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第6話【囁きの階上】

──ギシ……ギシィ。


廊下の床板が、誰かの足音を受けて軋む。


湊と柏原はすでに二階に到着していた。館の西廊下──かつて藤堂の遺体が吊るされていた部屋の扉は、今は静かに閉ざされている。


「さっきの足音、こっちからだったはずだ」

湊が小声で言いながら、扉に手をかけた。
ギイ……と控えめな音を立てて開いた中には、以前と変わらぬ荒れた空間が広がっていた。
だが、机の位置が微妙にずれている。ベッドの上には、埃のない箇所がひとつ──まるで誰かが座っていたように。


「ここに……誰かがいた」

柏原がベッドを確認しながら呟く。
湊は机の上にある紙に気づく。拾い上げると、そこには血のような赤インクで一文が記されていた。

『もう一人、来てる。』

「誰かが私たち以外に……?」

湊が紙を折りたたみ、胸ポケットに入れる。
二人は視線を交わすと、さらに廊下の奥へと進む。

そこには、今まで気づかなかった古い扉があった。
重たそうな鉄製の取っ手。湊が試しに押すと、がちりと固く閉ざされている。


「鍵がかかってるな……開かない」

柏原が足元を見下ろすと、そこには薄い埃の中に、つま先が内向きの靴跡が残っていた。

「……この中に、誰かがいる」

湊は扉に耳を寄せる。中からは何の音も聞こえない。ただ、微かに、鉄の匂いと湿気が鼻先を掠める。


「戻ろう。無理に開けるには、まだタイミングが早すぎる」

広間に戻ると、空気が変わっていた。

理沙は沙耶の隣に座り、赤坂は壁際に立って腕を組んでいた。神村詩音は椅子に腰掛け、何かを記している。

「湊さん……」

沙耶が、おずおずと差し出したものを湊が受け取る。紙人形だった。
簡素な折り目と、丸く描かれた目。懐かしさすら覚えるそれは、どこかで見覚えがある。

「それ……椅子の下に落ちてたの。この折り方、なんだか昔見た気がする……でも、誰にだったのか……」

「裏に……イニシャル。S……かすれて読みにくいが、S.S.か?」

柏原がすぐに反応する。

「まさか……こんなもの、誰がここに置いたの?」

赤坂が舌打ちする。

「おいおい、また幽霊じみた話かよ。死人が動き出すってのか?」

「現実かどうかはともかく、“誰かがそれを演出している”ことが問題」

湊はそう言いながら、神村の方へ視線を向ける。

「詩音さん、あなたはこの人形に見覚えは?」

神村はしばらく見つめた後、小さく微笑んだ。

「昔、そういうのを折る人はいたわね。誰だったかしら」

「とぼけるには不自然な間があった」

湊の声に、詩音の笑みが一瞬だけ消える。

そのとき、沙耶が声を上げた。


「さっき……“聞こえた”んです。声が。私の名前を、呼んだんです。……どこかで聞いたような声で……でも、誰だったのか……」

広間に緊張が走る。

柏原が低く訊く。

「聞き間違いじゃないの?」

「違います。……“まだ覚えてる?”って、そう言ったんです」

「詩音さん──あなた、“誰か”を庇ってますね?」

湊の問いに、神村はほんのわずか眉を動かした。

「なぜそう思うの?」

「あなたは、最初から“演出”という言葉を恐れずに使っていた。一般人が殺人現場で“舞台”という語彙を連発するのは不自然です」

「でも、それはただの表現よ」

「表現なら、もっと日常的な言葉を使うはずだ。“幕が上がる”“脚本通り”……演劇か犯罪を、間近で見た者の言葉だ」

柏原が鋭く切り込む。

「公安の資料にあるの。“神楽鏡夜”って名前。犯罪演出を行う匿名の存在。あなたはそれを知ってるか?」

神村は答えなかった。

理沙が、少し緊張した声で言う。

「私、さっき神村さんが誰かと小声で話しているのを聞いた気がします。玄関の近くで──“まだ時間じゃない”って」

「時間じゃない、か……“演出家”なら、次の“場面”の開始を見計らってるかもしれないな」

