9.鬼の心
「──……う……ううっ……」
下腹部に感じる鈍い痛みと共に目を覚ました桃姫は、黒い石造りの部屋の隅に置かれた硬い寝台の上で腹部を手で抑えながら上体を起こした。
「──ようやく目覚めたか、桃姫」
「……ッ」
砂袋を叩いたような低い声が耳に届いた桃姫は顔を上げると、燭台に灯されたロウソクが橙色に照らす部屋の引き戸の前に巌鬼が仁王立ちで立っているのを目にした。
「……ここは……どこなの……」
「鬼ヶ島、鬼ノ城──キサマはもう、この部屋から出ていくことはできん……この扉は鬼の力を持つ者しか開けられんのだ」
たずねる桃姫に対して、天井に頭を付けた巌鬼は背後の閉じられた引き戸をちらりと見やってから言って返すと、鬼の黄色い目で寝台の上に座る桃姫の顔を見下ろした。
「だが、一つだけ部屋から出る方法がある──桃姫、キサマが俺と"家族"になることだ……」
「…………」
巌鬼の言葉を受けた桃姫は、ため息を吐くと、静かに顔を伏せた。
「前にも話したよな……キサマは俺と同じく、虐殺を生き残り、俺と同じ地獄を味わった──俺とキサマは、まるで兄と妹のように似ていると──」
「…………」
かつて常陸の街道で聞いた巌鬼の独りよがりな発言に対して、桃姫は冷めた表情で沈黙して返した。
「俺と同じ地獄を味わったキサマとならば、"家族"になれる……心を許せる"家族"がいれば、俺はこれからも生きていくことができる──」
「──可哀想な巌鬼……あなた、鬼ヶ島でずっと独りぼっちだったのね」
巌鬼の口から告げられる言葉を受けて、顔を上げて巌鬼の顔を見つめた桃姫は率直に思ったことを口にした。
「……そうだ。その通りだ。俺は哀れだ……哀れな独りぼっちの……鬼ヶ島の生き残りだ──」
桃姫は"可哀想"と言われた巌鬼が激昂するだろうと思っていたが、返ってきた反応は意外なものだった。
「……俺を哀れだと思うなら──桃姫……俺と"家族"になれ……鬼ヶ島で俺と共に暮らせ……」
巌鬼は低い声でぶっきらぼうに、しかし心からの切なる願いとして桃姫に訴えた。
「…………」
しかし、返答せずに冷めた表情で沈黙して返した桃姫。それに対して業を煮やした巌鬼はグッと"鬼の睨み"を効かせながら、鬼の牙が生えた口を開いた。
「言うことを聞けッ……でなければッ──」
「──殺すの……? ──今までも、そうしてきたように」
大の大人でも裸足で逃げ出すような恐ろしい"鬼の睨み"を効かせた巌鬼の顔を平然とした顔で見上げた桃姫は、冷たく言い放った。
「──自分が気に食わないもの……そのすべてを燃やして、殺して、破壊して──ねぇ、巌鬼。その先に……いったい何があるというの?」
静かに問いかけられた桃姫の言葉は、巌鬼の荒みきった"鬼の心"に遠慮なく素手で触れる言葉であった。
しかし、巌鬼に怒る感情は湧かず──むしろ巌鬼は、桃姫になら、今まで誰にも言えなかった"鬼の本音"を打ち明けられると思ったのであった。
「……俺は鬼だ。鬼としての生き方をしているだけだ……」
「……そう」
「ならば桃姫……俺に、他にどんな生き方があるというのだ……? 教えてくれ……俺は──俺は、鬼ヶ島の鬼としての生き方しか知らぬのだ……」
「…………」
桃姫にとって巌鬼は父・桃太郎を殺害した完全なる仇敵である。しかし、桃姫はそんな巌鬼に与えられた過酷な宿命、その悲惨な窮状を見て言葉が出なかった。
「……あの日、桃太郎が……赤児の俺を、二度刺し貫いてくれていたらならば……ぐっ──こんなにも、苦しむことはなかったろうにな……」
巌鬼は歯噛みしながらそう告げると、悲壮感の漂う鬼の背中を桃姫に向けた。そして、黒い戸を引いて乱暴に開け放つと、巨体を丸めてくぐり抜け、部屋から出ていく。その際、開け放たれた引き戸が閉じられることはなかった。
「……巌鬼……」
桃姫は、鬼ノ城の廊下に繋がる開かれたままの黒い引き戸を見ながら呟くと、ふと、寝台から見える机の上に置かれた皿の上に見事なザクロ石が置かれていることに気づいた。
黒岩を削り出して造られた殺風景なこの部屋には場違いな、淡い桃色をしたそのザクロ石をよく見てみようと桃姫は寝台から立ち上がろうとした。
そして、桃姫が白い足袋を履いた足を冷たい床に下ろしたその時──足の裏にベタリと、何かが付着する感触を桃姫は感じた。
「──……?」
違和感を感じた桃姫は、床についた赤黒い液体を指ですくいあげると、眼前に近づけて見た。
