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1.一言主と役小角

 ──千年前、大和の葛城山(かつらぎやま)にて、一人山中を疾駆する白い法衣を身にまとった眼光鋭い黒髪の少年がいた。
 彼は父親を知らず、母親は"育てられぬ"とだけ言い残し、飛鳥川沿いの小さな寺に生まれたばかりの赤子の彼を捨て置いた。
 役(えん)という名の年老いた住職は、身寄りなき赤子を小角(おずぬ)と名付けると、拾った日を誕生日として我が子のように育て、子守唄代わりに多種多様なマントラを教え込んだ。
 初めて発した言葉が虚空蔵菩薩のマントラであった小角は、生まれ持っての才覚を遺憾なく発揮し、5歳で初歩的な法術を会得、10歳で高度な法術を扱えるまでに成長していた。
 そして16歳の誕生日を迎えた早朝、"十分に悟りました"と小角が用意したあさげを食す住職に告げ丁寧にお辞儀をしたのち、頭陀袋を背負って寺を飛び出した。

「──神、どこにいるよ……葛城山の女神ッッ──!!」

 寺を飛び出してから3ヶ月後、黒い瞳の奥に好奇心の強い光を宿した小角少年は笑みを浮かべながらそう口にした。
 草履を履いた足でコケと草に覆われた葛城山の山肌を颯爽と駆け抜け、そして太陽が真上に昇る頃、葛城山脈の絶景が広がる山頂に辿り着いた。

「……はぁ……はぁ……はぁ……」

 小角は荒くなった呼吸を整えながら辺りを見渡すと、清水を湧き出す大きな泉を目にして足早に近づいた。
 そして小角は草地の上にひざをついてしゃがみ込むと、頭頂で黒髪を結ったまだ幼く見える自身の顔を水面に映し出してから、泉の中に顔を突っ込んで喉を鳴らしながらごくごくと飲んだ。

「──ふぅ……さぁて、ここいらに仕掛けるとするかな……」

 泉から顔を上げ、顔についた水気を振り払った小角は、周囲の草地を見ながらそう呟くと、背負った頭陀袋を草の上に置いて開き、中から法具を取り出して泉の前に五芒星の陣を描いた。
 そして、その中央に"カサゴの干物"を仕上げとして置くと、小角は立ち上がってから両手で印を結び、五芒星の陣に向かって鬼子母神のマントラを唱えた。

「──オン──ドドマリ──ギャキテイ──ソワカ──」

 随所に梵字が描かれた五芒星の陣は、小角のマントラを聞き受けて紫色に淡く光ると、スッ──とかき消え、一見するとただ草の上に"カサゴの干物"が置いてあるように見えるだけとなった。

「……山の女神は、世間知らずだと聞くが……こんな見え透いた罠に、そう安々とかかるものだろうか……まぁいい……寝て待とう……」

 草の上に不自然に置かれた"カサゴの干物"を見下ろしながら小角はそう呟くと大きなあくびをした。そして、泉から離れて草葉の陰に横になると、半日かけた山登りで疲れていたのかすぐに寝息を立て始めた。
 それから三時間後、"くちゃくちゃ"という咀嚼音が小角の耳に入ると、小角は静かに目を開いた。そして、枕代わりに用いていた頭陀袋から頭を持ち上げ、草葉に身を伏せたまま泉の様子をうかがった。

「…………」

 小角の視線の先──泉の前には大カラスの羽根で織られた黒い羽衣を身にまとった長い黒髪に褐色肌の女の姿があった。
 赤い高下駄を素足に履いたその女は、漆黒の烏天狗の仮面を顔の上方に持ち上げ、両手で持った"カサゴの干物"に一心不乱にむしゃぶりついていた。

「……食っとる──噂通りの、愚かな女神……」

 "女神"の姿を凝視した小角は小さな声でそう呟くと、激しく鼓動し始めた心臓を落ち着かせるために深く息をはいてから立ち上がった。
 そして、足音を立てぬように注意しながらゆっくりと、草の上にしゃがみ込んでカサゴを貪っている女神の背後に向けて接近していった。
 黒い羽衣をまとった女神の背中の左右からは折り畳まれた黒い大翼が飛び出しており、それは決して飾りなどではなく、女神の体の一部であることが、近づくにつれて容易に見て取れた。

「──…………」

 大カラスのそれによく似た黒く艷やかな羽根を豊かに生やした背中の大翼を息を呑んで眺め見た小角は、今相対しているのが"本物の女神"であることを実感しつつ、しかし過剰に緊張しないように、京(みやこ)で聞いた"愚かな女神"と言う言葉を心の中で繰り返した。
 夢中でカサゴに食らいつく女神は、隠された五芒星の陣のちょうど真ん中に居た。そして慎重に女神の背後に立った小角は意を決すと、素早く両手で印を結び、女神に向けてマントラを唱えた。

