の面に騙された? なるほど。普段なら、刀を手渡したりせぬ、と。城壁飛び越えて?」
(まさか、調子こいて抜刀して見せた、とは言えない。和泉守樣にどやされるは、ご免や)
「己は、結構強いんで、普段なら……」と虚勢を張って、そっぽを向いた。
 異国でなければ、走り回って捕まえるところだが、地に弱い上、視界も暗かった。
「この屏を跳び越えた? そりゃ鬼っこや、諦めな」
 短気な高猷は早くも疑いと投げやりの眼を向けた。
 うんざりしつつも〝地酒〟に釣られた駿河守は、壁をカンカンと叩き、蔦をぐいぐい引っ張って、壁を見上げ「江戸にも忍者がおるし、不可能ではないが」と答えた。
 相手にされていない口調に、鍬次郎の神経がささくれ立った。
「確かに、壁の向こうに気配がした。すぐにいなくなったけど。己は、集中力には自信がある。なんせ竹蜻蛉を作り始めると、あっという間に日が沈むんやから」
 貧相な自己主張して、改めて壁を見上げた。高さがある。そもそも何のための壁だろう?
「そういえば、昨日も、ガキが集まってハタ揚げ大会をやっていた。ハタ(凧)を奪い合う迷惑な騒ぎだ。おい、そこと、そこの……お前とお前」
 駿河守に呼ばれ、数人の侍が駆けつけた。気付けば異人が物珍しそうに「サムライ! サムライ!」と手を叩いて喜んでいた。突然の青い目に晒されて、鍬次郎は居竦まった。
(目が魚ばりに青い! 己、とんでもない場所に来たんじゃなかろうか……)
「長崎に侍がいるにはいるが、俺の傘下の一部だ。珍しいのだろう。さて、僅かな時間だが、津の客人の刀を探す手配をしよう。夜には花魁の警備に向かう。日没までだ」
 駿河守の目は蛇みたいに細く、鋭く鍬次郎を見据えていた。まさか舌を伸ばしはしないだろうが、蛇奉行、と心で仇名を決めて、呟いた。

❀❀❀

 雨はやがて止み、夕陽がゆっくりと顔を見せた。刀の行方は、とうとう判らないまま、夜を迎えた。
 蛇奉行が毒を吐いた。
「尽力はしたぞ、和泉守殿。津の和泉守ともあろうお方が約束を違(たが)えはしないわな?」
「鍬次郎。俺も質屋など覗いてやるから、元気を出せ。忠一には「寝ぼけて谷に落としたんやろ、間抜けめ」とでも誤魔化しておくから。な?」
「だから、親父は嫌いや。上手く行かない……」
 やり取りを見ていた駿河守が思いついた口調で呟いた。
「――鬼の面を被って脅し、屏を乗り越え、伝習所の敷地に逃げた、か。そんな酔狂(すいきょう)な人間は俺の知る限り、一人しかおらんな」
 駿河守は息をついた。
「お上の意図に反し、長崎海軍伝習所の風紀は至極(しごく)悪い。先日も伝習所の教官たちから、愚痴の申し立ての手紙が来た。なにぶん丸山(まるやま)遊郭(ゆうかく)があるから手に負えぬ――。だが、本当にヤツなら、なんで刀を奪う必要がある……また何をやらかした」
「悪ガキがいるようやな」高猷の言葉に、駿河守の眼が鋭くなった。
「手を焼かされている。そいつの親が、長崎(ながさき)界隈(かいわい)の権威(けんい)だから、見逃すしかない。処罰はできん。上野家と言えば、蘭学の先駆者(せんくしゃ)だ。その次男ともなれば、手出しできん」
 鍬次郎は二人の会話を聞きながら、一人、伝習所を見上げていた。
(船見える。もう軍艦は、こりごりや)
 思っていても勝ち気さで言えず、鍬次郎は唇を噛みしめた。
 まだ高猷と駿河守は会話をしていた。
「上野彦馬。とんでもない才覚の持ち主だと、ヨハネス軍医も、カレフ軍医も言っているが、手がつけられない悪さをする。先日も、奉行所前で蛙(かえる)の瓶詰め投げて来た」
 ――上野彦馬? 和泉守樣と駿河守樣が繰り返している名前は、確かに聞いたものの、思い出した船酔いで、すぐに脳裏から消えた。

❀6❀

 嫌なできごとを追い払うには、集中に限る。鍬次郎は竹蜻蛉を削ろうと思いついた。
 さっそく風呂敷包みから竹と小刀を取り出し、薄く切った竹を月明かりに透かした。
 ――唐突に『質屋など覗いてやる』の意味を理解し、気が気ではなくなった。
(う、売られてたまるか、親父の刀!)と思いきや、武器は高く売れると聞く。
 集中、集中。ぼけっとしていると、指を怪我する。慎重に……。
「津の船酔い小猿! いるのか!」
(いでぇっ!)手が滑った。ぷす、と嫌な音の後に、じわ、と鮮血が吹き出した。
 親指の血止めをしている鍬次郎を更にドスの効いた声が呼んだ。
「俺はお前の上司ではないが、教えてやる。呼ばれたら、己(おのれ)から出ろ……!」
 飛び出した廊下は、ひんやりと冷たい。雨の後の静けさと、澄んだ空気が走り抜ける。長崎の夜がひたひたとやって来た。
 ぽう、と行燈が灯された屋敷は仄かに明るい。遠く、シャンシャン、の音が響いていた。
 鍬次郎が手にした竹の切れっ端に首を傾げ、駿河守は廊下に置いてある籠を持ち上げた。
「竹屑(たけくず)はここへ。朝方女中が回収に来る」
 鍬次郎は削り掛けの竹蜻蛉(予定)をささっと背中に隠した。駿河守は無言で屑籠を足元に置いた。仕草は京の公家に近い。どたどた歩く高猷とは雲泥(うんでい)の差(さ)がある。
(それにしても、ゴミに見えるほど、見窄らしいか……血がついたしな)
 落ち込みそうになる心境を振り切って、どうでもいい会話で気を紛らわせた。
「和泉守樣は、どちらへ。お姿が見えぬ」
「ああ、花魁道中が来ると聞くやいなや、飛び出して野次馬になった」
 ――和泉守樣。津でもよく遊女遊びしては、奥方に閉め出されていた。懲りない。
「あやつ、子供みたいだな。まあ、得てして、ああいう素質の男が、「軍艦を造ろう、世界を見ようぜ!」などと発言し、中央の爺を驚かせるのやも知れぬ。津からまさか黒潮に逆らって長崎に飛び込むとは。恐れ入った」
「地獄でしたよ……思い出したくもない」
「だろうな。もっと楽な航路もあったはず。俺も家族の手前、緩やかな陸路と航路を選んだが、いずれはと興味があった。そなたの様子で興味は失せた。大坂の船乗りから、黒潮の遡行は地獄と聞いたが、真だったようだな」
(聞きとうないわ)と思いつつ、「まさにです」と話を合わせると、駿河守はニィと笑った。が、どうも蛇を思い出させる顔付きだ。好きになれない。
「障子を開けろ。そろそろ通るぞ」
 駿河守は部屋に踏入ると、首を傾げた鍬次郎の前を横切り、黒格子に嵌められていた障子を開けた。
 長崎奉行所は想像してたよりも、小綺麗で、旅籠を思わせる造りである。
 外の賑やかさが、飛び込んで来た。先ほど聞こえたどんどんしゃんしゃんの音は、すぐ近くにあった。しゃんしゃんの音は、遊女の周りの男たちが掲げる笏丈だった。どんどんの音は、御輿の音頭取りのための太鼓である。
 色とりどりの行燈(あんどん)を掲げた御輿の後は、皆の花道の中、遊女たちが真っ直ぐに出島に向かっている。昼間下った坂を目指して一行は、しずしずと通り過ぎた。
「花魁道中だ。唐人屋敷に向かう丸山遊女百余名が大通りを練り歩く。遊女は朝まで飲み潰れないと帰して貰えぬが掟。また酔っ払いどもの一騒ぎだ」
(すげえ)と、ぽかんと障子を掴んだまま動かない鍬次郎に、駿河守は小さく息を吐いた。
「早朝のための警備網(けいびもう)は敷いた。俺はこれから、外交に向かうが……小猿、一緒に来るか?」
 髷を撫でながら、駿河守が振り向いた。
「ちょうど長崎海軍の二等生軍医ヨハネスらとの会食がある。無関係ではなかろ。和泉守殿もと思ったのだが。今後の話もある。刀を見つけられなかった詫びに、どうか」
「己は勉強をしに津から来た。海軍に用事があるとは思えないです」
「和泉守殿、説明を忘れておるな」と駿河守は告げ、鍬次郎の前に屈み込んだ。
「簡単に説明する。小猿、名前は」
「忠……。鍬次郎」本名を伏せて、愛称を貫いた。確か高猷も、「堀江鍬次郎」と紹介してくれていたはずだ。
「では鍬次郎。俺は駿河守である。長崎海軍伝習所とは、大樹樣の命令で、作られた〝異国技術を学ぶ〟目的の場所だ。従って、長崎の学校の教師は異国の人々、和蘭陀海軍が請け負う(うけおう)。長崎奉行所が伝習所の総督になった意味が分かるだろう」
 ――異人が、教師? 脳裏に忽ちサバとマグロが泳ぎ始めた。
「外交と文明開化は、より近く。俺が進言した結果だ。出世道とは言え、遠国(おんごく)奉行(ぶぎょう)として長崎に来るとは想定も……」
 蛇顔奉行〝駿河守〟の出生にも興味はあるが、根本的に認識が違っていた。〝海禁〟の言葉が当たり前の藤堂国領と、長崎の差違は大きすぎる。
「だ、だって、まだ、日本は海禁(かいきん)してるって」
「中央はな。そうも言ってられないから、異人の技術を学び、日本に取り入れろと動きが出た。すべて大樹樣からの発布であり、京の都には関係がない。中央では異人が問題を起こしたから、海禁政策と言っているまでだ。制限貿易など古い。開国の波は来ている」
「教師が異国の人って……そんなん言葉が通じるんか。それに」
「伝習を受けるとは、国の技術の立役者(たてやくしゃ)になるに等しい」
 駿河守の言葉は衝撃だった。
 ひしひしと責任感という岩が肩を軋(きし)ませた。日本人が、初めて教わる技術。恐らく、鍬次郎の引き受けようとしている行為は、今後の日本に大きく影響する〝文化の機密〟でもあるのだろう。こんな事態ばかり呑み込みが早くて自分が嫌になる。
(己にはデカ過ぎる。己は、ちょっと高度な勉強なんだと思ってた。異国の技術を学び、国の立役者になるなんて、考えもしなかったんだ……)
 無言になった鍬次郎を、駿河守は冷たくあしらった。
「やめて、津に帰るか。今度は、黒潮は味方だ。緩やかに戻れ。腰抜けには無理な世界だ。おまえは和泉守殿の腰掛けが似合いだ」
 腰抜け。腰掛け。言葉の合間で、鍬次郎は葛藤していた。
 ――またか。親父の時と同じ。立ち向かうのを躊躇(ちゅうちょ)して、助けを待つのか?
 父親と険悪になって家を飛び出し、和泉守樣の声で、藤堂本邸に移り住んだ。奥方樣、婆さまらは優しかったけれど、悔し涙を幾度、飲んだか。
(津では阿呆な次男。長崎では勉強に専念して、駿河守に頼られ、刀を取り返して親父を超える自分。最高の竹蜻蛉を作り、遊女に囲まれ、幸せな。うん、悪くない)
 遊女、は言い過ぎか。元々女は好きでも嫌いでもない。鍬次郎はゲンコツを作った。
 変わりたい。憧れの自分を見つけて、理想の自分に変わるんだ。
 ――和泉守樣のような。苦境を笑いに変えられる強さが欲しい!
〝面白いこの世界の、面白い部分は、一つでも多く、とことん見て死なんと損や〟
 背中を向けた駿河守に、鍬次郎は高猷の言葉を真似て、叫んだ。
「そういうわけには行かない! 異国だろうが、ふ、艦だろうが! 己は面白いもんは、とことん見て、死なんと損やと思うで!」
 ふ、と蛇の目元が上がった。いや、よく見れば眼が細いだけだ。蛇の揶揄(やゆ)は止めた。
「言うな。その通りだよ。鍬次郎よ。――明六ツに迎えに来る。酒は飲ませんから、安心しろ。望まなくとも、おめおめ津に戻るハメになるかもな」
 ――なんだ? 気になる言葉を皮切りにして、駿河守はスタスタと歩いて行った。足音が綺麗だ。花魁道中はとっくに通り過ぎていたらしく、また春蟋蟀が鳴き出した。

