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25.ぬらりひょんの館

 黄金色に光り輝く軌跡を描きながら、日ノ本の夜空を北に向かって一直線に飛翔する大きな雷鳥。
 しかし、雉猿狗の神力が体内から失われるにつれて、段々と雷鳥の姿は小さくなっていき、その飛翔速度を落としていった。
 そして、奥州の上空に辿り着いた頃には、もはや翼を広げた雷鳥としての姿は維持できず、雉猿狗と桃姫を包み込む球型の雷光となって鬱蒼とした森の奥深くに墜落するように着陸した。

「──雉猿狗っ……!」
「……桃姫様……ご無事、ですか……」

 桃姫が倒れ伏した雉猿狗の上体を起こして懸命に呼びかけると、黄金が失われ翡翠色の瞳に戻った雉猿狗が力なく告げた。

「私は大丈夫、でも、雉猿狗が……」
「どうやら体内の神力を使い果たしてしまったようで……体がいうことを利きませぬ……」

 そう言った雉猿狗は、桃姫の腕のなかで糸の切れた操り人形のようにがっくりと気を失ってしまった。

「……そんな、奥州まで来たのに……」

 桃姫がそう言いながら上を見ると、木々の隙間から伺える空は夜闇に包まれていた。
 この状態では、朝が来るまで太陽光は得られず、雉猿狗が回復する見込みはない。

「……でも、あるはずなんだ。ここに、この森のどこかに……ぬらりひょんさんの館が──!」

 桃姫は自分に言い聞かせるようにそう言って雉猿狗の体を背負い上げる。そして、鬱蒼とした森の中を慎重に歩き出した。
 目指す宛てなどない。それにどこを見ても同じ景色である。しかし、この森の中に目的の場所がある。遠く日ノ本を旅してきた目的地がある。ただその一心で桃姫は歩みを進めた。
 1時間、2時間……雉猿狗を背負った桃姫がひたすらに森の中を歩き回った挙げ句、ついに森の中を流れる小川の前で力尽きて倒れ込んでしまった。

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 雉猿狗の体に伸し掛かられるような体勢となった桃姫は、地面に顔を押し当てたまま荒い呼吸を繰り返した。
 そして呼吸を整えると、這いずるように前に進み、巻貝の腕飾りがついた右手を伸ばして小川の水に浸した。
 ひんやりと心地よい冷たさが手のひらに伝わり、桃姫は水を一すくいすると口元に運ぶ。

「──その水は、頭目様のお水──」

 桃姫が水を口に含もうとしたその寸前、不意に少年の声が桃姫の耳に届いた。

「……ッ?」

 桃姫がハッとして顔をあげると、小川を挟んだ向こう側に、赤い腰帯に裾の短い黒い着物を着た黒髪長髪の少年が立っていた。

「勝手に飲まれては困ります」

 少年は感情が込められていない声音でそう告げると、桃姫は乾ききった口を開いた。

「あの……私は桃姫といいます」
「…………」
「……ぬらりひょんさんの館を、探しています……」

 桃姫は残された力を振り絞ってそう言うと、朦朧とした瞳を閉じてその場に倒れ伏した。伸ばされた手だけは小川の中に浸されてサーッと流れる清流が桃姫の手を洗った。

「……桃姫、様……」

 紫色の瞳を前髪の隙間から覗かせた少年は呟くようにそう言うと、顔の前に両手を持っていき、パン──と叩き合わせて鳴らした。

「──夜狐変化──」

 そう声に発した少年は、一瞬で見事な毛並みの黒狐に転じると、小川をぴょんと飛び越えて桃姫と雉猿狗を口でくわえて自身の背中に乗せた。
 そして、再び小川を軽々と飛び越えて夜闇に包まれる奥州の森の中へと姿を消していった。

「──う……うう……」

 目を閉じた桃姫が苦悶の表情を浮かべながらうなされるように声を漏らした。

「──桃姫様……」

 雉猿狗が優しく呼びかける声を耳にした桃姫は、ゆっくりと濃桃色の瞳を開いた。
 最初に桃姫の視界に飛び込んだのは、大きな丸いガラス窓から差し込む陽光によって明るく照らされた、見知らぬ西洋風の室内と天井であった。
 次いで、自身が横になっている寝台の脇に置かれた椅子に腰掛けながらほほ笑む雉猿狗の顔を見た。

