8.マムシの娘、鬼蝶
「──伊達男などと……! 俺の家臣団を焼き殺しておいて、馴れ馴れしく呼ぶな……鬼女(おにおんな)──!!」
政宗は怒りに燃えた独眼を鬼蝶に向けて声を荒げると、鬼蝶はやれやれと首を横に振ってから口を開いた。
「──あら、私のこと覚えてないわけ……? ──安土城まで信長様に謁見しに来たときに、会ったじゃないの──」
鬼蝶の言葉を聞いた政宗は独眼を大きく見開いた──そして、一気に記憶が蘇る。
あれは20年以上前──政宗が伊達家当主を継いだばかりの頃、安土城まで足を運び、天下人・織田信長に謁見をした。
織田家という弱小勢力に生まれながら、一代で天下人となった織田信長の迫力に圧倒されながらも──その隣に立つ、見目麗しい女性の存在に視線を奪われた。
織田信長の正妻──彼女の名は、帰蝶。
「──っ!? まさか……帰蝶殿、なのか──?」
愕然としながら声に漏らした政宗に対して、鬼と成り果てた鬼蝶は、あの頃には絶対に浮かべなかったであろう陰惨な笑みを浮かべながら口を開いた。
「御名答──久しぶりね、伊達男さん……あはははははッッ──!!」
「……なぜ、なぜだ……なぜ、鬼なんぞに堕ちた──!! 帰蝶殿──!!」
政宗が訴えるように告げる言葉は今の鬼蝶にとっては何の意味も成さない言葉であった。
「ふふ、真の絶望を味わったことのないあなたには到底理解し得ない領域よ──鬼に成り果ててでも、生きようとする、この私の気持ちわねェ──」
「おい鬼蝶──昔話をしているところ悪いが、俺は桃姫を連れて鬼ヶ島に帰るぞ」
鬼蝶と政宗の会話をさえぎって巌鬼は低い声を発すると、桃姫に向かってドス、ドスと畳の上を歩き出した。
「──さぁ来い、桃姫。俺と共に鬼ヶ島に来るのだ」
「ッ……ふざけないで。巌鬼……!」
近づきながらそう告げる巌鬼に対して、〈桃源郷〉と〈桃月〉を両手に握りしめた桃姫は拒絶の言葉を発した。
「──私が鬼ヶ島に行くわけない……! 父上を殺した鬼なんかと……!」
「……拒否は受け付けん。キサマは俺と来るのだ──」
「──行かないって言ってるッッ──!!」
桃姫は体勢を低く取ると、妖々剣術の構えを取り、畳を蹴り上げて巌鬼に向かって跳躍した。
「──ならば痛いぞッッ──!!」
巌鬼は吼えながら、黒い大太刀を桃姫に向かって振り下ろすと、桃姫は残影を残しながら素早く横っ飛びして斬撃を回避した。
「──ほう、速いな──!!」
桃姫の成長に目を見張った巌鬼が感心したように声を発すると、桃姫は息もつかせぬ速さで畳を力強く蹴り上げて、跳躍しながら二振りの仏刀の切っ先を重ね合わせた。
「──ヤェェェエエエッッ──!!」
桃太郎譲りの裂帛の声を発しながら、巌鬼の左胸目掛けて突き出された桃姫渾身の一撃──しかし、巌鬼はその巨体に見合わない素早さで瞬時に身を伏せると、桃姫の突き伸ばした銀桃色の刃が巌鬼の髪を切り裂きながら空を切った。
「……ッッ──!?」
「──この10年、鍛えていたのは俺も同じだ──」
身をかがめた巌鬼は宙空を舞う桃姫の体を見上げながらそう告げると、左手で鬼の拳を握りしめ、軽鎧をまとった桃姫の胴体目掛けて素早く打ち込んだ。
「──グ、っハッッ──!!」
桃姫は濃桃色の瞳を大きく見開き、口から激しい嗚咽を漏らした。そして、〈桃源郷〉と〈桃月〉を手放すと、気を失って白目を向いた。