❀7❀

 和蘭陀商館は、長崎の出島の唐人(とうじん)屋敷(やしき)の奥にある。
 この夜に商館に出向くは、和蘭陀(オランダ)通詞(つうし)と呼ばれる通訳数名、長崎奉行こと駿河守、乙名(おとな)(有力者)数名に、町年寄。匆々(そうそう)たる面々に、鍬次郎が加わった二十数名。
 提灯を手に掲げ、唐人屋敷への大通りを練り歩いた時には、既に月は高く昇っていた。
 時間感覚がぶれていなければ、夜がどっぷり更けた頃合いだ。
「へっぴり腰で歩くな。尻を引き締めて、すっきりと歩け。凛々しい侍姿は、異人が喜ぶ」
(知るか!)と思いつつ、「深夜だと思うんですが」懲りもせず言い返した。
 駿河守は、せせら笑った。
「長崎に、夜はない。特に、異人にとって夜は娯楽。我々は長崎で、世界の助力を願う立場にある。明日は江戸からの遊学生(ゆうがくせい)を迎えねばならぬし、先だって起きた事件の後始末、更に、丸山遊女側からの伝習所への懇願書類の受諾に、「観光丸」の稼働にも立ち会わねば。佐賀国領の伝習所との……」
(どれだけ多忙なんだ、この人)言葉を堪え、鍬次郎は俯いた。
 通り過ぎる人々は、見た覚えはない、素敵な服やら、斬新に切り落とした上着やらを着ていた。鍬次郎は絣(かすり)木綿(もめん)の着物。侍の象徴たる二刀もない。これでは単なる流浪人……。
(流浪人じゃない。己は藤堂領の……もっと、いい着物を用意すれば良かった。絣木綿なんぞ着ている人、己だけや)
 そわそわと着物の袖を引く鍬次郎の落ち着きのなさに、駿河守がまた息を吐いた。
「さては、そなた。津の育ちではないな。田舎特有の泥くささがない。侍かと思いきや、中途半端で苛々する。和泉守殿の腰掛けというよりは、肘掛けだ」
「堀江の家系は、江戸から津に流れた。あ、でも、和泉守樣への忠誠は揺らぎませんよ?」
「誰も聞いておらん。馬鹿と天才は紙一重との言葉の信憑性に悩んだだけだ。今後のためにも逢っておくべきだと思ったが、不要だったか。風呂敷を開かなくて良いかもな」
(だから、そういう含みある言い方すんなや。何なんだ、さっきから、腹立つ)
 むっとしつつも(平常心、平常心)と言い聞かせて、歩く速度の速い駿河守に並んだ。
「どなたにお逢いするのですか」
 駿河守は、すっきりとした横顔を向けた。
「和蘭陀海軍二等軍医、ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトと海軍二等少佐のヤン・カレフ。長崎海軍伝習所の教師で、試験官だ、試験について聞くも良かろう」
 ――試験官? 試験。言葉に嫌な予感がする。
「あの、試験て」話の途中だったが、鍬次郎は会話を止めた。
 すっかり景色は異人の集まる唐人屋敷に変わっていた。
 大門を思わせる鳥居(とりい)の風体の柱を潜り、駿河守は通行の許可を確認しているようだった。
 日本人と、異人が入り交じっている。夜なのに、行燈がこれでもかと灯されている。
 ――いつ、寝るんだろう。昼間寝てたら、お陽(ひ)さん怒るで。
「大丈夫だ、行きましょう」と乙名数名の頷きを確認した駿河守が無表情で足を進めた。
 のこのこ後をついて、一歩入るなり、好奇心の青い眼の視線に晒された。
(眼の色が黒じゃない)ずっと日本人よりも大きく、髪も眼も鮮やかな色をしている。
(同じ手があって足で歩いているのに、色が違う。皆大きいな……鬼か)
 背中を丸めて、こそっと通り過ぎようとした。「HEY、侍」とニヤニヤ声。
「背筋を伸ばさんから、からかわれる。堀江鍬次郎、背を伸ばせ。恐れる理由はない!」
 先頭の背中が冷淡に喋った。前を向いたまま、駿河守は低く素早く告げた。
「ここはもはや日本ではないと思え。異国だ。大丈夫。先のキリシタンの事件で、異人の統括は、頗る良好だ。関係も悪化していない」
「だけど、己には刀がなくて、侍を気取ろうにも」
「それは、長崎奉行所への嘆きか。異人如きに眼を回していないで、前を見よ」
〝鍬次郎! 眼ぇばっか回してんじゃねえ! 眼の前だ、前!〟高猷の怒鳴り声が脳裏に響いた。「ヒィ!」と肩を引いて、背筋を伸ばした。ごくりと唾を呑んで、鍬次郎は足を出した。はいいが、今度はぎし、ぎし、と言わんばかりの、ぎこちなさを感じる。
 右手と右足が同時に出ていた。クスクス。通り過ぎた異人たちがにこやかに笑った。
(やっぱり笑われたじゃないか!)見れば駿河守も肩を揺すって笑っていた。
 だが、今度はからかいの声はなく、皆が手を挙げて去ってゆく。「HEY」と言われ「へぇい」と返して、バクバクする胸を押さえた。よし、異人に挨拶したぞ。
「初々(ういうい)しくて結構。では我が国は初々しさを武器に、行くとしよう」
 背筋を伸ばし、髷をきりりと上げた駿河守に、日本語ではない言葉で話しかける役人。皆、背筋が伸びている。日本の最先端の文化を支えるのだという誇りが満ち溢れていた。
 ――凄い。日本の中の異国で、背筋を伸ばしていられる。なんか、ええな……。
(己も、頑張ろう。……何を? と、ともかく頑張るんだよ! 頑張るんだ!)
 唐人屋敷の裏には、異国へ繋がる海。寄せ返す波に、大きな船がいくつも、いくつも浮かんでいる。錨を下ろしているらしく、船は波と潮汐に任せて揺籃(ゆりかご)の如く揺れていた。
 日本の蒸気船よりも一回り、大きい。間近で見上げたら、首が凝りそうだ。
(あ、日の丸や)
 異国の旗が堂々と翻っている横で、見慣れた旗が、恥ずかしそうにバタバタと騒いでいた。酷く不安で、どこかむず痒く思わせる光景だ。
(頑丈そう。あんな船なら、黒潮に負けず、船酔い、せんのかな)
 ボサな髪を夜風に遊ばせている前で、駿河守は切れ長の眼を険しくさせた。眼元の傷が引き攣っている。
「長崎貿易は、始まったばかりだ。どんなに速度を上げても、上げすぎる事態はない。本来はもっと、貿易国が欲しいがね。御公儀が海禁を命じている限り、相手国は限られる」
 和蘭陀商館が見えて来た。一行の雰囲気から和やかさが消えた。
「朝鮮、琉球、北蝦夷に中国と、和蘭陀。和蘭陀の商館長はカピタンと呼ばれる。今から向かうは和蘭陀商館。貿易の中心部だ」
 喉が鳴った。腹も空いてきた気がする。
(なんでいちいち、緊張感を漲(みなぎ)らせる駿河守様……緊張に弱いんだよ、己は)
 ざり、と鍬次郎の草履がズッた音が響いた。
 駐屯していた数十人の役人が花道を作り、出迎えた。
 見えて来た大きな扉は見た覚えのない色をしていた。重く軋むような音で、両開きに開いた向こうには、光が溢れていた。
 足元がふかふかする。畳ではないらしく、室内なのに、足元が埋もれた。
 足袋を毛が擽っている。婆さまの赤い腰巻きのように、真っ赤な床。見た覚えのない花の数々。見慣れた庇や、欄間は見当たらず。代わりに高く組まれた柱に、階段がある。
 ――己、なんか、場違いな場所に来てるのではないだろうか……。
 さすがに虚勢を張るどころではない。不安に苛(さいな)まれて、駿河守の裾を掴んだ。
 駿河守は、ゆっくりと振り向いて、乙名たちに語りかけ、最後に、鍬次郎に視線を落とした。
「軍医らは、すでに商館長と会食のテーブルにいるそうだ。鍬次郎、そなたは、ここで待て。後ほど、二人に引き合わせる」
 ぎょっとしたも束の間。行動の早い駿河守は背中を向けていた。
「あ、あの! 己に、ここで待てと言ったんですか?」
「言った。まだ入学もしていない遊学希望者を、極秘に逢わせるは不可能。長崎には全国から、遊学を目指す人間が押し寄せている現状だ。これ以上の津(つ)国(くに)贔屓(ひいき)はできん。和泉守殿の立場も一層悪ぅなる」
「いや、そうではなく! こ、心細いって話で……!」
「暇なら、少しだけウロウロしてみろ。新しい文化を前に、暇など感じなくなる。到着してそうそう、盗人に遭った事実に感謝して欲しいものだ。海禁の中で、文明の風を感じられるは好機。通詞役を一人、置いていこう。八沢、会話に困らないようにしてやれ」
(話を聞けよ! この蛇奉行!)
 苛立ち紛れに鍬次郎は、意外と鈍感な駿河守を涙目で睨んだ。
 無情にも、鍬次郎はぽつんと和蘭陀商館の交流広場に置いていかれた。

