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第十二話:紅ドラゴンの性質について

「クジョ―、ほら、朝だよ! 起きなって!」

 窓に掛けられたカーテンが開かれる。
 ここ最近は聞き慣れた声が意識を揺さぶった。カヤの声だ。
 全身を包み込む布団の重みと温度。起きなくちゃいけないのは分かっているが瞼が重く身体全体が眠気でだるい。
 差し込んできた日光を遮るために掛け布団を掴み、その中に潜り込む。

「……後……五分……五分だけ……頼む……」

 カヤはかなり寝起きがいいが、俺は余り寝起きのいい方ではない。仕事してないのもあって、時間的な制約がゼロなのだ。

 尤も、カヤはこういう時には容赦しないので布団剥ぎ取られてしまうだろう。
 布団の中に縮こまって審判の時を待つ。じっとしている俺の頭の上から、カヤが呆れたよう声が聞こえた。

「んもう……仕方ないなぁ。朝食並べたらもう一回呼ぶから、そしたらちゃんと起きるんだよ?」

「……うい」

 ぱたぱたというスリッパの足音。カヤの気配が消える。
 意識が微睡みの中に消えかけたその時、激しい違和感に襲われた。

 ……あれ? いつもなら……叩き起こされるんだが?


§ § §


 ――なんかカヤの機嫌がめちゃくちゃいい。

「ちゃんと顔洗って朱里に食事をあげて」

「あ……ああ……」

 眠気でふらふらしながらリビングに行った俺に、カヤは笑顔でそういった。
 掃除は終わっているのだろう。部屋には埃一つなく、朝食のいい匂いが漂ってくる。

 空は快晴。南向きの窓からはさんさんとした陽光が取り入れられており、空気は爽やかだ。だが、カヤは天気がいいだとか悪いだとかで機嫌がよくなったり悪くなったりする性格ではないし、そんな事で俺を起こすのを容赦するような性格でもない。

 ……何かありそうだ。

 いつもと違うのが怖い。いつもよりも心持ち手早く顔を洗い、いつもより心持ち早足でキッチンの方に向かう。
 いつものように足元にまとわりついてくる朱里の頭を撫でてやり、檻の中からドラゴンフードの箱を取り出し、ざらざらと皿の上にあける。
 ドラゴンフードは肉を乾燥させ、四方二センチ程のキューブ状にしたものだ。何の肉なのかは知らない。

「あー……眠い……」

 欠伸をしながら朱里の首を叩くと、そこでようやく朱里が餌に口をつけ始めた。

 この間洗ったばかりのせいか、その体表の鱗はぴかぴかしている。額にはまった宝石もきらきらと輝いている。
 逆鱗とやらがどこにあるのかは知らないが、すぐに生え変わる事は……ないんだろうなぁ。

 再びリビングに行くと、カヤは既に食卓についていた。テーブルの上にはベーコンエッグとトースト、スープとサラダという簡素な食事が並んでいる。多分朱里が食べているものよりも安い。

 俺に気づいたカヤは一瞬花開くように顔を綻ばせ、しかしすぐに俺の頭を見て眉目を下げた。
 つかつかと俺に近づくと、呆れたように手を伸ばしてくる。

「クジョ―、髪に寝癖ついてるよ」
 
「……お前、なんか今日は機嫌いいな?」

「そう見えるかい?」

「そう見えるよう」

 カヤが背伸びして、撫で付けるように俺の髪を触れる。

 珍しく香水でも付けているのか、その首元から仄かに甘い香りが漂ってくる。そしてその時、俺はカヤの胸元にぶら下がっているロケット――ペンダントに気づいた。
 細かい銀細工のロケットだ。大きさは卵くらいで、シンプルなエプロン姿で付けていると嫌でも目立つ。
 カヤの家は金持ちだが、今までつけているのを見たことがない物だ。

 カヤは幾度か撫で付けると、小さく息を吐いて満足げに頷いた。

「これでちゃんとなった」

「その胸のロケット、どうしたんだ?」

 今更、聞くのを躊躇うような仲でもない。
 カヤは俺の言葉に一歩下がり、まるでロケットを見せつけるように腰に手を当てた。
 鼻歌でも聞こえてきそうな機嫌の良さ。

「ふふ。似合ってるかな?」

 そんなこと聞かれて似合っていないなんて答える奴がいたら見てみたいものである。

 何も答えなかったが、カヤは特に何も言わずにそのロケットに指を添え、突起を押す。
 パチンと音が鳴り、ロケットが開く。内部には本来収められている写真などは入っていない。その代わりに、真っ赤な宝石のようなものが収められている。