湊は神村に再び視線を向けた。

「詩音さん、“あなた”は観客ではない。“舞台の演者”──もしくは“副演出家”の立場にある」

その言葉に、詩音はゆっくりと微笑む。

「なら、あなたは“探偵役”として、何を暴くの?」

「舞台の構造です。“見えない照明”と“配置された動線”、そして“すでに配役を終えた人間”が何を演じていたのかを」

詩音は立ち上がり、窓の方を振り返った。

「……最初の犠牲者が出たのは、21時頃」

「次の幕が近いということか?」

「ええ。ほら、聞こえるでしょ」

その言葉の直後──廊下の奥から、ふたたび足音。


──コツ、コツ……。


湊と柏原は再び階段を上がり、二階西廊下の奥へと戻っていた。
先ほど見つけた鍵のかかった部屋──そこにはまだ、誰かの気配が残っているようだった。


先ほど見つけた鍵のかかった部屋──そこにはまだ、誰かの気配が残っているようだった。


「やはり、中の空気が違うな……」

柏原が囁く。扉の前に立つと、微かな埃の匂いと金属の油のような臭いが混じっていた。


湊がバールを手に、扉の蝶番をこじ開ける。


ギギ……と音を立てて、扉が開いた。


中は埃と古びた空気に満ちていた。
奥にはいくつかの古椅子が円形に配置されていたが、すべてに埃が積もっており、長らく使用されていない様子。

その中央に置かれていたのは、低い台座と、破れかけた赤い布。

その脇に、何かの札の一部が落ちていた。
かすれて文字が読めないが、最初の一文字が「S」であるようにも見える。

「……これは“誰か”の……名札?」

柏原が札を拾い上げる。

「でも、裏には何も書かれてない。“途中で破られた”か、“偽装された”か……」

湊は舞台全体を見回しながら呟いた。


「……ここも、舞台の一部。でも、“何かを途中でやめた”ような痕跡があるな」

「……幕が上がるはずだった場所?」

理沙が声を震わせる。湊と柏原が告げた内容に、全員が静まり返る。

「演出家の“計画”はあった。でも、それは途中で止まってる気がする」

湊はそう断言する。神村は腕を組んだまま目を閉じていた。

「それが事実なら……まだ“本番”ではないのね」

そのとき、沙耶が駆け寄ってきた。


「そういえば湊さん、さっきこれ拾ったの」

沙耶が手にしていたのは、簡素に折られた紙のオリガミだった。

湊がそれを受け取り、しばらく見つめる。

「……誰がこんなものを……?」

「この折り方、なんだか昔見た気がする……でも、誰にだったかまでは……」

湊がオリガミの裏を確認する。

「……文字がある。S……かすれて読みにくいが、何かの頭文字か……?」

理沙がそっと沙耶の肩を抱いた。

「怖くない? 大丈夫?」

「……大丈夫……。ただ……思い出しそうな気がして……」

沙耶が、ぽつりと呟いた。

「 “戻ったら、外に出ないで”って……そんな風に言われた気がする……。気がするだけかもしれないけど……誰だったんだろう……」

神村が静かに呟く。

「この“舞台”は、まだ始まってもいないのよ」

その瞬間──


──ギィ……


玄関扉の蝶番が、誰にも触れられていないのに音を立てた。


湊は懐中電灯を構える。

「……また“舞台”が、動き出した」


誰かが、“入ってくる”ような音。

柏原が即座に拳銃を抜いた。

「来た……」

湊は懐中電灯を構えたまま、一歩前に出た。

廊下の外からの音に、広間の誰もが動けずにいた。

神村が窓際に立ち、雨が降り出した外を見つめながら、ぽつりと呟く。

「この舞台に、“嘘”も“真実”もない。ただ、“意志”があるだけ」

「その意志を見極めるのが、探偵の役目だ」

扉の奥、足音がふたたび近づく。


──次の一歩は、“真実”か、それとも“演出”か。


観客たちは、息を飲んでその音を待っていた。

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