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納豆タイムリーパー(10)

 終業式を目前に控えた教室は、妙にそわそわとした空気に包まれていた。配られた通知表に目を通す生徒たちの顔には、浮き足だった笑顔と、微かな緊張が混じる。学期末の独特なこの“余白”のような時間を、浩平は窓際の席で静かにやり過ごしていた。カーテン越しに射す陽光が揺れ、隣の席の優花の髪を金色に照らす。彼女は通知表を机に伏せたまま、ぼんやりと外を眺めていた。

「……納豆、食べてない?」

 ふいに彼女が口を開いた。脈絡のない問いかけに、浩平は少し驚きながら返した。

「朝はパン派だっつってたじゃん」

「うん。でも、最近ちょっとだけ気になって。家で混ぜてると、なんか頭がざわざわする」

「……夢、見てる?」

 優花は一瞬だけ目を伏せた。そして、小さく頷く。

「最近、毎晩。知らない街が燃えてて、私は誰かを探してる。でも名前が思い出せない。だけどその人の声だけ、何度も聞こえるの。“混ぜるな”って」

 浩平の胸が軋んだ。時はもう動き出していたはずなのに、彼女の中には、確かに“残滓”が息づいている。霊的な記憶か、脳の深層に刻まれた未解読の痕跡か。それとも、ふたりが共有した無数の“戻された昨日”の名残なのか――理由はもうどうでもよかった。

 彼女の心に、それが残っているという事実が、すべてだった。

「じゃあ、混ぜるのやめたら?」

「やめたよ。でも……手が勝手に動くときがあるの。今日の朝も、一回混ぜちゃった」

「それで?」

「夢の続きを見た。“今度は君が戻ってこい”って、誰かに言われた」

 浩平は咄嗟に言葉が出なかった。その言葉が意味するところを、彼自身、あまりに理解していたからだ。もし、彼女が“戻る側”に選ばれてしまったなら。それは、彼がかつて辿った道をもう一度歩ませることになる。

「ねえ浩平。私、怖いよ」

 優花が不意にぽつりとこぼす。その声は冗談交じりのものではなかった。強気に笑っていた頃の彼女とは違い、今の彼女は“今”の中で懸命に生きている。そしてその“今”がまた、壊れそうになっていることに、気づいてしまった。

 浩平は立ち上がった。

「放課後、寄りたいとこある。つきあってくれない?」

「うん」

 ふたりは連れ立って教室を出た。校舎の外へ出ると、蝉の声がまるで滝のように響き始めていた。舗装された校庭脇の通路を抜けて、ふたりは静かに歩いた。向かった先は、いつか一緒に立った水戸東照宮だった。

 池の前に立ったとき、優花は息を呑んだ。

「……ここ。ここだ」

「覚えてる?」

「わかんない。でも、心がざわつく。ここで、何かを終わらせた気がする」

 浩平はそっと池の縁に手を置いた。澄んだ水面には空の青が映り込み、彼と優花の姿が揺れていた。

「ここで俺たち、“戻る”のをやめたんだ。夢の中ででもいい、君がそう思ってくれたなら、たぶんそれが正しい」

 優花はそっと目を閉じた。涙が流れるほどではなかった。ただ、何かが静かに零れるように見えた。

「じゃあ……もし次に、戻らなきゃいけない日が来たら」

「その時は、俺が君のために混ぜるよ」

 優花は微笑んだ。

「ありがとう。でももう、戻らなくていい気がする。だって、今の方がずっと……ちゃんと笑えてる」

 浩平は頷いた。言葉の代わりに、優花の隣で空を仰いだ。もう巻き戻らない時間、もうやり直せない日々。けれどそれを恐れずに歩いていける未来が、確かに目の前に広がっていた。

 蝉の声が、少しだけ遠のいていった。

 水面に映るふたりの影が、ゆるやかに重なっていた。

(次:11へつづく)

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