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豹真の出生

 さて、その日の練習は、それまでとはうって変わって調子よく終わりました。
大人たちが上機嫌の町内会長と帰った後、僕はそれとなく理子さんを探しましたが、あなたはいつの間にかいなくなっていました。
 一方の豹真はというと、施錠された公民館の前でまだ理子さんを探していた僕を呼び止めました。
「探してるのか、刀根理子」
 僕は答えませんでした。胸はドキリと鳴りましたが、僕の気持ちを教えてやる義理などありません。
 帰ろうとすると、豹真は僕の手から傘をもぎ取りました。
「何するんだ!」
 相手にしないつもりが、つい怒鳴ってしまいました。豹真はあのいやらしい笑いを浮かべて、傘を返しました。
 それを差して帰るのが何だか癪に触って、僕はその場から動きませんでした。代わりに豹真が、自分の傘を差して行ってしまいました。
 少し距離が開いたところで、背中を向けた豹真の声が聞こえました。
「好きなんだろ、刀根理子が」
 僕はずぶ濡れのまま、豹真に追いすがりました。慌てていたので、傘を開くのもそこそこに、「違う」とだけ告げました。
 どっちでもいいが、と前置きして、豹真は本題に入りました。
「まだ、あのへたくそな祝詞を続ける気か」
 ああ、とだけ答えると、豹真は「分かった」とだけ言って歩を早めました。急いでついていくと、煩わしそうな問いが帰ってきました。
「つまり、本番までお前の力をごまかし通すということだな」
 そんなことは当たり前だ、とはっきり言い返しました。それが言霊使いの掟です。しかし、豹真の考えは違っていました。
「力を知られないことと、隠すことは違う。お前は、普通の人間じゃないことをそんなに恥じているのか?」
 恥じてなどいません。父が先祖から受け継ぎ、人生を懸けて僕に伝えた力を、僕は誇りに思っています。
 そう告げると、間髪入れずに「だったら」という言葉が返ってきました。
「堂々と使うべきだ。優れた者が正しく評価されず、劣ったものが大きな顔をしているのは、間違っている」
 それが間違いなんだ、と反論が、自然に口をついて出てきました。なぜだか分かりません。ただ、間違いなく言えるのは、そのとき僕は豹真の顔を見ていなかったということです。背後に追いすがったから当然といえば当然なのですが、あの歪んだ笑みを思い出すのが嫌で、議論する相手の顔を想像することさえしませんでした。
 むしろ、考えていたのは理子さんのことです。前日の大雨の中でまっすぐに立ち尽くしていた、理子さんの姿です。
 あんなことだけはもう二度と許すまい、それだけを考えていました。
 だから、豹真がこんなことを言っても全く気になりませんでした。
「言霊使いが、ろくにしゃべれもしない姿を人前にさらすんだ。掟を共にする仲間たちに対して、何とも思わないのか」
 それを言われると弱いのです。普通の人とは異なる存在である僕たちが生きていくには、仲間同士の助け合いが欠かせません。それは、幼い頃から父に叩きこまれてきたことです。
 そう考えると、豹真の気持ちも無視できないのでした。
 平日の昼時で、田舎町の道路にはそれほど人も車も通りません。誰の姿もないのを確かめてから、僕は傘を投げ出して豹真に頭を下げました。
 豹真は慌てて傘を拾い、腰を折った僕の姿を隠すように差し掛けました。
「おい、何のつもりだ」
 豹真は相当うろたえていました。チャンスです。僕は年下の男の子に必死で頼みました。
「腹立たしいのは分かる。だけど、君があと数日だけ目をつぶってくれたら……」
 再び傘が路面に転がりました。返事がありません。身体を起こすと、豹真は、もう遥か遠くにいました。
 今度は僕がうろたえました。さすがに傘を拾うだけの余裕くらいはありましたが、それこそ転びそうな勢いで追いかけます。声が届きそうな距離まで来て、ようやく「待って」とだけ言うと、低いかすれ声が「近寄るな」と拒みました。
思わず立ち止まると、一方的な通告が聞こえてきました。
「お前があのままの祝詞を上げる気なら、理子が火傷を負うことになる」
 豹真はやる気だと直感しました。
 僕はその足で、町内会長さんの自宅を探して走りだしました。
 この個人情報保護にうるさい時代に信じられないのですが、町内の要所要所には、どこに誰の家があるかという見取り図の掲示板が堂々と並んでいます。
 手近な見取り図に従ってたどり着いた先は、古い駄菓子屋でした。店先の、串を刺した薄いイカの干物やどぎつい色のゼリー、微妙に著作権侵害をクリアした「パチモン」キャラクター商品の間を通り抜けると、そこには畳の間があり、町内会長さんがドテラを掛け布団代わりにして、見るからに温そうな春ゴタツで昼寝をしていました。
 すみません、と声をかけると、目を覚ました町内会長さんはすぐにドテラを羽織って起き上がりました。
「おお、和洋くんか」
 まるで就学前から知っているかのような気安さで話しかけてくる町内会長さんに気後れを感じながら、僕は豹真に対するよりも神妙な態度で「すみません」と頭を下げました。
 町内会長さんは慌てて、僕を畳の間に招きます。脱いだ靴を丁寧に揃えた僕は、アグラをかいた町内会長さんの前で正座しました。
「まあ、そんなに固くならんと」
 僕は返事もしないで平伏しました。
「すみません、僕、祝詞は上げられません」
 ぴしゃ、と額が鳴る音がしました。手で叩く音です。
 顔を上げると、町内会長さんが実に情けない顔でへたりこんでいました。
「ほれは困るわ、和洋くんが最後の砦やったんやで」
 話を聞いてみると、町内会長さんも大変な思いをしていました。
 いわゆる少子高齢化で、地元の若者はかなり減っています。昔から続く年中行事もひとつ、またひとつと休止され(なくなった、とは絶対に言いませんでした)、こんな祝詞ひとつも地元にある高校の教員を頼って人を探さなければなりません。
 驚いたのは、豹真の父親がこの四十万町の出身で、しかも笛の名手だったということでした。
 若い頃にふらりと町を出てしまい、奥さんと豹真を連れて帰ってきたかと思うと急に亡くなってしまったということ、豹真を連れて街を出た奥さんもやがて亡くなり、豹真は父親の親戚に引き取られて戻ってきたということ……。
 無理は言えないが、と前置きして、町内会長は言いました。
「おんなじくらいの年の人は、電話でもインターネットでも、喫茶店でお茶飲んでもつながれる。ほうやけんど、ほれだけやと、ここは住むだけの場所になってまう。こういうことを仲間でやらんと、人は年の差でつながれんのんや」
 奥さんを支えてやれたら、というつぶやきに対して、僕は何も答えられませんでした。ただ、「ありがとうございました」と言って帰るばかりだったのです。

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