「──オン──ドドマリ──ギャキテイ──ソワカッッ──!!」
「──っっ──!?」

 鬼気迫る顔つきの小角と驚愕しながら振り返った女神の顔とが交差する。淡い紫光を放つ五芒星の陣が女神を囲むように草地の上に現れると、紫光はその輝きを増しながら縄のように伸び、女神の体を瞬く間に拘束した。

「──ギャアアアッッ──!!」

 カサゴを手落とした女神は叫び、五芒星の陣の上に倒れ込んだ。しかし、紫光する法力の縄はグググ──と女神の体を容赦なく縛り付けていく。
 女神は罠にかかった獣のように激しく咆哮しながらもがくが、法力によって編まれた縄は更にキツくその拘束を強めた。

「暴れるでない。一度かかれば神でも鬼でも抜け出せん──私の得意とする法術、"鬼子母神の封じ縄"だ」

 小角は女神に向かってそう告げると、女神は咄嗟に顔を地面にこすって烏天狗の仮面をずりさげて素顔を隠した。

「……しかし、山の女神は"カサゴの干物"が大好物というのは本当だったんだな……いやなに、京(みやこ)で聞いたのだ。山の女神は醜い顔をしている。それより醜いカサゴの肉を好む、とな──かかか」

 小角は言いながら静かに笑うと、烏天狗の仮面の奥から紫色の瞳で睨みつける女神の前にあぐらをかいて座った。

「葛城山の女神──おぬしだよな、山道を通る帝(みかど)の姿と声を真似て驚かしたというのは──かかか……!」

 小角の言葉を聞いた女神は苦々しげに身をよじったあと仮面の奥から低い声を発した。

「──余を如何ようにする……! 帝の前に引きずり出して、くだらぬ褒美でも得ようと云うのであろう……! 所詮、人の子の考えることなど知れたこと……!」

 小角は女神の発言を聞き受けると、首を横に振ってから口を開いた。

「かかか──いんや、ちがうよ……京でその話を聞いてからな。会ってみたかったのだ、おぬしに。帝を真似て驚かすとは……いやはや、なんとも私好みの余興だなと思うたのだ。かかか」

 小角は陽気に笑うと、カラスを模したクチバシが伸びる黒い仮面で隠された女神の顔を覗き込むように顔を寄せた。

「それに、どれだけ醜い顔をしておるのかと思うたが──なに、癖はあるが私好みの顔ではないか」
「──なっ!?」

 小角の言葉を聞き受けた女神は驚きの声を上げると、仮面をつけた顔を地面に押し付けながら小角から顔をそむけた。

「……隠すな、隠すな。私はもう見てしまったぞ。カサゴをむさぼる葛城山の女神の素顔。かかか……!」
「──これ以上余を辱めるな、人の子……! もう気が済んだであろう! 早急にこの縄をほどけ、痴れ者……!」

 女神は怒りの声を発しながら法力で編まれた封じ縄から逃れようと必死にもがいた。

「まぁ、待て。そう急くなよ。別にからかいに来たわけではない、たずねたいことがあって、わざわざこうして、葛城山を登ってきたのだ」
「──ぐっ……答えれば、この忌々しい縄を解くか……!?」
「ああ……すぐにでも解こう」

 小角は女神の訴えに対して真摯な眼差しで頷きながら答えて返すと、左右の手のひらをあぐらをかいた膝の上にパンと置いて、草の上から顔を持ち上げた女神とその顔を見下ろす自身の視線とを突き合わせた。
 そして、小角は一呼吸ついたあと、自身が抱える悩みをたずねる決心をしてから、ゆっくりと口を開いた。

「……さて、ずばり問おう──"人はなにゆえ生きる"──?」

 小角の問いかけに日の暮れかかった葛城山の山頂を静寂が貫いた。

「私は齢16にして"空華の法"を悟った。空華(くうげ)……すなわち虚空に咲く華──この世とは、実体なき"幻想の花"に過ぎぬという"真理の法"だ──」

 小角は告げながら、茜色に染まっていく大空を虚ろな闇を抱え持つ黒い瞳で見つめた。

「……"空華の法"を見出し、悟りを開いた私は胸がすくような達成感を得た……しかし、それと同時に深い虚無感に陥ったのだ。一切合切、皆空華であるというのに、いったいこの世で何を成すというのか──まったくもって虚しいばかりではないか、虚空に咲く華を眺め、求め、愛でるなどとは……」

