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影武者高校生(09)

 それから数日間、甲府の街は予想以上に静かだった。市役所も県庁も、影号の騒ぎについて公にはせず、「地盤調査に伴う微振動による一部設備損壊」とだけ発表した。奇跡的に死傷者はゼロだったが、それは匡たちの戦いが街を“守る”ためのものであった証でもあった。報道に取り上げられることもなく、歴史の本に記されることもない――だが確かに存在した戦いだった。

 市立図書館の地下へ続く通路は封鎖され、調査団の出入りが厳しく管理されるようになった。暁号は再び地下の空間へ戻され、完全に電源を落とされた状態で横たわっている。その傍らには、同じく機能を停止した影号もある。ふたつの巨人は今、ただの金属の塊に過ぎない。だが、その内部には匡たちの“記憶”が確かに宿っていた。

 匡は、その静かな空間にひとり立っていた。誰にも見られることなく、誰にも言わずに来た。手には父の遺品である古地図と手帳、そしてあの家紋のペンダント。

「お前も、ここまでたどり着けなかったんだな、親父……でも、俺はやったよ。自分の意志で、“ここ”を見つけて、“守った”」

 静かに呟く声が、誰にも届かぬ鉄と石の空間に吸い込まれていく。ペンダントを胸元で握ると、目の奥にうっすらと涙が滲んだ。だが、それは悔しさでも悲しみでもなかった。ただ、何かが終わったという事実を体に受け入れていくような、ゆるやかな浄化だった。

「……やっぱ、俺は戦うためじゃなくて、歩くためにここにいたのかもしれないな」

 小さな笑いが漏れる。かすかに機械の接続音が返ってくるような錯覚を覚えたが、それ以上の反応はない。匡はそれで十分だと感じた。

 エレベーターで地上へ戻ると、夕焼けが山際に沈む直前だった。甲府の街を囲むように続く稜線は赤く染まり、空の色は金から群青へとゆっくりグラデーションを描いていた。高層ビルの屋上で、咲花が手を振っていた。

「……来たのね」

「別に呼ばれたわけじゃない。ただ、足が向いただけだよ」

「そのくせ、約束の時間ぴったりに来るのがあんたらしいわ」

 ふたりは並んで街を見下ろす。山の向こうに日が沈む直前の一瞬、その景色はすべての色を反射して宝石のような輝きを放った。

「この街は、きっと知らないんだろうね。上空であんな戦いがあったなんて。すぐそこに、歴史が揺れていたなんて」

「知らなくていいさ。知ってほしいとも思わない。俺たちが知ってれば、それでいい」

「……ねえ、匡。次に何かが起きたら、その時はちゃんと“助けて”って言ってよ」

 匡は目を細めた。

「俺、そんな顔してるか?」

「してた。ひとりで全部抱えて、全部やろうとしてる顔。そういうの、放っとけないの。私だけじゃなくて、みんなそうだった。真優も、凌大も、美紅も、開も。だから……」

 咲花が言葉を切ったその瞬間、匡がポケットから小さな紙片を取り出した。

「何それ?」

「父さんの地図の裏に、もう一つ印があったんだ。“山の背に眠る風の記憶、甲斐の北へ続け”って」

「……風の記憶?」

「たぶん、ここで終わりじゃないってことだ」

 咲花はそれを聞いてゆっくりと頷いた。

「じゃあ、次の戦場は“そこ”ね。あんたが行くなら、私も行くよ。だって、“役割”だもの」

 匡はそれに応えなかった。ただ、隣にいるその存在が、自分の中でどれほど大きな支えになっていたかを、言葉にできなかっただけだ。

 街の明かりがひとつ、またひとつ灯っていく。

 次の物語の始まりは、もうすぐそこまで来ている。

(甲府市・了)

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