❀❀❀

 ――おい。こっち、見るな。怖いんだよ。綺麗な玻璃(びいどろ)のような目玉で!
 異人たちの色とりどりの眼が気になって、鍬次郎は背中を向けた。
 ボオンボオンと、突然、壁が鳴いた。
(驚かせるな!)柱には匣(はこ)に数字が並んでいる。上には三つの針。長さが違う。せせこましく一つの針が少しずつ動いて、一回りすると、長い針がちっと動いた。
 ――へえ。これ、なんだろ。
 大きな柱に掲げられている長い匣の中では振り子が揺れていた。
(そうだ、さっき遺された役人さんがいた。聞いて見よかな)
「ねえ、これ、なに」しかし通詞役は異人と会話中。鍬次郎に見向きもしない。
(仕事怠慢!)苛ついたら急に足が疲れてきた。畳ではないから、どすっと座るも変だ。
 椅子は馬鹿長く、並んで異人が座っては談笑している。どこに座ればいいのか分からず、異人が揃って座っている隅っこに腰を下ろした。
 長い脚が邪魔なのか、皆、足を組んでいる。
(ふうん、ああして座るのか……)と組んでいる足を真似しようとして、片足を持ち上げた。太腿がむきっと鳴いた。袴が擦れる。太腿が攣りそうだ。足の長さがないと無理。
 また先ほどの針が、チッ、と動いた。ボオン、と音が響いた。数人がわさわさと出て行った。天井がめっぽう高い。光が降り注いでは、眼球に焼き付いた。
 しばらくして、またボオンボオンと柱が鳴いた。
(長い針がせっせと動いて、チッと鳴く。原動力はなんやろ? 気になる。面白い、コレ)
 夢中で見詰める鍬次郎の隣に、ふわ、と何かが座った気配がした。ちら、と横目で見ると稲色のおかっぱ頭。
 ――あ、この子……間違いない。長崎の街をうろついていた時に、己を見下ろしてた少女。
(女の子が、己のトナリにおんで)津では少女と接する機会など与えられなかった。
 ――わ、緊張……。意識するなり、たちまち体がカチコチに緊張した。
 ちら、と相手の少女が鍬次郎を見た。ちら、の視線はやがて、じーっと鍬次郎に釘付けになった。少女は身を乗り出し、至近距離になろうとした。
 ――わ、可愛ぇ……でっかい金魚のような眼ェ。
 ぽ、と頬が熱くなった鍬次郎に構わず少女はすいっと腕を持ち上げた。お花の香りだ。和泉守の汗くさささとは違う。
(ええ匂いやぁ……)と思わず鼻の穴を膨らませて、ぎゅっと力一杯鼻を抓んだ。
 涙目になった前で、少女は更に笑顔になった。匂いも笑顔も可愛らしい。
「うふふ、教えてあげる。時計と言うの。時を計る道具。あれ、時間を細かくするの」
 当然、異国の言葉。何と言ったのかわからずに首を傾げている鍬次郎に通詞が気付いた。が、まだ異人とのお喋りに夢中。(駿河守に言いつけてやる、職務怠慢!)と睨んだ前で、また少女が小さく息を吐いた。
「はふ。ヴァデル、客人と飲み始めると戻って来ない~。一人じゃ帰れないから、送って欲しいの。おうちまで送ってよ。眠いの。ベッド、入りたいなあ」
 可愛らしい声だが、言葉がさっぱり分からない。
(己に何か教えようとしているみたいだが、分からん)
 やがて少女の表情が曇り(くも)始めた。むくれている。これだけ何故か分かる。双眸に涙が浮かび始めた。「あなた、あたしの言葉が分からないのね。哀しい」口調がきつくなった。
(なんで、泣きそうになるんだよ……ど、どうすりゃええんや)
〝笑っとけ、笑っとけ。笑ってりゃ何とかなるもんよ、なァ〟高猷の言葉が聞こえた。
 鍬次郎は歯を出して、にっこり笑った。(阿呆だと思われるかも)と怯える前で、異人の少女は驚きつつも、にっこり笑った。同じ角度で首を傾げ、歯を見せた。
 ――あ、なんか、嬉しい。同じ顔してくれた。
 ほんわかした前で、また興味をそそる柱が動いた。
 忙しない針が一回りで、長い針がチッと動く。このチッと動く針がぐるりと回ると、短い針が進んで、ボオン、と鳴く……。
(分かったぞ。津で云う、鐘叩きだ! へえ、もっと細かく測れるんや、時間)
 ある時間になると、寺で坊主が鐘楼を撞く。昼ドンが鳴って、握り飯が配られる。確かお天道様が一等高い場所に来ると、眠そうな生臭坊主がガァン! と鐘を撞くのだ。
(時間を視えるようにしてるのか。ふうん……忙しないな。知って落ち着かんくなる)
 また何か少女が首を傾げて訊いてきた。指先で自分を指し、鍬次郎を覗き込んでいる。背中に冷や汗。
(また何か言うてるで……)。
 再び解釈に困っていると、奉行所から従いて来た通詞が状況に気付いた。ようやく、お仕事開始らしい。裾を窄(すぼ)めた変な袴に包んだ足を向けた。
「お名前はなんですか? と聞いてる。ヒヒ、興味持たれたな。やるじゃねえか、ボサ猿」
「鍬次郎。あー、ええと……畑耕す、クワ。こうやって、よいせ、よいせ、って」
 へっぴり腰で鍬を持ち上げて耕す真似を見て、通詞役が笑った。「くわ?」と少女は呟き、頷いた。クワ、では何だが夢中になって探した昆虫みたいだが、何とか通じたようだ。
「こっちはベルシュカ。ええと? ベルと呼んで? 鐘の意だね。ベルシュカ・ロシエ、和蘭陀(オランダ)から来た、あー、うん、和蘭陀……和蘭陀商(カピ)館長(タン)の娘ェ!」
 聞くなりベルは頷いて、軽く腰を上げた。「こんにちは」と服を抓(つま)んでお辞儀した。
 さっきとは逆に、行動を合わせようと着物を抓んだ瞬間、「ずんだれ! 頭を下げて挨拶しろ、馬鹿猿!」と通詞に、ぐいーと頭を下げさせられた。
「いて、いてててててて! いきなり何すんだ!」
「何すんだ! じゃねェ! 何、ちゃっかり商館長の娘を、船酔い津の猿如きが口説いてんだ! 阿呆! あっちへ行け! 駿河守樣に知られたら大目玉じゃねえか!」
「知らん! 己はボオンの柱を見てただけで! 口説くはずがないだろ!」
「やかましか!」ゴインとゲンコツをお見舞いされて、鍬次郎は通詞を睨んだ。
 夜風の吹く音が、商館に響いた。風が抜けて天井にある小さな鐘をリンリン揺らした。
 鳴いた天井に目をやった前でまたベルが何かを言い、手を握って来た。
 柔らかくて、あったかい。蕩(とろ)けそうな手だ。しかし、言葉の壁がまたしても邪魔をした。
「何て言ってるんだろ……」「外を見ようと窓際に誘ってる。おまえが吹き込んだ夜風なんぞを気にするからだ。外に出たくなったけど一人では出られない。お月様が綺麗だから、一緒に見ませんか、と」
「あ、うん、少しだけならって伝えてくれる? 積極的で、津の婆様みたいって」
 通詞役は憮然として、ベルに全ての言葉を伝えなかった。
「汚ったねぇ田舎猿、のこのこ行くってよ。気をつけて」だけ。やはり、職務怠慢だ。