燭台のロウソクに照らされたそれは一見して何かわからなかったが、思い返せば桃姫には見覚えがあった。
「……血──」
桃姫が改めて見回した黒い床には、乾燥しかかった血溜まりが広がっており、乾いた血がこびりついた短刀が落ちていることにも気づいた。
寝台に腰掛けたままの桃姫が呆然と血溜まりを見下ろしていると、左耳の上に挿していたおつるの赤いかんざしがスッ──とすべり落ちて、短刀に当たってカツッ──と甲高い音を立てた。
「──ッ……まさか……おつるちゃん──おつるちゃん、なの……?」
血溜まりの上に並ぶ、血濡れた短刀とおつるの赤いかんざし。桃姫はその光景を目にした瞬間──かつて、燃える堺の都で鬼蝶に言われたおつるは鬼になることを拒み自ら命を絶ったという言葉を桃姫は否応なしに想起させられた。
そして濃桃色の瞳から涙を溢れ出させると、頬を伝って血溜まりの上にこぼしながら口を開いた。
「──おつるちゃんは、もう一人の私なんだ……おつるちゃんも、私も、この世界に絶望して、自害しようとした……でも、私の前には、雉猿狗が現れた……雉猿狗が現れて、刃を止めてくれて、生きていく道が開かれた……」
桃姫は濃桃色の瞳から熱い涙を流しながら声を震わした。
「──でも、おつるちゃんの前には雉猿狗が現れなかった……ただ、深い絶望だけが眼の前を覆い尽くしていたんだ……おつるちゃんは、もう一人の、私なんだ……」
鬼ノ城の黒い部屋の中で、ポタポタ──と血溜まりの中に桃姫の熱い涙が落ち、冷たく凝固していたおつるの血をわずかばかり溶かしていった。
一方その頃──桃姫を黒い部屋に置いて出ていった巌鬼は、玉座の間に戻って黒岩で造られた無骨な玉座に腰掛けた。
「……俺は、俺はいったい、桃姫に何を期待している……」
巌鬼は桃姫と会話した際に、自分が桃姫に助けを求めているかのような言動が、意図せず漏れ出たことに激しく困惑していた。
「……桃姫なんぞに、泣き言を言って何になる──俺は鬼だ。鬼として生まれ、鬼として生きる──鬼の運命からは逃れられんのだ……」
巌鬼は黄色い鬼の目に力を込めると、玉座の左右に伸びる肘置きを鬼の手でグググッ──と爪痕が刻まれる込むほどに強く握りしめた。
「──殺す……殺すしかない」
巌鬼は桃姫を殺す決意を固めると、不意にチリン──という聞き慣れたを耳にした巌鬼は視線を上げた。
「かかか。そうじゃ、おぬしは鬼……天地がひっくり返ろうとも、鬼の運命からは逃れられんのよ──くかかかかかッ!!」
高笑いをする役小角が暗闇の中から〈黄金の錫杖〉を突いて姿を現す。その左右には道満と晴明、二人の陰陽師を引き連れていた。
「……クソジジイに腐れ陰陽師ども──仙台城を襲撃しに行ったと思っていたがな」
巌鬼が三人を睨みつけながら声を発すると、赤い呪符を顔につけた坊主頭の陰陽師、道満が口を開いた。
「それはこちらの台詞だ、悪鬼よ──お前は、なぜここにいる」
「──ふふふ、仙台城から桃色髪の娘をさらってきたのを見ましたよ……あれは、例の桃太郎の娘ですね?」
緑の呪符を顔につけた長髪の陰陽師、晴明が続けて言うと、巌鬼は牙をむき出しにして吼えるようにして答えた。
「キサマらに何の関係があるッ──!! 鬼の中に千年も隠れひそんでいた外道僧の分際でッ──!!」
鬼ヶ島の首領にして、鬼ノ城の城主である温羅巌鬼の大迫力の"鬼の咆哮"を諸に食らった道満と晴明は少しばかり怯むと、変わらず満面の笑みを絶やさない役小角が一歩前に進み出て口を開いた。
「──妻に娶(めと)ろうと思うたのであろう?」
「……ッ──!」
役小角の口から放たれた率直な一言に、巌鬼が大きく動揺した。
「──かかか。図星であったか──似た境遇の桃の娘を妻に娶り、"鬼の子"を成そうとしたのであろう。おぬしと血の繋がりを持つ"家族"を鬼ヶ島に作るために──しかし温羅坊、それは無理な話じゃよ──ほんに、哀れな鬼じゃのう。かかか……!」
「……グ、ググッ……黙れッッ──!! 黙れェッッ──!!」
巌鬼の行動を愚弄して笑う役小角の言葉を受けて、我を忘れんばかりに激昂した巌鬼は左右の腕置きを両手で握り砕いて破壊しながら、黒岩の玉座から勢いよく立ち上がった。
その瞬間──役小角は深淵なる大宇宙を浮かべた瞳をカッ──と大きく見開きながら、巌鬼に告げた。
「──温羅坊。桃太郎を鬼ヶ島に送り、"鬼退治"をさせたのは──わしじゃよ──」