納豆タイムリーパー(02)
放課後、駅前の喧騒が夕暮れに染まり始める頃、浩平は水戸東照宮へと足を向けていた。観光客で賑わう日中とは違い、神社の境内はしんと静まり返っていて、赤い鳥居を抜けたあたりから、空気がすうっと冷たくなるような感覚を覚える。
石段を登ると、拝殿の向こうに広がる林の中に、優花の姿が見えた。制服のまま、手には何か紙束のようなものを抱えていて、風にあおられた髪が淡い光の中でゆらゆらと揺れていた。浩平は一歩、石を踏む音を控えめに近づいた。
「遅かったね」
「途中で納豆買い直してたんだよ。朝の残りだと、戻り方が変わるかもしれないし」
「……それ、けっこう大事な感覚かも」
優花は笑わずにそう言って、手に持った紙束を開いた。新聞の切り抜き、家系図の写し、古文書のコピー、そして何よりも“日記”だった。明治時代の達筆な筆跡で、連なるように書かれた数十年分の記録。
「これ、うちの家に伝わってた“黄門さまの私的な記録”。幕末以降の部分はかなり端折られてるけど……どうも、時間の歪みに関する記述が繰り返しある」
「歪み……って言っても、具体的には何?」
「“時の逆行は必ず誰かの記憶を浸食する”って。つまり、戻る回数が増えるほど、“本来の世界”にいた人間の記憶が壊れる。しかも戻った本人の記憶じゃなく、“周囲”の記憶からだって」
浩平は息をのんだ。確かに最近、親友の明とのやり取りの中で、既視感が崩れるような瞬間が増えていた。以前話したはずのことを覚えていなかったり、逆に、話してもいないことを当然のように話題に出されたり。
「じゃあ、このまま戻り続けたら、全部“上書き”されるってことか……?」
「うん。そして最後に起きるのが、“時の番人の顕現”。これは象徴的な意味じゃない。文字通り、“歪みを正す存在”として現れる」
「正すって……どうやって?」
「“時間を整える”。その方法はひとつしかない。“戻した人間”を基点に、時間を切り離すこと」
「切り離すって……まさか」
優花は黙って頷いた。
「ループしてる人間が“消える”ことで、歪みは止まる」
その瞬間、境内の奥でカタンと音がした。浩平が振り向くと、林の影からゆっくりとひとつの人影が現れた。
男子生徒。制服。首からヘッドフォンをぶら下げ、どこか夢見がちな目をした――
「明……!?」
「……やっぱ、ここにいたんだな」
明は笑っていた。その笑顔はいつもと変わらなかったが、どこか陰を落としていた。
「ごめん、浩平。もうちょっと早く気づけばよかった。あの日、あんたが納豆食ってるとき、俺、見てたんだよ。そしたらさ――消えたよな。一瞬」
浩平は声を詰まらせた。
「それで気になって、何日も“観察”した。そしたらわかった。優花も同じように、ある日を“繰り返して”る。それを見た瞬間……俺、もう止められなかった」
「止められないって……お前、まさか」
明はゆっくりと手を挙げて見せた。その掌には、明らかに“誰かの感情”を記録するためのノートがあった。中をめくると、浩平と優花の行動記録、感情、食事、視線の動きまで細かくメモされている。
「……俺、もうすぐ“番人”になるんだ」
「……は?」
明は首を傾げた。
「番人は、“記憶をもっとも保持していた者”がなる。歪みが蓄積すれば、やがてその人間は時間に“取り込まれる”。そして、“記憶に一貫性を保つためだけの存在”になる。俺は、あんたたちを記録して、観察して、理解しようとしすぎた。だから、“選ばれた”んだよ」
優花が小さく呟いた。
「じゃあ、“番人”は敵じゃない……ただの、犠牲者?」
「違うよ。番人は、“道具”だ。意思はあるけど、目的は持てない。時間の流れを正すための、“機能”だから」
その瞬間、林の奥で風が吹き、木々が鳴った。夕暮れの空が急に薄暗くなり、空気が冷たく重くなった。
「もう、近い。タイムリミット。あんたたちが戻れるのは、あと一回。次の納豆で、すべてが決まる」
明がそう告げたとき、浩平の胸の中で何かが決まった。
「なら――戻ってやるよ。最後に。全部、元に戻して、それで終わりにしてやる」
優花は言葉を失ったまま、彼の横顔を見つめていた。浩平の目にはもう、迷いはなかった。ただ、静かな怒りと、ひとつの決意だけがあった。
そして翌朝。
浩平はいつものように、納豆の蓋を静かに剥がし、箸を持つ。
「これで最後だ」
かき混ぜる。ひとつ、ふたつ、みっつ――
世界は、音もなく反転し始めた。
(次:03へつづく)