❀❀❀

「こっちこっち、鍬、こっち!」
 パタパタと歩くベルの後で草履を滑らせて、鍬次郎は階段を登り、商館の廊下に出た。
「ここから、外に出られるの。バルコニー、行こ。躑躅が綺麗よ」
 ベルは、えい、と硝子の扉を開けた。
 大きな月の下には、躑躅が咲き誇っていたが、夜の暗さで蔭っていた。行燈の近くでは、蛾が集まって騒いでいた。
「よく見えるでしょう? 月の光、好きなの。一緒に見ると、綺麗、見て」
「蛾(が)がたくさん。鱗(りん)粉(ぷん)撒き散らしまくってる。鼻がむずりそうやな」
 互いに好き勝手に言葉を交わすものの、全く以て、意志の疎通(そつう)はない。
(奇妙な話になった。かたや和蘭陀商館長の娘、かたや、津の汚い田舎の小猿。境遇の違う二人が並んで、長崎の夜空を見上げている。これは奇跡の彼方の話やな。夢か現実か。しかし、蛾が集まりすぎ)
 鍬次郎はチラッとベルを見やった。細い首、華奢な手先。きゅると動く大きな眼に、小さな口元。余所余所(よそよそ)しくもなく、しつこくもない。空気のように佇む姿に、整った横顔。ちょっと膨らんでいる頬。膨らんでいる? 眉を寄せた前で、ベルは悲しそうな表情をした。ちら、と鍬次郎を見やり、また月を見上げて、様子を窺っている。
(蛾より、月見よ、月、言葉は通じんが)。
 鍬次郎がゆっくりと夜空を見上げて見せると、ベルはほっとした表情で、靜かに月を眺め始めた。頬が、幾分柔らかくなった気がする。
「綺麗やな。うん、見られて良かった。お月さん」
 満月には少し足りない月。空のつまみ食いされた白い饅頭。津では月を見上げるなど、あまりしなかったし、星空も見た覚えがない。竹蜻蛉やら、書物やらを相手に、ずっと部屋に籠もっていた。元々夜は好きではない。鬼が出るなどと、婆さまらが脅かすからだ。
(鬼)の言葉で、〝長崎の鬼〟を思い出した。
 ――己の刀、どこ行った……親父にしばかれるやないか。面白ぅない。
 良く揺れるベルの髪と、潤んだ眼を見ていたら、悪戯心が沸き上がった。
(ちょっと茶目っ気出してええかな。誰もみてないだろうし。笑顔にさせたる)
「ベル」と呼ぶと、手すりを握りしめていたベルは「なあに?」と言いたげに振り向いた。
「月には兎(うさぎ)がいるんやって。よく婆さまが話してくれた。あー、これ、こういうのが……知っとる? 兎」
 鍬次郎は手を頭に添え、くいっと指を曲げて、兎の格好をして見せた。腰を屈めて、跳んでやった。
「分からないか。こうやって、ぴょん、と跳ねて、フワフワのモコモコで」
 ベルもまた、同じ格好をして「これ?」と首を傾げた。頷くと、後を向いて、拳を腰に当てて、ふりふりした。兎のケツを表現して、ぷく、とベルが笑いを漏らした。
 たわいもない話だ。言葉が通じたなら、感動など得るはずのない日常の会話の一つ。
 ベルの言語は鍬次郎には一切分からないし、ベルも鍬次郎の言葉は半分も理解できていないだろう。それでも、会話は成り立たなくとも、あったかい空気を感じる。
(和蘭陀の商館長の娘か、一緒に貿易がてら、ついて来たんやろか。和蘭陀は遠いと聞く。海を渡って来たとしたら、すごい度胸やな)
 鍬次郎は煌々と輝く、天上の月に両腕を翳した。
「あんたも、遠い場所から長崎に来た。あのお月さんも、遠いところにおる。己も遠くからざばざば海に苛められて来た。みんな遠くから来た。出逢って、寂しくなくなるんやな」
 言い聞かせるつもりはなかったが、ほろりと涙が落ちた。
 ――月が綺麗なせいやろ。これは。己には、和泉守樣も、津から来た仲間もおる。侍は決して泣かんもんや。
(いや、己、侍やないし……刀、どこへ行ったんやろ)
 ベルの手が、知らず鍬次郎に触れた。
(なんや落ち着かなくなった)婆様とは違う、すべすべでほっこりする手だった。

