26.雌獣の勘
「こちらが七ノ湯です。それでは、ごゆっくりどうぞ」
夜狐禅が七ノ湯と書かれているのれんが垂れた扉の前まで来るとそう告げておじぎをした。
そして、去っていく夜狐禅の背中を見送った桃姫が雉猿狗に対して声を上げた。
「びっくりしたよ、突然あんなことするなんて……! ぬらりひょんさんに嫌われたら、私たち館から出ていかなくちゃいけないんだよ……!」
「申し訳ございません……ただ、気をつけたほうがいいです。この館にいるのは私たち以外、すべて妖(あやかし)です──そのことを決して忘れないでくださいませ」
怒気を込めて言う桃姫に雉猿狗は眉根を寄せて静かに言った。
「私は鬼は嫌いだけど……妖怪さんには悪い印象は持ってないんだけどな……」
雉猿狗の忠告を聞いた桃姫はためいきを吐いたあとにそう言った。
「──頭目様、よく見えますか?」
迷路のように館内をうねる隠し通路の先で穴をのぞいているぬらりひょんの背中に夜狐禅が声をかけた。
「ひっ……!? なんじゃ夜狐禅! あっちに行け! わしの邪魔をするな……!」
「……はい、失礼いたしました」
ぬらりひょんは夜狐禅をしっしっと手で追い払うと夜狐禅は表情を変えずに謝った。
「どうなっとる……暗くて、何も見えんぞ……おかしい……この穴は七ノ湯全体が見渡せるように作らせたはずじゃが……」
ぬらりひょんが懸命に穴をのぞくが、露天風呂で明るく見えるはずの七ノ湯が一切見えない状態であった。
「……雉猿狗? 何してたの?」
「いえ、壁に穴が開いてたものですから……桶で塞いでおきました」
露天風呂に浸かった桃姫がたずねると、手ぬぐいを巻いて湯船に入ってきた雉猿狗が答えた。
「穴……?」
「はい──ですが、桃姫様はお気になさらず。温泉を楽しみましょう」
「うん……!」
桃姫と雉猿狗は二人並んで奥州の森の濃厚な空気がもたらす露天風呂を楽しんだ。
そして、湯船を出たあと、二人は夜狐禅の先導によって食堂へと招かれた。
「わぁ……!」
「……この料理はどなたが?」
食台の上には二人分の料理が並べられていた。焼き魚、刺し身、味噌汁、酢の物、麦飯という簡素なものであったが、どれも新鮮で味も栄養も良さそうであった。
桃姫が感嘆の声を上げ、雉猿狗が夜狐禅にたずねると夜狐禅は食堂の脇にあるのれんの先を目線で示した。
「どうぞ、厨房をご覧になってください」
桃姫と雉猿狗が挨拶をしようとのれんの先に顔を出してのぞくと、美味そうにキセルを吸いながら椅子に腰掛けた目付きの悪い大型の化け猫がそこにはいた。
「……あ、あの……お料理、いただきます」
「──っ!? な、なんにゃッ! 勝手においにゃの仕事場をのぞくとは何事にゃッ!」
桃姫が声をかけると、ビビッ──と全身の毛を逆立てた化け猫が椅子から立ち上がり、二本の尻尾を揺らして怒声を上げながら桃姫と雉猿狗に迫ってくる。
「ご、ごめんなさい!」
「失礼しました……!」
桃姫と雉猿狗は慌ててのれんから首をひっこめた。そして、夜狐禅が二人に説明した。
「館の料理を担当していらっしゃる大猫又の猫吉(ねこよし)様です。頭目様の古くからのご友人だそうです。強面(こわもて)ですが、良い御方ですよ」
そう言って夜狐禅はほほ笑んだ。
桃姫と雉猿狗が食台の椅子に座って食事を取っていると、桃姫は視線を感じてちらりと厨房ののれんの方を見た。
「……雉猿狗」
「……はい」
桃姫にうながされて雉猿狗ものれんの方を見る。
「……んにゃッ!」
のれんから顔を出して桃姫と雉猿狗の様子をうかがっていた猫吉が見られていることに気づくと、慌てて厨房に顔を引っ込める瞬間を二人は目撃した。
「ほら……雉猿狗。妖怪さんって別に悪い人たちじゃないんだよ」
「……そうだといいのですが」
桃姫が雉猿狗に同意を求めると雉猿狗は刺し身を食べながら呟くように言った。
「ほっほっほ……猫吉は恥ずかしがり屋だから、困ったもんじゃて」
食堂に入ってきたぬらりひょんが笑いながら二人に声を掛けた。
「どうだね。奥州の魚と米と味噌は。備前出身の二人の舌に合うかね?」
「はい。とても、美味しくて。特にお味噌汁が」
ぬらりひょんの言葉に桃姫は笑顔で返して、空になった味噌汁の椀を見せた。
「ほっほっほ……おかわりがほしいなら遠慮なく猫吉に申し付けるがよい」
「はい……!」
元気よく返事をした桃姫は空になった味噌汁の椀を持って椅子から立ち上がると、のれんの前に立って猫吉に声をかけた。
すると、毛深い猫の手がのれんから伸び、椀を受け取ると、すぐに湯気が昇る味噌汁を満杯にした椀がスッと戻ってきた。
「……ありがとうございます、猫吉さん!」
「……んにゃ……」
桃姫は毛深い猫の手から味噌汁の椀を受け取って食台に戻ってきた。
そして、二人は満足感と共に食事を終えて椅子から立ち上がると桃姫が雉猿狗に向けて言った。
