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オヤジの怒りと理子の母親

 その夕方のことでしたね。理子さんが僕を訪ねてきたのは。
 たぶん、玄関先まで来たところで、家の中が修羅場になっているのはお分かりになったでしょう。
 豹真と私闘をやらかしたときと同じく、父は定時に退勤してきました。おそらく職場に、町内会長さんからの電話が入ったのでしょう。
 僕は再び父と差し向かいで正座し、説教される羽目になりました。
 何でも、町内会長さんは町外の身内を当たってでも代役を探すと言ってきたそうです。しかし、父はそれを断りました。
 いつものように僕をまっすぐ見据えた父は、ゆっくり「お前な」と言いました。いつものような怒声ではありませんでした。
「勝手に決めるなと言っただろう」
 そういえば、最初に生返事で町内会長さんの話を受けたとき、父にはそう叱られたのでした。しかし、僕にも言い分はありました。これは、急を要することだったのです。明日以降、豹真との闘いを回避するには、今日中に話をつける必要がありました。
 だから事情を包み隠さず、父に話しました。
 ……豹真の言霊使いとしての意地、そして挑戦。
 ……ある意味、人質に取られた理子。
 もしかすると理子さんは、恩着せがましいと思うかもしれません。
 あるいは、子どもの喧嘩に親が出るのはみっともない、と思うかもしれません。
 しかし、僕はこうするのが最も正しかったと信じています。決してヒーローの行動ではありませんが、それで充分です。
 なぜなら、僕は普通の人間ではありませんが、ヒーローでもないのですから。
豹真との経緯を知った父は、正座したまま、しばらく黙っていました。
 余りにも長い沈黙に、ひょっとすると足が痺れて立てないだけかもしれないと思い始めたときです。
 父がぼそりと言いました。
「言霊使いがこの時代に生きていくのに必要なのは、力じゃあない」
 そのとき思い出したのは、豹真の神経質に歪んだ笑い顔です。彼がこだわっているのは、まさにその「力」なのでした。
 父はさらに言葉を継ぎます。
「知恵だよ」
 それも、僕にはないものでした。せいぜい、咄嗟に服を脱ぐくらいが関の山です。
 あれば、豹真とこんなことにはなっていません。理子さんを危険な目に遭わせることもなかったのです。
「それがないのなら」
 重々しい声が、最後の決断を迫ろうとしていました。僕は頭を垂れ、父の言葉を待ちました。
 また、引っ越しだろう。そう思いました。
それで何度目かわかりませんが、父に済まないという気持ちで胸がいっぱいになったのです。
しかし。
「決闘しかない」
「……はあ?」
 先の一言は父の言葉、続く気の抜けたセリフは僕の返事です。
「聞こえなかったか。豹真と決闘するんだ」
 別に我が身が可愛かったわけではありません。そこは信念というか美学というか、納得しないと先ヘは進めないところでした。
「だってさっき、力じゃないって」
「そうだ、これは知恵だ」
 訳が分からず、今度は僕が沈黙を決め込んでしまいました。
 父はというと、そのまま横になり、背中を向けてごろりと転がりました。
「あとは自分で決めろ。決闘状一枚あれば体裁は整うからな」
 そう言いながら、父はそこから動きもしません。足が痺れたんだろうと勝手に決めつけて、僕は散歩に出ることにしました。外はそろそろ暗くなっている頃だと思いましたが、一人で考えるにはおあつらえ向きだったのです。
 しかし、そこでも予想外のことが起こりました。
 そう、理子さんが玄関先に立っていたのです。
 あなたがそこで真っ先に遣ったことは、僕に詫びることでした。
「話は町内会長さんから聞きました。苦しんでいるのが私のせいなら、これから説得に行ってきます」
 薄暗がりの中、冷たい春の風が、むやみやたらと頭を下げることなく僕をまっすぐ見つめる理子さんの髪を微かに揺らしていました。
 そんなことはしなくていい、と僕は言いました。理子さんのそのひと言で、心は決まっていたのです。
 豹真と闘って、あなたを守る。
 僕は何を迷っていたのでしょう。単純な話だったのです。その結果、父と共に再び流浪の身となっても、それが普通の人間とは違う「言霊使い」の宿命だと割り切れば済むことではありませんか。
 分かりました、と抑揚のない声で答える理子さんがどんな目で僕を見ているのか、もう暗くて見当がつきませんでした。考え事をする理由もなくなったので、僕は家の中に戻ろうとしましたが、そのとき理子さんに呼び止められました。
「そこで送ってくれるのがエチケットだと思うんですけど」
 女の子と関わったことがなかったので、そういうものかと思ってついていくことにしましたが、実際はどういうものなのでしょう。
 古い街灯にぽつぽつと照らされる道を歩きながら、理子さんは祭のことを教えてくれましたね。
 
 ……遠い神代の昔、収穫のない貧しい村で行き倒れになった一人のよそ者が、村人の看病空しく命を落とした。死ぬ間際に、よそ者は、自分の身体を山の頂上に埋めるように頼んだ。村人がその通りにすると、その冬、食料が絶えた村に多くの獣が下りてきて人々に捕えられ、命をつなぐ糧となった。やがて春が巡ってくると村はほどよい雨と日差しに恵まれ、さらに夏を過ごした後、その年の秋は豊かな実りに恵まれた。そこで村人は、あのよそ者が外から訪れた神であることを知り、再び山へ送るために祭を始めたという。

 長い話だったので、気が付いたら僕たちは、理子さんの家の前に立っていました。
 家というより、屋敷ですよね、あれ。
 長い長い坂を上ったところにごっつい門があって、その向こうから母屋の二階が見えるんですから。
 理子さんがインターホンで何か話すと、女の人が美しい声で答えたので、たぶんお母さまがいらっしゃるのだろうと思いました。豹真の話ではたいへん厳しい方だと聞いていたので身構えていましたが、門を開けてでていらっしゃったのは物腰の優しい、たおやかな女性でした。
「暗いところを、わざわざ済みません」
 丁寧に頭を下げられてすっかり恐縮してしまい、上がってゆっくりしていったらというお愛想もしどろもどろでお断りしてさっさと逃げてきましたが、そのとき背中に感じた理子さんの視線は、これまででいちばん冷ややかだった気がします。
 帰宅した僕を出迎えた父は、「決まったか」とだけ尋ねました。僕は努めて平生どおりに、「ああ」とだけ答えました。父は「そうか」と言っただけで、あとは何も聞きませんでした。

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