❀❀❀

 しばらくして。隣で月を楽しんでいたベルが突然動いた。サラサラの金髪のおかっぱ頭を揺らして、顔を輝かせた。見ればバルコニーの入口に、駿河守樣と、異人が三人。
 髭をだばぁと生やした男に、ベルは駆け寄った。
「ヴァデル! それに、軍医さまたちだ!」「駿河守樣!」一緒にそれぞれの知り合いの名前を呼んだ。
「これが、あたしのヴァデルなの」と可愛らしい声の裏側に、流暢(りゅうちょう)な日本語が重なった。
「長崎海軍伝習所の教官、軍医(ぐんい)のヨハネス・ポンペ言います。ああ、ヨハネス軍医と呼んでくださいね」
 ――異人が、日本の言葉を喋った。しかも、とても丁寧な口調だ。
 ヨハネスは背が高い男だった。姿勢を正して、襟元まで詰まった服をきゅっと締めているが、苦しくないのか。更に上着を羽織っている凛々しい立ち姿だ。髪は中途半端に長く、うねっている。
「鍬次郎、ここで逢えたも、何かの縁だろう。聞きたい事項は訊いておけ。ヨハネス軍医」
 通詞を兼ねているらしく、駿河守は異国の言語で、何やらヨハネス軍医に語りかけた。「こんばんは。岩次郎」
 ……まず、名前を間違っている。「鍬次郎だ、鍬」と駿河守が訂正を入れた。「ああ、失敬」とヨハネスはにっこり笑って、また駿河守と会話を始めた。
 チラとこちらを見ている状況を考えると、鍬次郎の話をしているのだろう。
(悔しいな。己も、異国の言葉、勉強するかな。和泉守樣に相談しよう)
 そうすれば、ベルとの会話も、もっと楽しいものになったのに。
 やがてヨハネス軍医は、駿河守から、鍬次郎に視線を移した。
「教材を、奉行所に届けましょう。試験は三日後。良いですね。貴方が無事に私の生徒になれるよう、神に祈っていますよ」
 ――素晴らしい笑顔だが。また、言葉の壁が邪魔している。
 聞いていた駿河守が、首を傾(かし)げた鍬次郎に気がついた。
「試験は三日後だ。和蘭陀の技術を伝習するに相応(ふさわ)しい人物か、見極めて、無能であれば、長崎から出て行って貰う、と。神も見放すであろう、と」
「げえ……っ」思わず蛙を絞め殺したような声を漏らしておいて、鍬次郎はすぐに食ってかかった。ついつい口調が素になった。
「試験があるなんて、聞いておらん! 三日後って本気か!」
「また自信なさっぷりを自ら暴くか、情けない」
(試験て! そりゃ、多少は勉強しているが、いきなり試験! いいや、やるしかない。あの地獄の船酔いは何だったのかの話になるやないか!)
 何より、和泉守樣を失望させたくはない。
「分かりました。受けますよ。己ができないはずがないじゃないですか」
 根拠のない強気でだりだりと嫌な汗を噴き出させた前で、ベルは父親に寄り添った。
「鍬次郎、またね。ヴァデル来たから、帰って寝るの。また一緒に月、見よう」
 大層満足そうに、にこやかに帰って行ったが、ちっとも、さっぱりわからない。
(笑うにも、限度がある。いてて、顔が引き攣ったやないか)
 ヨハネス軍医も「それでは、無事に伝習所でお逢いしましょう」と片手を挙げて去って行き。嵐の後に残された鍬次郎が涙目で視線を注ぐと、駿河守は無情にも言い放った。
「だから、言っただろう。風呂敷は開けなくて良い、と。好機は掴もうと思うヤツだけが掴める。ハナから諦めようとする小猿に、長崎は勿体ない。兎になって、商館長の娘とでも月に住むがいい」
 駿河守は、く、と笑って、ぴょん、と跳ねて見せた。見るなり恥ずかしさで頬が沸騰しそうになった。
「す、駿河守樣……それ、どこで見てたんや……っ!」
 駿河守は「さぁて」と涼しい顔で答えた。
「ヨハネス軍医の課題は甘くない。カッティンディーケを師と仰ぐ。あの男の胡散臭い笑顔になど、騙されるな。そろそろ和泉守殿も戻る頃だ。我らも引き上げだ、鍬次郎。兎の真似して遊んでいる暇などないぞ。楽しいだろう?」
「全然、ちっとも、これっぽちも、楽しくない! 試験とは聞いておらんし!」
 駿河守が冷笑の口調になった。
「興奮して粗雑になる口調は、和泉守殿譲りか?」
 ――鍬次郎の、伝習所への地獄の三日間が、幕を開けようとしていた。

❀8❀

 紙片が落ちた。が、走り書きの紙片は見つからない。大切な覚え書きをした……と思ったら、高猷の足の下に見つけた。相手が和泉守樣であれば、文句も言えない。泣き出したい気分で、鍬次郎は高猷の足元を指した。
「和泉守樣、その前に、踏んでる紙片! 拾ってくれませんか」
 高猷は沈黙したまま、腰を屈めた。
「鍬、俺は昨晩、唐人屋敷に行ってみたんや。店がいっぱいあったぞ」
 鍬次郎は「そうですか」と生返事をした。聞きたいが、先ほど詰め込んだ数式が飛んで行きそうな気がして油断がならない。
「ああ、そうですか」返事すると、また高猷が今度は食べたものの話を吹っかけてきた。
「知らんやろ。長崎では、豚や牛を喰うんやて。野蛮やと思うたが、これまた美味で」
「ああそうですか」
「カメチャブって知ってるか? 犬に喰わせたぶっかけ飯や」
 ――限界。鍬次郎は主君である高猷に頭を下げた。
「すんません! 時間が足りない言うてます! ああもう! どうして、試験があるって言ってくれなかったんや!」
「告げたらどうだと言うんや」
「勉強しましたよ! いいや、勉強してから来ましたよ! 見て、この課題の山!」
 どっちゃり積まれた書類は、丁寧に綴じられてはいたが、量が半端でない。
「試験用」と書かれた薄めの冊子、基礎のあらゆる数式、大判の用紙には船の見取り図と技術の仕組み。その他に試験要綱の書かれた紙に、和蘭陀の歴史書と、長崎奉行所印の押印された伝習所入所のス々メ。学生は無断に伝習所敷地を出るべからず。……だって。
 和蘭陀の商館で初顔を合わせたヨハネス軍医から、伝習所の入所試験は三日後だと聞いた。それまでに、最低限の和蘭陀の文化を鍬次郎は勉強しなければならない。
 早朝に届いた問題集に、朝から取り組み始めて、もはや夜。
 ――勉強も、集中もするは好きや。時間が濃くなる。強制は嫌いじゃ。
「鍬、見ろ。風車(かざぐるま)だ」
(だから、邪魔しないで欲しい!)と焦り満点で見ると、「ここや」と高猷の指した人差し指の指先に、確かに風車の写し絵があった。
 風車は知っている。津で良く折った。規模は大きい。地面に、でんと建てられている。
「和蘭陀の文化やな。風力。風と水と火で何でもやれるらしいで。すごいな、異国は」
 高猷は机の真向かいに胡座を掻き、冊子を取り上げた。興味津々に覗き込んだ。
「これでも、俺は結構な勤勉家や。大樹樣の役に立ちたいから必死で勉強したわ。和蘭陀語、多少なら読めるで。どの分野で引っかかってるんや?」
 長崎は、今日も小雨。どうやら本州より一足早く、梅雨に入ったらしい。庭に整然と植えられた躑躅が、雨露を滴らせていた。
「和蘭陀の文化と、これ、舎( せいみ)密学(がく)って何やろ」
「舎密学か。草ッ子を煮詰めて、薬を作ったり、写真湿板(しゃしんしつぱん)の反応を試したりする。津国では高度過ぎて、教える輩がおらんかった。本来は、蘭学と一緒に学ぶ。決まった法則があって、反応させて、イロイロな形に変える。水、凍ったり溶けたりするやろ」
 面白い。興味を覚えて、ポゲとなった。数式が飛んで行った。……集中しよう。
 真剣になった鍬次郎の前で、高猷がにやりとした。
「鍬次郎、和蘭陀商館で、和蘭陀の娘っこ口説いたって、本当か?」
 教材ばらまいて、すっこけた。やる気が、たちまち、ぷしゅる~と逃げて行った。
「やるやないか! それでこそ、津国の男子や。ええで、オンナは。やわこくて」
 鍬次郎はささっと教材を纏め、立ち上がった。
「どこ行くん」
「和泉守樣の邪魔のないところまで! ついでに言うと、口説いておらん! できるか!」
「確か、この辺りには温泉が沸いてたなァ」
「話を聞いて下さいよ。己は明後日には試験がある言ぅてます!」
 高猷は畳に座ったまま、にやりと笑った。
「受かるから、大丈夫や。お前が勉強せんで、誰が伝習を受けるんや。そう、ピリピリせんでもええ。多忙時の駿河守そっくりや。酒でも、飲む?」
 すとん、と何かが胸に落っこちた。高猷はゆっくり繰り返してくれた。
「お前は負けん気が強い。山で鬼と戦った、武将の血を受け継いでおる。大丈夫や。あのな、鍬次郎。大切な話が」
 高猷の言葉を遮った。
「和泉守樣、さっきの風車のところと、和蘭陀語、教えて」
 高猷は小さく息を吐き、「ええで、どこから行こか」と笑顔を見せた。