力が抜けた桃姫の体が畳の上に落下しようとすると、すかさず巌鬼の左手がすくいあげ、その体を担ぎ上げる。
「──桃姫様ッッ──!!」
「──あなたの相手は私よ、雉猿狗──!!」
雉猿狗が桃姫に向けて叫ぶと、笑みを浮かべながら声を発した鬼蝶が雉猿狗に向けて眼から熱線を飛ばした。
「……くッ──!!」
雉猿狗はすんでのところで熱線をかわすが、その時には巌鬼に担がれた桃姫が天守閣の崩れた外壁から去ろうとしていた。
「鬼蝶、あとはキサマの好きにしろ──」
「──ありがと、巌ちゃん」
「ふンぬッ──!!」
大太刀を右手で背中に戻し、桃姫を左手で肩に担いだ巌鬼は、掛け声を発しながら五階建ての仙台城の天守閣から飛び降りて難なく地面に着地した。そして、燃える天守閣には鬼蝶のみが残された。
「……桃姫様を鬼ヶ島に連れ去り、どうなさるつもりですか」
雉猿狗が鬼蝶を睨みつけながら言うと、鬼蝶は鼻で笑ってから口を開いた。
「そんなことどうでもいいじゃない──巌ちゃんは、あの"桃色のおもちゃ"が大のお気に入りなの……それより雉猿狗、本当に残念だわ──あの日、私の誘いに乗って鬼ヶ島に来ていたら、きっと今頃私たち、姉妹みたいに"仲良く"できたはずなのにねェ……」
「……こんな状況で、質の悪い冗談を言わないでくださいませ──桃姫様と私が鬼に降るなんて選択肢、取るわけないと知っているでしょうに──」
愚弄する鬼蝶の言葉に対して、雉猿狗は怒りの感情を顕にすると、翡翠色の瞳に浮かぶ黄金の波紋を拡大させ、グググ──と瞳を覆っていくと、両手にバチバチと音を立てる黄金に光り輝く神雷をまとわせた。
「──ふぅん、そう──じゃあ、もう後腐れなく、殺しちゃってもいいってことよね──?」
鬼蝶が赤い唇を裂いてにんまりとした笑みを浮かべると、雉猿狗の両隣に政宗と五郎八姫が素早く移動して、刀の切っ先を鬼蝶に向けて構えた。
「ふふ……伊達男と伊達娘にいったい何が出来るっていうのかしらね……」
鬼蝶は雉猿狗の左右に立つ政宗と五郎八姫の顔を見ながら嘲笑うように告げると、右目からも炎を噴き上げ、燃えるアゲハチョウをその体にまとわせた。
「──今回は手加減なし……最初から本気で行くわよ。覚悟なさい──」
「……ち、父上……!」
「……臆するな、ごろはち。臆すれば敗れるぞ……!」
渦を描きながら舞い飛ぶ赤いアゲハチョウを身にまとい、豪炎を両眼から噴き上げる鬼蝶の異様さを目にした五郎八姫が刀を構えた手を震わせながら声を漏らすと、政宗は眼光鋭く鬼蝶を睨みつけながら五郎八姫に答えて返した。
「──マムシの娘、鬼蝶──いざ、参る──」
静かな声で告げた鬼蝶が、体にまとわせた燃えるアゲハチョウを両手に移動させると、一本の炎の渦を変化させて、一振りの炎の薙刀を作り出し、スッ──と両手で握りしめる。
「……大変なことになった……」
それまで"独眼の龍とハヤブサ"の姿が描かれた金屏風の影に身を隠して状況を見ていた夜狐禅はそう呟きながら立ち上がると、一目散に駆け出して天守閣の崩壊した外壁から屋根瓦の上に立った。
そして夜風を浴びながら天守閣の外で待機していた浮き木綿を呼び寄せると、その背中に転がるように飛び乗った。
「──頭目様……! 桃姫様を助けてください……!」
長い前髪の隙間から紫色の瞳を見開いて叫んだ夜狐禅は、北の森にあるぬらりひょんの館に向けて全速力で浮き木綿を飛ばすのであった。