「猫吉さんにお礼を言ってくるね……!」
「はい」
そう言って厨房に向かった桃姫の背中を雉猿狗が見送ると隣に立つぬらりひょんもその姿を見ていた。
「うむうむ。元気が良くて誠にいいことじゃ。さすがは桃太郎の娘」
「……ぬらりひょん様」
「なんじゃね、雉猿狗」
雉猿狗は背の低いぬらりひょんを見下ろす形で声をかけた。
「身寄りのない私たちを館に迎え入れてくれたこと、心の底から感謝しています」
「うむ」
「桃姫様がここまで安らいでいるお顔を見たのは、私も初めてのことです」
「そうか、それはよかった」
雉猿狗の言葉を聞いたぬらりひょんは、白濁した眼をゆるめて満面の笑みを浮かべて頷いた。
「はい。ですが、一つだけお伝えしておかなければならないことがございます」
「なんじゃ。おぬしらは客人ではない身内、家族じゃ。家族に対して隠し事は不要じゃ。わしを父親だと思うて、何でも言うがよい」
ぬらりひょんは雉猿狗の顔を見上げてそう告げると、雉猿狗は冷たい表情で言った。
「それでは、率直に申し上げます。ぬらりひょん様が桃姫様に対して、なにか"良からぬ考え"をお持ちのようならば──その首が奥州の空を飛ぶと考えてください」
「……ッ!?」
雉猿狗のまさかの発言にぬらりひょんは愕然とした。
「……何を言うとる」
「いえ、ただの雌獣(めすじゅう)の勘にございます」
動揺するぬらりひょんに対して雉猿狗は言って返した。
「わしは桃姫を娘同然に考えておる……娘に手を出す父親が、どこにおるか……!」
「──腐るほどおりますよ。現世は腐っておりますから」
ぬらりひょんが声を上げると雉猿狗はぴしゃりと言ってのけた。
「……父親に犯された悲しみのあまり、滝壺に落ちてフナになった少女もいると聞きます」
「わ、わしをそのような外道の親と一緒にするでない……!」
雉猿狗の冷たい目線と言葉にぬらりひょんは白濁した眼を見開いて反論した。
「そうですか。ならばよいのですが……それから……露天風呂の壁に穴が空いておりましたので、夜狐禅様に直してもらうように頼んでおきました」
「……ッ!? ……そ、そうかッ……夜狐禅は器用だ……! すぐに直すじゃろうな……!」
「それでは、部屋に戻らせていただきます」
雉猿狗はそう言うと、厨房から戻ってきた桃姫と共に食堂を出ていった。
「雉猿狗め……! 獣の化身の分際で……このぬらりひょんを脅しおった……! ……けしからん!」
食堂を立ち去る雉猿狗の背中を憎々しげに睨みつけながらぬらりひょんが声を荒げた。
「酸いも甘いも掻き分けてきたこのわしじゃぞ……! なんで桃姫のようなこわっぱに手を出さねばならんのじゃ……!」
ぬらりひょんは大きなハゲ頭に太い血管を走らせながら激昂し続けた。
「わしは父親としてじゃな……! 娘たちが仲良く湯船に浸かっておるところを、ちょっとだけ……! ほんのちょっとだけ、覗こうと思っただけじゃ……! それのなにが悪いかッ!」
いつの間にかぬらりひょんの隣に立っていた夜狐禅がぬらりひょんに対して口を開いた。
「それで頭目様……七ノ湯の穴は直してもよろしいのでしょうか?」
「──直せッ!」
ぬらりひょんの頭に浮かんだ太い血管は、今にもはちきれんばかりであった。
「雉猿狗。最近、館でぬらりひょんさんに会わないんだけど、なんでかわかる?」
「さあ……私のお灸が効いたからではないでしょうか」
それから一週間後、洋風の部屋にて桃姫が雉猿狗にたずねた。
「……おきゅう?」
「あ、いえ。こちらの話です……さあ、勉学を続けましょう」
「勉学かぁ……」
廊下を隔てた部屋の対面には蔵書室があり、そこから役に立ちそうな書物を何冊か雉猿狗が部屋に持ち込んでいた。
「桃姫様には文武両道を志していただきます。幸いなことに、この館には書物が大量に所蔵されておりますので、教育環境としては申し分がないです」
雉猿狗はそう言うと、大きな窓をガラガラッ──と開け放って爽やかで新鮮な空気を部屋の中に取り入れた。
「それに奥州の森の奥深くとあって、空気が澄んでおり、水も清らかで、非常に静かですからね。私も心が落ち着いて、枯渇していた"神力"の回復を感じます」
そう言った雉猿狗は外に向かって目を閉じ、深く呼吸をした。
いつの間にか目には緋色の波紋が戻ってきていた。
「雉猿狗が幸せそうで良かった」
「あはは……私は桃姫様と一緒にいられればそれだけで幸せですよ」
椅子に座って書物が広げられた机に向かう桃姫に雉猿狗がほほえみながら言って返した。
「私も、雉猿狗と一緒で幸せだよ。それに、ここなら鬼も追いかけてこないからもっと幸せ」
「そうですね……桃姫様。この館に腰を据えて、暮らしていきましょう」
「うん……!」
人里離れた奥州の森の奥、青々とした木々に囲まれた広大なぬらりひょんの館に穏やかな太陽の光が優しく降り注いでいた。