❀❀❀

 夜が薄れ始めた。視界がぐわんぐわんと船酔いの如く歪(ゆが)み始めた。高猷が斜めに構えている。変だと指摘したら、にやぁと化け物みたいになった。
「鍬、お前一人で揺れてるで。斜めになっとる。無理せんと、寝とき」
 明け方の空が、じんわりと明るく染まっている。
(あたっ)ごん、と机に額を打ちつけては頭を振った。が、すぐに瞼が重くなる。
「大丈夫。今度ベルに逢ったら、ちゃんと会話できるようにしたいんや。何を言ってるか、さっぱりわからんかったし」
「和蘭陀商館長のおなごか。大層可愛いと聞いたが、あのテが好みか。素直過ぎる女は、面白みがねえ。さては、おまえ、亭主関白の類いか。傲慢(ごうまん)しそうやな」
「月見て、空見て、何やお喋りしてたのが可愛かったん! でも、己、何を言っていいかわからなくて。むくれたんや。二度も」
「ならば、アイラブヤって言やあいい。世界各国のこんにちはの挨拶や。きっと喜ぶ」
 ――和蘭陀語の基礎の途中。ぶんぶんと頭を振るが、微睡みには勝てず、鍬次郎は机に頬をひっつけて、睡魔との戦いに戻った。
(寝るわけには行かん。鍬次郎。和泉守樣に悪い。あかん。もう、あかん。ねむ!)
 眠りの妖怪が、のこのこやって来た。外は、うっすらと白んでいた。朝が来た。夜に降り注いだ雨も、すっかり晴れているようだった。
「無理せんで、ちゃんと休め。まだ時間はあるやろ。な?」
(大丈夫、まだ、時間はある……)
 完全に夢に墜ちるところで、障子が開いた気配がした。すっと真横に引く感じの軽い開け方は、駿河守樣。(でっけえ蛇、歩いとる)と思いつつ、文句垂れた。
「よくも、和泉守樣に、兎……娘っこ口説いてたわけじゃないで……」
「おい、鍬次郎。寝言を言うなら布団で寝ろと言うに」
 ドデンと引っ繰り返った。(あー、畳が冷えてて気持ちええ)と思いながら、瞼を閉じた。
 ふわり、と腹に何かが掛けられる感触。にまりとした。
(己、幼少によく腹出してた言うてたな)
「ありがと、母ちゃん」
「誰が母ちゃんや。阿呆。俺にコドモは産めんぞ。おや」
(さっき見た、和蘭陀の資料にも、風車があった。デカい風車。うん、今度はベルに挨拶するんだ。ええと、こんにちは、はアイラブヤだな……)
 夢のベルはにっこり笑った。素直に教えてくれた、和泉守樣のお陰だ。

❀❀❀

 りぃんりぃん。虫の音に、野太い男の声が夢うつつに響く。
「なかなか言い出せんものやな。駿河守殿」
「俺から、言おうか。小猿、勉学に対して極度の意識過剰状態だ。気付かぬだろう」
「いいや。こういう悔しさは、いざ喪って、泣いて泣きまくって。畳を引っ掻いて、指を痛めて孤独に突き落とされて、体で覚えるもんやからな。理屈じゃのぅて、心で理解するもんやろ。口で教えられるもんやない。はあとや」
「畳は江戸の御公儀(おこうぎ)からの譲り物だ。引っかかれてたまるか。で? いつ、出立する」
「明後日。佐賀の伝習所で、砲を積んで黒潮にぶっ放して、津に戻る。追いどん港にブチかましてやるとするか。あっはっはは」
(和泉守樣が笑っとる)。大人二人の低い声は、聞いていて心地いい。どこか、安心する漬け物石の如く。護られた雛鳥の気持ちで、鍬次郎はすやすやと寝息を立てていた。

❀❀❀

 起きては冊子に齧り付き、飯は握り飯を素早く口に突っ込んで、水で流し込む。名物だという冷や汁が出て来た。温かい味噌汁が欲しかったが、贅沢は言えないだろう。無理して流し込むと、胃が痛んだ。嚔(くしゃみ)を一つ吐き出して、ずっと洟を啜った。
「寝冷え、したか、さては」
 ようやくすべての冊子に眼を通して、鍬次郎は立ち上がった。
 お陽さんは、すっかり高く駆け上がって、窓から光を射し込ませている。
 体がコリコリだ。腕を大きく伸ばして、骨を鳴らした。
「海の向こうからお陽さん、来よる。太陽が、白いな。津ではもっと赤かった気がする」
 呟いたところで、ドスドスと聞き慣れた足音。高猷である。スパァン、と障子が吹っ飛ぶ如く、開いた。
「鍬、終わったなら、温泉に行かんか。温泉! 駿河守に教えて貰った。同じ姿勢は良くないからな。さっぱりせんか?大切な話がある。温泉はうってつけや」
 高猷は、沈痛な面持ちの鍬次郎には構わず告げた。

❀❀❀

 長崎には、あちこちに鄙(ひな)びた、名のない温泉があるらしい。
 地元の隠れ温泉は、出島の反対側にあった。石階段を登り、唐人屋敷を背にして、長崎の大通りを南下する。大名のお屋敷があり、質屋が並んでいた。
 ぞっとしながらも、売られた刀はなく、安堵で胸を撫で下ろした。
 モウモウと湯気の立つ温泉は冷えた体に有り難い。「男同士は楽やな」の言葉に頷いて、服を脱ぐ。山林の香りが漂ってくる。透き通っていた津の温泉と違い、長崎の源泉は少しばかり濁っているように見えた。ざば、とお湯で顔を洗って、ほっと一息。
「和泉守樣。大切な話、聞きます。ちょっと、落ち着いたので」
 高猷はしばし押し黙り、「やっぱ、ええわ」と歯を見せた。
「鍬、どうやったら、凄いと言われる人間になれるか、理解しとる?」と聞かれて、眼を大きくした。
「学問や。経験やな」と、ザバァ、と高猷は立ち上がった。
(まさに凄い人の象徴やぁ)と眼の前に突如として現れた〝和泉守〟に眼が釘付けになった。鍛えられた男の肉体が、羨ましい。
「死ぬほど学問せ。その、負けん気は武器や。期待しとるんは、俺だけやない。辛くても、戻って来るな。伝習を終えるまで、津には入れんぞ。教えられて良かった」
 また意地の悪い言葉を。
(教えられたって、何をや。無鉄砲に黒潮を遡って、人生の荒波に揉まれることか、はたまた、船酔いか。しかし、和泉守樣のモノはなんちゅう元気な……)
「……あんまり見るな。男に見せるもんやない。じっくり見ていいは、女だけや。おサルも、津の小猿も同じや。恥ずかしくなって来るやろ。自分の見とけ。お仲間や」
 言われ、鍬次郎はぱっと視線を逸らした。チラ、と鍬次郎自身を見下ろして、何だか情けなくなった。鍬次郎自身はちっちゃく、産湯のように気持ちよさそうに揺れていた。
 猿が、のそっと温泉に現れた。
 高猷は己の理想だ。強い精神、砕けた優しさ、強靱な肉体と、柔軟な思考。低い声に、統括力。津の若手たちを束ね、先進の目で突き進む行動力。でっかいアレ。
 時間は穏やかに過ぎて行った。猿がどやどや増えて来た。(だれが仲間!)囲まれる前に引き上げた。

❀9❀

 実は猿御用達の温泉だった鄙びた地で暖まった後、今度は冷や汁に文句のない胃にしっかり飯を詰めた。
 既に数人は試験を受けた後で、話にびびりながら、鍬次郎は伝習所の前で振り返った。
 海が近い。ざわざわと出港の気配がする。異国の船が出るのだろう――。
(和泉守樣、また唐人屋敷か……行ってきますも言えんままか)
 とはいえ、主君の行動を咎(とが)める理由もない。
 開いていた門を潜り、几帳面に作られた図面を頼りに、伝習所内部に入り込んだ。どどんと拓けた庭に、解体されかけた艦が置いてある。作りは木造だが、見た覚えのない材質があった。コンコン、と叩くと冷たく固い。
 廊下には薄い毛氈が敷いてある。和蘭陀商館の、埋もれる毛の床を思い出した。
(和泉守樣、すんません)とお守りに拝借した刀をしっかり差し、ドアを開けようとした。
 だが、開かない。引き戸ではない。ガチャガチャやっていたら、中から開いた。
「アイラブヤ」呟いたところで、軍医の姿が見えた。ぺこりと挨拶すると、軍医もぺこりと頭を下げてくれた。
 先日商館で逢った優しそうな教官。ずっと駿河守樣のほうが厳しい印象があった。
「いま、何と?」
「アイラブヤ。ああ、こんにちはと」
 ドアに寄り掛かったまま、ヨハネス軍医は険しいながらも、笑顔を浮かべた。鍬次郎だけが教室にいる。それはそれで気楽だが、ちょっと寒々しい。
「素質を見て、無理であれば、ご遠慮願いますよ。岩次郎。我々にも責任がありますのでね。我が国の技術を学びたいだけではいけません。学んで、生かせる人材が欲しい。共に、世界を歩けるヤーバンが。侍か。いいですね。齧り付いてくれそうで、結構です」
「ヤーバン、ですか?」
「我が国の言葉で〝日本人〟ちなみに、鍬次郎。アイラブヤの意味は存じている? いやはや、大胆な。照れました。後で、和蘭陀の辞書を渡しますよ」
(こんにちは、だよな? なんで顔、赤いんやろ。異人は、よぅ分からん)
 少しの問答の後、一枚の用紙を受け取った。
 ――いよいよだ。脳裏に、親父と、和泉守樣の顔が過ぎった。その前に、名前をちゃんと伝え直した。「和蘭陀では〝い〟と〝く〟が言いにくい」と言い訳を貰った。

