Chapter 05
次の日も、また次の日も、事あるごとに、翔はまるで専属サンドバッグのように暴力を振るわれた。
ある日翔は耐えきれなくなって、陣内を少し遠くのファミレスに呼び出した。
「おうおうおう。お前誰だ?」
腫れた顔をからかいながら陣内が現れた。
「ちょっとアニキ、笑い事じゃないですよ。オヤジってあんな人やったんですか。なんか下手こいて殴られるんならまだしも、関西弁がキモいからとか、カーブで車が揺れたとか、バックミラーを見る目つきが気に食わないとか、理不尽すぎるんすよ! さすがに千葉のアニキの事思っても、もういつ限界くるかわかりませんわ」
「まぁなー。オヤジは昔からそういう人なんだ。武闘派で、自分でも体張ってたからそれが魅力で付いてくる人らもいたようだけど、敵対組織に対してならわかるけど、身内に対しても武闘派なのはどうなんだろうなって俺もみんなも正直思ってるよ。特に新入りに対しては余計キツいしな。昔なら普通なのかも知んないけど、どう見ても教育の範疇超えてるし、今時そんなんしてなんの意味があんのかよくわかんねぇよな。もう歳だし、引退するまでの辛抱だよ」
「あんなイケイケな七十見た事ないですよ。死ぬまで引退する気ないでしょう!」
「まだ六十後半だ。気持ちはわかるが落ち着け。みんな、オヤジの近くで仕事する人らは通ってきた道なんだ。殴り飽きたらだんだん緩くなってくるよ。まぁそれでもたまに普通に殴ってくるけど」
「千葉のアニキもこんなに殴られてたんすか? それでも体張る組長やからって尊敬してたんですか?」
「まぁ、あの人も元はと言えば札付きのワル、というより最早イカれてたからな。この世界でしか生きられないってわかってたんだろう。実際のところどう思ってたのかは知らないけど、少なくとも受け入れるしかないという思いもあったんじゃねぇかな」
「そうですか……」
久しぶりにまともな会話が出来て多少気は緩んだが、解決には至らなかった。
そのうち翔はストレスを紛らわすために、商品に手を付けるようになった。
コカインにどっぷりハマった。すぐに効き、自分がなんでも出来るスーパーマンのようになった気になれた。
薬物を禁止してるような硬い組ではなかったし、周りにも手を出してる人間はたくさんいた。よっぽどじゃない限り咎められるような事もなかった。
朝目を覚ます時、仕事をこなす時、夜遊びでハメを外す時、つまりほとんど常に愛用した。
ある夜、エトランジェからみかじめ料を回収した帰り、浅井にばったり出会った。
「お、久しぶりやんけ。アロハの奴やろ? 名前ど忘れしてもうた。どうしたその怪我?」
「あ、お久しぶりです! 翔です。戸狩翔。この怪我はちょっと……」
翔は気まずそうに苦笑いして答えた。
「喧嘩か? せっかくやしどっかでコーヒーでも飲もや」
「いいですね。ちょうど近くに席でタバコ吸える喫茶店あるんでそこ行きましょう」
二人はそこから歩いて一分も経たないところにある『無頼庵ぶらいあん』という喫茶店に入った。
今時珍しい黄ばんだ壁に小さめの丸テーブル、渋いブルースがかかっている、六十〜七十代くらいの、その歳にしては珍しく背が高くスリムなおじいちゃんが切り盛りしているレトロな洒落た店だ。
浅井はまるで家のようなボロい柔らかな革張りのソファに腰掛け、翔は向かいのアンティーク調のイスに座った。
アイスコーヒーを二つ頼んで二人はタバコに火をつけた。
「最近はゆっくりタバコ吸える店ないからこういうとこはええな」
「雰囲気もいいっすよね」
軽くどうでもいい雑談を交わした。
「ほんでその怪我は誰と喧嘩したんや、同業か?」
「まぁ、ある意味同業中の同業っすね。喧嘩っていうか一方的なんすけど」
「ほぉ、どこのやつや?」
「いや、うちの組長ですよ」
「えぇ! なんかやらかしたんか」
「いや、それがなんもやらかしてなくて、千葉のアニキが死んでからオヤジの運転をやらしてもうてるんですけどね、最初はこの関西弁が気に食わんから始まって、事あるごとに殴ったり蹴られたりするんすよ。こじつける理由すらない時なんかは、お前なんか喋れよ暗いんだよ言うてボコボコにされる時もあります」
翔は少し恥ずかしそうに、笑い話にするかのように語った。
「とんでもないなぁ。まぁ噂にはよう聞いとったけど、未だにそんなんなんやな」
「別の組でも噂になってるくらいなんですか」
呆れを含んだ笑みを浮かべながら翔は聞いた。