 目を擦って二度見する。

 いや、宝石ではない。それは――朱里の鱗だった。俺がプレゼントした逆鱗。
 余りにも薄く透明感のあるそれは、ロケットに収められているとまるで宝石のようだった。

「ロケットに入れたのか」

「本当は……ペンダントにしたかったんだけど、ペンダントにすると……強盗とかに襲われるかもしれないって、パパが――」

 さすが商人である。いい判断をする。ロケットに入れて普段は蓋を閉じておけば気づかれる心配はない。
 時間が経って改めて見ると、確かにその逆鱗には人を惹きつけるような魅力があった。魔法の力が込められていても不思議ではない、そんな輝きが。
 ドラゴンが幻獣とされるのもわかる。まるで生体素材らしさがないのだ。まるで鉱物かあるいは精緻な工芸品であるかのようだ。さすがにそれでも……クウリの出した交換条件はどうかと思うけれど。

 無言でカヤの全身を見直す。
 ペンダント程派手ではないが、なるほどなかなか似合っている。そうか……そのまま鱗を渡すよりも加工して渡した方が気が利いていたな。

 カヤが頰を染め、潤んだ眼で言う。

「ずっと……大切にするよ」

「……ああ」

 いや、そんな大層なものでも――だが、カヤにそう言われて嫌な気がする男などいない。
 しかし、そうか。カヤの機嫌のいい理由はこれだったらしい。

 本来なら手に入るはずじゃなかった鱗一枚でここまで機嫌がよくなるとは、朱里様様だ。足を向けて寝られない。まぁ、もともと仲はいい方だったけど。

 食事を終えたのか、朱里がてこてこと俺の足元にすがりついてくる。
 でかい。重い。手間がかかるし金もかかる。しかし、大した手間でもないし金も借金する程かかるわけではない。
 面白い経験をさせてもらった事も加味すればドラゴンの飼育はメリットの方が大きいのかもしれないな……さすがに成体になったら野生に返すけど。

「……二枚目期待してるぞ、朱里」

 朱里に声をかける。しかし、朱里からはいつもの鳴き声が返ってこなかった。

 不審に思い、足元を見る。
 朱里は俺の脚にすがりついたまま、その頭を俺の方ではなくカヤの方に向けていた。鋭く細められたドラゴンの眼がカヤを射抜いている。いや、正確に言えば――その胸元のロケットを。

 嫌な予感がした。
 朱里はそもそもカヤに全くなついていない。カヤが近づくために常に威嚇のような鳴き声をあげる、そういうレベルだ。
 さすがに言い聞かせているので噛み付いたり引っ掻いたりはしないが、もし言い聞かせていなかったらどうなっていたかもわからない。そういう意味で俺はこの朱里に対して全く信頼を抱いていなかった。カヤが傷ついたら事である。

 それを向けられているカヤは能天気な微笑みを浮かべ、朱里の方に「どうしたの?」とか話しかけている。危機感が足りていないと思う。もともと、カヤにはそういうきらいがあった。

 考えたその時にはしゃがんでいた。朱里を両腕で包むこむように強く抱きしめる。それとほぼ同時に、朱里がカヤの方に飛び跳ねた。

 俺の身長は百八十一センチ。体重だって七十キロ以上ある。その身体が一瞬宙に浮いた。
 朱里が首を大きく伸ばし、牙の生えそろった顎をカヤに向ける。カヤが短く悲鳴を上げ、反射のように一歩後退る。

「ひゃっ!?」
 
 ――そして、朱里はカヤにたどり着くことなく、その途中で床に伏した。

 さすがに俺の体重を無視出来る程の力はなかったらしい。身体全体で伸し掛かるように力を込め朱里の身体と四肢を押さえつける。その時には既に朱里は抵抗をしていなかった。

 朱里が首だけこちらに向け、悲しげに鳴く。
 息が荒い。耳元で聞こえる鼓動は自分の心臓の音。今更首元から冷や汗が出てくる。

「ちょ……クジョ―、何やってるの!?」

「何やってるのじゃねえ……」

 こいつ今、カヤに飛び掛かろうとしやがった。
 いや、俺が止めたから未遂だっただけだ。俺が動かなければ間違いなく、この体長百二十センチ、体重六十五キロの幼ドラゴンはカヤに襲いかかっていた。
 こいつは今確かに、牙を剥いていたのだ。しかも今回は以前と違い、俺が叩かれそうになったわけでもない。