❀❀❀

 遠く、艦の蒸気音と、水主の威勢の良い声。夕方に出港なんて危険知らずは誰だろう。
「制限時間は設けません。これで良しと思ったら、提出しなさい」
 ぼぉー、と船の発着の音。気付いたヨハネスが窓辺に視線を向けた。城壁が邪魔して見えないが、向こうには海がある。
「日本の艦は、蒸気で走るんですね」
「めっちゃ揺れます。酷い船酔いする。二度と乗りとぅない」と鍬次郎は砕けて答えた。
 心配していた試験は、本当に〝顔逢わせの腕試し〟といったところで、椅子で足を組みながら、ヨハネスはにこやかにイロイロ話してくれた。
 和蘭陀の船は、蒸気だけでなく、電気を使うだとか、風車は風の力で水を汲み上げて、作業する場所だとか。人の体にはいくつもの器官が詰まってて、バランス良く動いているだとか。蘭学では人を解剖して、ちゃんと勉強させるだとか。
 しかし、日本語が丁寧で驚く。標準語は、鍬次郎ですら難しい。
(うん、この人、好きだな。博識な人は本当、ええな)
「興味がありそうな顔をしていますね。……ふむ、舎密学が苦手ですか」
「初めて、知ったので」
「舎密学とは、自然現象の授業です。(※今で言う化学)薬の配合なども入ります。こちらは、我が和蘭陀で言う、医学。ヤーバンは蘭学(らんがく)、と呼ぶようです」
 最後の問題を答え終えて、添削を受けた。
「やはり、貴方は冷静でいい。度胸は必要ですからね」
 ひく、と鼻が動いた。臭い。くんくんとさりげなく着物を確認したが、温泉の硫黄の臭いしかしない。もわぁ、と臭気が漂っている。厠(かわや)の臭さとまた違う臭気。人の汗のような、生ゴミのような腐臭だ。忽ち充満した腐臭に、思い切り鼻を抓んだ。
(くさい! 長崎海軍伝習所、くさい!)
「臭いますね」とヨハネスも鼻の頭に皺を寄せた。ゴリゴリゴリと嫌な音がする。「まさか」とヨハネスは顔色を変え、立ち上がった。
 一層、臭いがきつくなった。もはや船の音は聞こえなかった。
「失礼します。これ、結果を置いておきます。心して、読みなさい」
 涙目になって、ヨハネスは教室を出て行った。
(心して……駄目なら駄目と言ってくれたら良かったのに。絶望は嫌や)
 裏返された試験用紙を、そうっと捲った。合格だった。
「好奇心は何よりの推進力になりますよ」とお墨付きの言葉が書かれていた。
「やったで! 合格やぁ! む、くさい!」
 嬉しさとやりきった感に胸を弾ませたが、鼻を抓んだままの情けない格好になった。
 それほどの腐敗臭が漂っていた。結局、早足で逃げ出した。

❀❀❀

 凝視した合格の文字は、間違いがない。試験は腕試しといった問題だったが、よく見れば、合間合間に人間性を見るような問いがあった。
 蘭学(らんがく)とは人の命を扱う学問、とか舎(せい)密学(みがく)は事故を絶対に起こしてはならないとか。つまり問題を解くことで、真意が不思議と脳裏に入る。絡繰りがあった。
 それにしても、ヨハネスは和蘭陀の軍医なのに、日本語が巧すぎる。ならば、逆もアリだろう。そう、和蘭陀語の巧い日本人も、アリだ。
(奉行所の人たち、格好良かったな。臆さずに、堂々としている。強みがあるからか)
 和蘭陀商館で目撃した、長崎奉行所の〝外交〟を鍬次郎は思い出した。皆、異国と堂々と渡り合って、日本人の誇りに満ちていて、眩しかった。
 思索に耽りながら、鍬次郎は鼻を抓んでいた手に気づき、ようやく離した。大通りに出ると、さすがに、あの酷い臭いはしなかった。
(何だったんだろ。……軍医も慌てていたが、まさか、人の肉体とか……)
 言うに堪えない、酷い悪臭。試験中に嗅いだら、卒倒したか、逃げ出したか。
(終わった後で良かった。ありゃ、酷かったで)
 ……己じゃないよな。
 クンクンと鍬次郎は着物を確かめた。硫黄の残り香だけ。ほっと胸を撫で下ろして、大通りから、奉行所の見える石坂を上った。
 ざわざわざわ、と「早よ帰れ」とばかりに夜風が啼いた。深夜には鬼が出よる。婆さまたちの言葉を思い出し、鍬次郎は先を急いだ。
 奉行所が近づいてくる。和泉守樣には、どう報告しよう。
 早足は、胸の嬉しさと同じ速度を刻んだ。
 やった。やったで。まずは第一歩。勝ったんや。眠気なんぞ吹っ飛んだ。
(立役者にはなれんが、最新の勉強ができるは嬉しい。和泉守樣に、何と伝えよう? ああ、泣きそうや。勝ち気な己が、涙浮かんでる。誰でも、頑張りが認められれば嬉しいものだ。別に変やない。――かと言え、涙なんぞあまり見せたいものでもないしなぁ)
「ぶふ」
 少し俯き加減に歩いていたせいで、人とぶつかった。相手も、冊子を読んでいた。粋な色の着物。ただし、袴が窄(すぼ)まっている、長崎でよく見かける変形した着物。履き物も草履ではない。脹(ふく)ら脛(はぎ)までを皮で覆い、たくさんの紐を通している。
(また、ケッタイな着物と履き物を……)
 気さくな兄ちゃん、の顔には見覚えがあった。
「おお、津の小猿、ちょうど良かった」
 正装していないから、一目だけでは分からなかったが、和蘭陀商館で付き添ってくれた通詞の役人だった。
「あ、通詞の」名前が出て来ない鍬次郎に、むすっとしたまま男はぶっきらぼうになった。
「八沢だ。八沢(やざわ)蒼(そう)眞(ま)! 駿河守樣から、今後、必要であろう言語を教えてやれと言いつかった。和蘭陀商館の娘を口説いていたと告げたら、大層な驚嘆(きょうたん)ぶりだったぞ。と言えど、相変わらずの無表情だったけどな」
「さては口を滑らせたは、あなたですか。和泉守樣も知っていました。通詞は口が軽いと世に言い継がれても知らんですよ。己は」
「相変わらず小憎たらしいヤツだな。おい! 受かったらしいな。先ほど知らせが来ていた。よぅ! おめでとさん!」
「己が落ちるはずないやないですかっ!」
 髪をぐしゃぐしゃやられた。心の底からの虚勢だが、一つの障害を乗り越えた嬉しさは言い表せない。八沢は嬉しそうに頷いた。何となく、あのベルの一件で、勘ぐられているフシがあるが、明るい性格は嫌いではない。
「おまえにと手紙を預かったんや。渡さなきゃと探しに行くところだった」
「手紙? 日本語の?」
「おう。残念ながら、和蘭陀商館長のお嬢様ではないな。野太い字だ」
 八沢はからかいながら、白手紙を差し出した。表書には『堀江鍬次郎へ』と墨で書かれている。ひっくり返すと、『和泉守』と小筆で書かれていた。
「和泉守樣からやないか。手紙で伝えんと、言いにくればええのに……」
 言いながら拡げると、白紙だった。ひっくり返しても、白紙は白紙。
(炙り出しでもしろと言うんか。そもそも、どうして手紙なんか)
 手紙とは、伝えたいから書く。鍬次郎は言葉でちろと斜め上を見上げた。玄関に渡された欄間の隙間を蜘蛛がサササと動く光景が眼に飛び込んだ。頭より先に、体が動いた。何故か八沢もついてきた。
 長崎奉行所の敷地にある離れの屋敷は広い。津国の居候(いそうろう)に割り当てられた長屋の離れまでは石(いし)路(みち)だが、一気に砂利道になる。草履で踏み締めると、砂利音が響いた。
 ――まさか、まさかまさか。
 足を止めた。爪先をくるりと向けた。
(和泉守樣は、確か奥座敷におるのだった)
 掃除の婆とすれ違った。障子を開けると、畳まれた布団に、冷えた空気が漂い始めた。わいわい集まっていた津の朋輩(ほうばい)も一人と見当たらない。
 随分前から、無人だった証拠だ。畳も、すっかり冷え切っている。
 ――置いて行かれた! 年長順では、鍬次郎が最後の受験者だった。
「何やて! 嘘やろ! 己、落ちたらどうやって帰れば良かったんや!」
 思いっきり地元の訛りで叫び、鍬次郎は部屋から飛び出した。
「おい、何時だと思ってるんだ」と呆れ声の八沢を追い越して、草履で夜道に抜けた。