「いや、大江組が独立したんも、厄介者の大江さんを追い出すっていう目的もあったみたいやで。でも大江さんは自分が凄いからや、認められたんやおもてそらメチャクチャやったみたいや。でも俺が千葉のキョーダイと知り合ってから、側近であるあいつから大江さんの悪口とかそういう話も一切聞かんかったから、年取って落ち着いたんかなおもてたけど」
「全然ですわ。自分も運転手やるまでは知らんかったんですけど、身近な人間とか新人に対しては結構ずっとこんな感じらしいです」
翔の表情から、浅井は翔が大江の事を本気で憎んでる事を感じ取った。
「なぁ、お前やからこんな話しすんねんで。誤解せんといてな。てか、もし気い悪くしたらすぐ忘れてもらってかまへんねんけど」
「なんですか?」
「ここやったらちょっとアレやから車行こか。近くに止めたあるから」
「あ、はい」
浅井が奢ってくれ、二人は店を出た。近くに止めていた車に乗り込み浅井は話し出した。
「正直な、大江組はもう終わりや思うで。元々小規模な組で、それでもここまで残っとったんはキョーダイのおかげといっても過言じゃない。元々厄介払いのつもりで、どうにでもなれいう感じで独立させた組やけど、しばらくしてキョーダイが入って、立て直すどころか大江組のシマもどんどん広げて、あいつを慕って組入りする人間も増えて今の地位まで行った。大江組にいる人間は大江組長じゃなくて若頭、千葉雄也という男についていってた奴がほとんどやろ。でもその若頭が死んでもて、肝心の組長もそんな感じやろ。そんな感じやなくてももうあんな歳やしな」
「まぁ言わんとしてる事はわかりますけど、何が言いたいんですか?」
翔は少しムッとしながら聞いた。
「お前組長のタマ取ったらどうや」
突然のストレートな提案に翔は驚いた。
「何言うてるんすか?!」
「ちょっと待て。別の組織のヤクザ同士じゃなくて、ただの男同士として話しよ。ただ殺せ言うてんちゃうで」
「なんすか? ウチの組潰して、森山組のシマ広げたいだけでしょ? それに俺を利用したいだけでしょ? さすがにそんなアホちゃいますよ。俺どうなってまうんすかそんなんしたら」
「そや。はっきり言うてこっちのメリットはそれや。でも、お前の事ももちろん悪いようにはせん。組長死んだらもう大江組も解散なる思う。そしたらお前はウチで面倒見たるし、それなりのポストも用意する。もちろん莫大な報酬もな。今お前がやってるシノギもそのままお前や。近いうちに潰れる組織で、ただ組長が死ぬん待ちながら酷い暴力に耐え続ける毎日なんか嫌やろ。正味めちゃくちゃウィンウィンやと思うけどな」
「たしかに、俺はまだ入ったばっかやし、浅井さんの言う通りアニキについて来ただけで、アニキの事しか心から尊敬してる人もおらんので、今の話聞いて怒るほど組に思い入れもない、むしろオヤジを憎んでるんも事実です。でもさすがにそれははいとは言えませんわ。引き抜きとかポストとか報酬とかも、浅井さんが今思いついて言うてるだけですよね?」
「確かに今思いついたけど、正直な話、ウチで話が行われとるのも事実や。キョーダイが死んだ事で、大江組のシマ、ウチが取んの簡単や。そら俺は義理もあるけど、それはキョーダイに対してであって、大江組に対してではないからな。もし実行すんぞてなっても俺には止められへん。そうなった時お前も巻き込まれるやろう。俺はせっかく同郷やし仲良もなったから、お前とドンパチなんかしたないねん。この話も二人だけの話にしてくれや」
「そうなんですか」
まだ若い翔は酷く混乱した。自分の人生はこれからどうなっていくんだ、どうするのが正解なんだ。神様がいるなら今すぐに答えを教えてくれ。そう思った。
「とりあえず今日はなんか疲れちゃいました。なんかようわからんす」
そう答えるしかなかった。
「まぁそうやんな。すまん。悪かった。とりあえず連絡先だけでも交換しとこうや。この話じゃなくても、たまには飲みに行ったりしようや。気い悪くさせてほんまにすまんかった」
誠心誠意謝る浅井の姿に、翔は怒りも憎しみも湧かなかった。連絡先を交換して、その日そのまま二人は別れた。
——翔の胸の奥には、ざらついた違和感が残った。浅井の言葉が、どんどん現実味を帯びて響いてくる。
「お前の人生、あんな男に仕えたまま潰れてもうてええんか」
「時間の問題や。まだ間に合う。俺はお前を救いたいんや」
でも、翔にはまだ躊躇いがあった。あの組長を本当の親父のように慕っていた人間がいた事実。
——アニキ。
翔が初めて会った尊敬できる大人。そのアニキは、間違いなく組長を信じていた。
「オヤジが言うなら、俺は何も疑わねぇ。それがヤクザの生き方なんだ」
そんな言葉を思い出すたび、翔は思い直した。本当に殺すべきなのか? 本当に悪なのか?
——その答えは、思わぬところで出た。