 若い小角の口から吐き出される深い虚しさの込められた言葉の数々を草の上に横たわった女神は黙って聞き届けた。

「しかし、寺を出て人の世を見て回れば、そうして人間は誰しもが生きているし、なんら疑念を抱くことなく日々をせわしなく暮らしている……つまるところ私は、"空華の法"を見出したことによって、人間の"埒外"に出てしまったのであろう」

 小角は赤から紫へと転じていく黄昏時の空から顔を下ろすと、紫光する封じ縄に拘束された女神の顔を見やった。

「……なぁ、葛城山の女神よ。私は若くして悟ってしまった……年老いてから悟れば少しは楽だったのだろうが──私はまだ16だ。この先、気の遠くなるような長く空虚な人生が待ち構えているのかと思うと、いっそ今すぐにでも終わらせてしまったほうがいいのか、とすら考えてしまう……なぁ、私はどう生きればいいと思うよ? ──永劫の時を生きる山の女神なら、何かよい考えを持っているんじゃないのか……?」

 小角少年の真剣な訴えは、しかし、葛城山誕生の瞬間から生きている山の女神の大笑いによって返されてしまった。

「──ふっ──ふふふ、はははは……! あーっはははは──!」
「…………」

 草の上に横たわった女神はさぞや愉快そうに星が顔を見せ始めた夜空に向けて大きな笑い声を発すると、小角は黙って眉をひそめた。

「──まったく人の子というは、くくく……そのような些末なことで思い煩い、自らの命を絶とうとまでに悩み苦しむか──はぁ、滑稽でならんな」

 助けを求める人間を突き放すかのような女神の辛辣な言葉を聞き受けた小角は、落胆しながら重いため息をはくと顔を伏せた。女神はそんな小角の鎮痛な顔を見つめながら静かに口を開く。

「──この世が"空華"であることに気づいたのならば──己の花を"咲かせれば"よいではないか──」
「……っ……!!」

 女神が静かにしかし、神妙な声音で発した言葉を聞き受けた小角は、まるで稲妻に直撃したかのような強烈な衝撃が全身に走ると、天啓を得たかのように黒い瞳を大きく見開いた。

「──眺める? 求める? 愛でる? ──違うな、"咲かす"のだ──満開に咲き誇る見事な"大空華(だいくうげ)"を、思う存分盛大に、空虚で退屈なこの世に"花ひらかせて"やればよいのだ」

 漆黒の仮面に隠されていようともわかるいたずらな笑みを浮かべながら告げた女神は、顔を伏せたまま目を見開いて驚嘆する小角にさらに言葉をぶつけた。

「──咲かす空華が見つからぬのならば、人生をかけて探せばよい。人の子の生は短く儚いが、ふっ、安心せい……そなたはまだ若い──探せ、そなたが咲かせたいと心から望む"大空華"をな」

 ぶっきらぼうな物言いながらも人間への慈悲心が込められた女神の言葉を聞いた小角は、悟りによって見失っていた人生の指針を取り戻すと同時に、見開いた双眸から熱い感動の涙を流して膝の上にポツポツと落とした。
 そして心の底から納得がいったことを自分自身で確認するように力強く頷くと、左右の手のひらでひざを叩いてから、すっくと立ち上がった。

「──"空華の法"のなんたるかを理解し、あまつさえその答えまで提示してみせるとは……己の望む"大空華"を咲かせてみせろか──その考え、気に入った」

 女神に向けて憑き物が落ちたような満面の笑顔でそう告げた小角は両手で素早く印を結ぶと、叩き合わせてパンと鳴らし、女神の体を拘束する法力の縄をシュルシュルとほどいてみせた。

「──私の名は役小角……まだ何者でもない、駆け出しの法術師だ──」

 小角はそう言って自己紹介すると、女神に向けて右手を差し伸ばした。女神は伸ばされた右手を見やって苦笑したあと、草の上から体を起こしながらその手を掴んで立ち上がった。
 そして、烏天狗の仮面の奥に光る紫色の瞳で、小角の若々しくもまだあどけなさの残る少年と青年の狭間にある顔を見つめた。
 遮るもの一つない満天の星空が広がる夜空の下で、互いの手を握りあった人と神との視線が深く静かに交差する。

「──余は、葛城山の女神……しかし小角よ──"一言主"の名で呼ぶことを特別に許そう──」

 これが千年前、葛城山の山頂にて若き役小角(えんのおずぬ)と葛城山の女神・一言主(ひとことぬし)が初めて対面した、その日の出来事であった。

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