❀❀❀

 長崎の出島に夜はないと思え。とは、駿河守の言葉である。
(一週間も居れば、慣れるもんやけど……ああ、お祭りの列が邪魔や!)
 綺麗な遊女には悪いが、今はともかく、埠頭(ふとう)に急ぎたい。
「退いて! ごめんなさい! すんません、退いて!」痩せた爺やら、デカいケツのおばさんやらを突き抜けて、鍬次郎は埠頭に向かった。
 体内を虐め抜くような全速力を出し、さっき上がったばかりの坂を駆け下りた。
 はあ、はあ、はあ。走りすぎて今度は胸が痛い。止まっては、また走った。ただ、走りたかった。流れる視界の中、鍬次郎は一つの証拠を噛み締めていた。
(試験中に、船の汽笛の音がした。ヨハネス軍医は『日本の船は、蒸気で走るんですね』と呟いた。あれ、津の戦艦やったんや! あの時、和泉守樣は既に出港か!)
「何も聞いておらん! 和泉守樣はいっつもこうや!」
 埠頭の周辺には、小さな明かりが点々と灯っていた。提灯である。本当に小さな豆電球が等間隔で密やかに夜を照らしていた。
 ――鍬次郎、大切な話が。海の喧噪(けんそう)に混じって、高猷の声が漣(さざなみ)のように心に響いた。
 心がくしゃくしゃになった。鍬次郎は罵倒を止め、俯いた。自己嫌悪の波がやって来た。
「違う、言えなかったんやない。己が、聞かなかったからや……!」
 機会はあった。だが、目先の試験で精一杯で、気配りできなかった。袖で眼元を擦(こす)った。
「その声は、堀江鍬次郎か?」と冷静な声と、歩いて来た提灯が揺れた。提灯を持った駿河守だった。
 鍬次郎は濡れまくった頬を向けた。駿河守は相変わらず高猷とは正反対の氷の口調で、横に並んだ。涙目の鍬次郎に気付き、ふ、と笑った。
「和泉守殿は、そなたに言い倦ねていたぞ」
 グス、とまた洟(はな)を啜(すす)った。
「津の大将があまりにまどろっこしいから、思わず俺から伝えようかと声を掛けた。友は『こういう痛みは口では教えられんよ。はあとや』と言っていた。粋な男だ」
 洟を啜る音に、駿河守の冷淡な声は優しく染みる。和泉守樣の優しさが、駿河守樣を通しても、ちゃんと伝わって来た。
 地面にまあるい涙が落ちて染みた。鍬次郎は、顔を上げた。
「怒鳴ったら、まだ聞こえんかな」
 汽笛が鳴った時間を振り返ると、夕刻。どう考えても……だが、無意味な行動でも、心を込めればきっと何かを好転させるに違いない。
「やめろ、深夜の騒音迷惑で、奉行所に苦情が来る」
「でも、聞こえるかも知れんし! 後生(こうせい)の願いや!」
「これから海軍の伝習を受ける男の言う台詞ではない。分かっていてもか」
 相変わらずの容赦のない正論に、鍬次郎はうっと詰まった。
「もしかしたら届くかも知れない。ここでやらなかったら、きっと後悔する。己、それだけはわかる。届くよ、届く」
「和泉守殿が地獄耳であったなら」と駿河守は背を向けた。
「堀江鍬次郎、津から来た遊学生は、そなた以外は帰国を願った。大半が、試験と聞いて狼狽、残りの半分が試験の問題集に敗北。数名は怖れ戦いて軍医の怒りを買った」
 駿河守は提灯を揺らした。幕臣(ばくしん)の紋章が入っている。立派な提灯だ。
「そら、言いたいなら言え。深夜に遊学生がふらつくは、規定違反だ」
 知らず溢れていた涙を拭った。頬を夜風が冷やして駆け抜けた。
 大声を出さなければ。恐らく、今まで最高の大声を。大揺れの船、もっとゆらしたる。すうううううと息を吸った。
 冷静だった駿河守が察して、ピクリと動いた。
「和泉守樣ぁあ――! 己は長崎で、とことんやるで! 心配すんな! ちゃんと、あんたの元に戻れるよう、頑張って前を向くやあぁ――!」
(俺は受かると思ってたで! やれるとこまでやれや!)高猷なら、きっと告げて、笑う。
 ぽぽぽと行燈が灯り始めた。頭を抱えた駿河守に、鍬次郎は胸を張った。
「ほら、通じたで。己には分かるんや」
 駿河守は、「この負けず嫌いめ」と小さく息を吐いていた。

❀❀❀

「で、そなたはどこに住むつもりだ」
 ぶち壊しの声に背中が冷たくなった。悪い癖が出た。後先を考えない。
(そうや。己、どこで寝泊まりするんやろ)
 豆鉄砲の眼に、駿河守はふむ、と頷いた。
「奉行所の仕事付きではあるが、部屋はある」と笑いを浮かべた。
「いいの? あー、いいの、ですか?」
 多分、最初で最後。駿河守はにこりと笑って頷いた。笑顔は少年のように可愛い。
「いつも笑ってればええのに」途端に渋面に戻った。
「国へ長崎の遊学生の様子を報告しなければならぬ。そなたに何かあったら、津国の軍艦が今度は砲を載せてくる。それとな、叫ぶ方向だが、和泉守は佐賀に向かった。逆だ、逆」
 駿河守は平明に話をしてくれた。高猷が佐賀の伝習所に大砲を依頼していたこと、もう日程が詰まっているのに、鍬次郎の試験の朝まで待っていたこと。何度も、駿河守に相談しては、とうとう言い出せずに長崎を去ったこと。「あいつは大丈夫や」と繰り返し笑っていたことなど。聞いている内に、また双眸が熱くなった。
「おのれの力と、部下を同時に極限まで信じる。両方ができる男は少ない。文明開化の時代には、ああいう男が重宝(ちょうほう)されるのだろう。宜しく、鍬次郎。伝習所の内部施設を説明しよう。それから、学問の流れと、担当軍医ヨハネスについてもだ。寝る間はないぞ」
(いよいよ話が、本格化してきた)武者震いして、頷いた。
「おいそれと野蛮な輩に知識はやれん。当然だが、人柄も含まれる。ヨハネス軍医は手厳しいが、贔屓はしない。津の地酒に免じて、助力しよう」
 駿河守流の最大の讃辞。ぺこりと頭を下げた。りぃんりぃんと春蟋蟀(こおろぎ)。またサアアーと小雨が降り出した。
「急ごう。傘を持っていない。婆が掃除したばかりで、汚すと大名だろうと、殿だろうとケツを叩かれる。古来より、婆さんは身分を恐れない」
「津の婆様も強かったなぁ。猿みたいに、いっつも固まって三人で」
 解けた草履の紐に何かが絡まった。
「鍬次郎?」無視して構わず歩いたら、ズ、ズズ……とおまけの重圧感がついてきた。
 屈むと、糸が絡まっていた。チク、と足袋の上から何かに刺された。手で拾い上げたら今度は人差し指を刺した。
「なんだ、この武器一杯の凧!」
「ハタだ。長崎の遊びでね。揚げた凧を絡ませて斬り合う。そのために糸に硝子やら、塗料やらを塗って、一人は〝やだもん〟と呼ばれる道具で相手の凧を狩る。これを〝つぶやかし〟と呼ぶ。遊学生に流行しているが、近隣からは苦情が殺到しているし、俺の幼名は彦次郎だから、気分が悪い」
 鍬次郎は怪我した人差し指をしゃぶりながら、凧を見詰めた。
(なんか、危険な感じがするは、気のせいか……武器だらけの、嫌な凧だ)
 ――鍬次郎。呼ばれた気がして、鍬次郎は最後に長崎の海を振り返った。
 サアアーと降り注ぐ雨の水紋に向かって、小さく「己、ガンバルで」と呟いた。
 怒鳴るより、ずっとずっと和泉守、藤堂高猷の心に直接伝わる気がした。

しおり