「お前も見ただろ? こいつ今、お前に飛びかかろうとしたんだぞ」

「いや、でも――」

 じゃれるとかそういうレベルではない。飛びかかる寸前に偶然見たその眼は獲物を狙う眼だった。
 そして、まだ生後一月も経っていない竜で、俺の身体が浮く程の力があるのだ、もう一月後だったら伸し掛かった俺を弾き飛ばしてカヤを襲っていたかもしれない。

 気性が荒い。懐かない。所長の言葉がフラッシュバックのように脳内を流れる。

 俺にとっては犬猫と余り変わらないが、カヤに対する態度はそうじゃない。

「研究所が……引き取るのを拒否するわけだ」

「ク、クジョ―……」

 そして、何と言ったか。そうだ。あの男はこういったのだ。
 成体の竜にもなれば、檻なんて破られる、と。

 ドラゴンの専門家が使っている檻が破られるのならば、うちの檻なんてまるで紙切れのように破ってくるだろう。ぞっとしない何かが背筋を駆け巡る。

 俺は今改めて目の前の朱里が確かに最強の幻想種である事を理解した。鱗一枚取れた所で浮かれている場合じゃ――なかった。

「クジョ―……その、朱里が……重そうだから、どいた方が……」

「……ああ……そうだな」

 今の朱里に、カヤに飛びかかろうとする意志は見られない。俺が止めたのがよかったのかあるいは、俺に止められたのがショックだったのか。
 重い身体をなんとか動かし、朱里の上からどく。朱里は『きゅう』と悲しげな声をあげたが、騙されない。もう騙されない。

 俺が退けた後も、朱里はその場に伏せたままだ。尻尾を振る事もなく、僅かに首を傾けて俺の方につぶらな眼を向けている。

 カヤが空元気のような声をあげる。

「きっと……何かの間違いだよ。そ、そうだよ。今日は機嫌が悪かったのかもしれないし――」

「……そうだな」

 カヤは馬鹿ではない。その声はまるで自分に言い聞かせているような色を含んでいた。

 だが、対策は考えなくてはならない。どこかに置き去りにしても間違いなく朱里は戻ってきてしまうだろう。そして、戻ってくる間に存在する『障害物』をどうしてしまうのか、想像もつかない。

 ずっと檻に入れる? 無駄だ。こいつの力ならばすぐに破れるようになるだろう。例えおとなしく入っているように見えても、それはきっと……破れない振りをしているだけだ。俺が入れたから入っているだけだ。間違いなく、そのくらいの事をやってのけるだけの知性がある。
 
 とりあえず、ドラゴン研究所の所長には相談しに行くとして、大人しくさせるにはどうするべきか。

 カヤの方を見る。カヤはいつもよりもやや強張った笑顔を俺に向けた。まるで心配しなくていいとでも言うかのように。
 ただ、その手は今の感情を示すかのようにロケットを強く握っている。

 その時、ふと気づいた。

「ロケット……ロケット、か」

 朱里が飛びかかる寸前、朱里は確かにカヤのロケットを睨みつけていた。

 何故ロケットを睨みつけていたのか。決まっている。
 いつもならば威嚇はしてもカヤの方に飛びかかったりはしない。何が朱里の機嫌を損ねたのか?

 あのロケットに入っている物。それは――朱里の逆鱗だ。

 自分の鱗をカヤが持っている事が気に入らなかったのか? あるいは、俺が拾ったはずの鱗をカヤが奪い取ったと判断したのか?
 どちらでもいい。どちらにせよ同じ事だ。

 俺はしゃがみ込み、床にぺたっと伏せている朱里の背に手を当てる。
 朱里がビクリと身体を震わせる。その鱗はいつものようにひんやりとしていた。

「朱里、あの鱗は俺がカヤにくれてやったんだ」

「……」

 朱里が無言で尻尾を左右に振る。なんて言ってるのかはわからないが、きっと俺の言葉を理解しているのは間違いない。

「だから、二度とカヤに飛びかかったりするんじゃない。次に飛びかかったら――」

 最悪、まだ幼体のうちに、まだ俺にでもなんとか出来そうなうちに――殺してしまわねばならない。

 続きの言葉を言わなかったが、朱里は俺が何を言わんとしたのか察したように悲しげな眼でこちらを見上げた。

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