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―鬼の血を引く者たち―(00)

 岡山駅前のロータリーに、朝焼けがほんのりと射し込む。蒸し暑さがすでに肌を這い、街がゆっくりと目を覚まし始めていた。桃の香りがどこからともなく漂ってくるのは、駅ビルに入った土産店が早々にシャッターを開けていたからか、それとも、かつてこの地に“桃源郷”と呼ばれる楽園が存在していた名残か。

 大空は駅のベンチに腰かけ、スーツケースの取っ手を片手で支えながら、静かに深呼吸をした。端正な顔に感情の色はなく、背筋はまっすぐ。高校の制服に身を包んでいるにもかかわらず、そこにあるのは「生徒」ではなく、「任務を帯びた者」としての佇まいだった。

 傍らに座る少女が、ようやくスマートフォンから顔を上げる。

「ねぇ、大空。遅刻したら、また報告書で私だけ減点されるのわかってる?」

 陽彩の声には、不機嫌さが滲んでいたが、その頬にはまだ眠気の残滓が残っている。長い黒髪を後ろで一つにまとめ、制服のスカートはわずかに乱れている。彼女は遅刻の常習犯だった。それでも現場では必要不可欠な戦力であることを、誰よりも大空自身が理解していた。

「構内放送が“任務時間”を過ぎてない。問題ない」

 短く淡々と返す大空に、陽彩は小さくため息をついた。

「……もう。あんたの“問題ない”が一番信用ならないのよ」

 彼女の視線がホームの先に向かうと、構内にアナウンスが流れる。

『三番線に到着する列車は、関係者専用桃庁特殊編成――通称“桃レール”。一般のお客様は乗車できません』

 駅員がそろそろとバリケードを設置し始めると同時に、異様な列車が滑り込んできた。ピンクと白のツートン、桃の花をあしらったシンボルマーク。だがその内装は、車内すべてに監視カメラと防衛装置が組み込まれた最新鋭の移動基地だった。

「じゃ、行きますか。鬼退治、国家公務員のお仕事へ」

 陽彩が立ち上がり、スカートをパンパンと払う。大空は言葉なく立ち上がり、そのまま無言で彼女のスーツケースを引き受けた。

「……たまには何か言ったら?ありがとうとか、おはようとか」

 陽彩がぽつりとこぼしたが、大空は何も返さず歩き始める。その背を見つめて、陽彩は舌打ち混じりに笑った。

「ったく。ほんと変わらないな、あんた」

 二人が列車へと乗り込むと、すぐに車内の天井からホログラムが起動し、上司の姿が浮かび上がった。

「エージェント大空、陽彩。至急、桃源郷第四領域“吉備中央”にて異常な鬼瘴気の発生が確認された。目標は【A級異種個体:ナタ鬼】。過去にも三度逃走を許している危険対象だ。今回は絶対に取り逃がすな」

 ホログラムの声は厳しい男のものだったが、大空は一度頷いただけで席に座った。陽彩は内ポケットからガムを取り出して口に放り込むと、むず痒そうに髪をかき上げた。

「よりによって、あのナタ鬼か……。面倒なやつ来たわねぇ」

「ナタ鬼は、刃を操る鬼種。接近は避ける。君は支援火器担当だろう」

「そりゃわかってる。でも、現場が吉備中央ってのがまた……」

 陽彩はふと窓の外を見る。岡山駅を出てすぐ、列車は異空間“桃界線”へとシフトした。窓の外にはもう都市の景色はなく、桃色の靄がたゆたう霧の中に、古代の山岳都市を模した幻影の建築群が浮かんでいた。

 列車の揺れが止まり、着いた先は“桃太郎庁・第七出張所”。そこにはすでに仲間たちが待機していた。

 最初に姿を見せたのは翔太。彼は涼しげな顔で背伸びをしながら歩み寄る。

「よっ。よく寝てた?こっちは任務書類ばっかり押しつけられてさ、まったく君たちが来るの遅いから困るよ」

「寝てたのはあんたでしょ。ベッドでイビキ聞こえてたわよ、通話越しに」

「そっか。なら証拠隠滅は失敗だ」

 軽口を交わす間にも、千波が資料ファイルを持って現れた。眼鏡の奥の瞳は鋭く、その口調には熱がこもる。

「吉備中央には既に結界術士が三名送られているけど、鬼瘴の発生源を特定できていないわ。ナタ鬼が潜んでいると思われる“旧鬼ノ城跡”付近の気流が乱れている。おそらく風の霊脈が利用されてる」

「風の霊脈……か。じゃあ、初動は航輝の担当だな」

 大空が言うと、やや緊張気味の表情で航輝が一歩前に出た。

「……初動探索、了解。風脈の乱れを測るには、儀式的な図法を使用するのがいい。……三分、もらえれば測定完了できる」

「五分はやる」

 淡々と返す大空の言葉に、航輝がわずかに息を吐いた。

 最後に現れたのは、千恵だった。彼女はすでに装備を整えており、冷静な目でチーム全体を一瞥する。

「で、今回は“ナタ鬼の捕縛”でしょ?だったら陽彩は火器全開モードでいいとして、翔太と私は防御シールド組むから、突入時は即展開するよ。……チャンスは一瞬だから、逃したら私のせいにしてもらうわけにはいかないからね」

「逃さない」

 短いその一言で、大空は任務開始の意思を表明した。

 岡山の空に、また桃の香りが立ちこめる。桃源郷は、再びその均衡を失いかけていた。鬼と人とが交差するこの地で、かつて語られた昔話が、現代の戦場として息を吹き返す。

 桃太郎はもう昔の童話ではない。鬼退治は今、国家事業となった。

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