「……雉猿狗……」
「──桃姫様、おはようございます」

 雉猿狗の顔を見た桃姫は安堵しながら声を漏らすと、雉猿狗は陽光に明るく照らされた美しい顔で穏やかに告げた。

「……ここは、どこ……?」
「──ぬらりひょんの館にございます」

 尋ねた桃姫に対して雉猿狗は答えて返した。そして、雉猿狗の後方にある扉がギィ──と開かれると杖をついた一人の老人が姿を現した。

「──ほほほ……お連れのお嬢さんも、目覚めたかね」

 異様に大きなハゲ頭を持つ小柄な老人は、白濁した両眼を細めて朗らかな笑みを浮かべながらそう告げた。

「……あなたが、ぬらりひょんさん……ですか?」
「──いかにも……わしが奥州妖怪頭目──ぬらりひょんじゃ」

 桃姫の問い掛けに対して老人は杖に身を預けながら名乗りを上げると、桃姫はぬらりひょんの隣に立つ黒髪の少年を見てハッとした。

「……あっ」

 夢か現実かおぼろげだった記憶がフッと呼び覚まされて桃姫は驚きの声を上げた。
 あの夜闇が包む森の中、小川の向こう側に立っていた少年が、今は明るい日差しを全身に浴びながら口を開く。

「夜狐禅(やこぜん)と申します。頭目様の丁稚奉公をしております。桃姫様……以後お見知りおきを」

 礼儀正しくそう言った少年は頭を下げる。少年は並んだぬらりひょんより頭一つばかり背丈が高かった。

「──経緯(いきさつ)はおぬしより先に目覚めた雉猿狗から聞いておるよ。カシャンボがよこした紹介状も読ませてもらった……鬼に追われた日ノ本の旅路、ご苦労じゃったな」

 ぬらりひょんはそう言いながら部屋に入ってきて桃姫のことをねぎらうと、白濁した眼を大きく開いた。

「しておぬし──かの高名な英雄、桃太郎の娘じゃとのこと」
「……父上のこと、知っているんですか?」

 ぬらりひょんの言葉を聞き受けた桃姫が尋ねると、ぬらりひょんは笑いながら口を開いた。

「ほほほ……妖(あやかし)にとって鬼は天敵。奥州妖怪で備前の鬼退治の話を知らぬものはおらんよ」

 白濁した眼で桃姫を凝視したぬらりひょんは感心しながらそう言うと、桃姫が怖ず怖ずと口を開いた。

「あの……私たち、行くところがないんです……もしよろしければ、この館に住まわせては頂けないでしょうか……?」

 桃姫は両手を布団の上で合わせて震える声で懇願するように言った。

「無論──無駄に広いのがこの館の特徴じゃ。好きなだけ居るとよい……ほほほほ」
「……ありがとうございます!!」

 ぬらりひょんの快い返答を受けて、桃姫は目に涙を浮かべながら頭を下げて感謝の言葉を述べた。

「夜狐禅、二人を七ノ湯まで案内してやりなさい。それから、猫吉(ねこよし)に言って食事の用意も。桃太郎の娘とそのお供の化身じゃ──客人ではなく、身内として扱えよ」
「はい、頭目様」

 ぬらりひょんの指示に夜狐禅ははっきりとした口調で返事をした。

「それでは、わしは頭目という立場ゆえ、何かと忙しいのでこれにて失礼しよう……何か問題が起きたならば、この夜狐禅に気軽に言いつけてくだされ」
「ありがとうございます、感謝します」
「お世話になります……!!」

 ぬらりひょんの言葉に雉猿狗と桃姫が頭を下げながら答えた。ぬらりひょんはにんまりとした笑みを浮かべながら杖をついて部屋から出ていくと、雉猿狗が口を開く。

「……ぬらりひょん様は両目を患っているように見受けられましたが……しかし、桃姫様のお顔をしっかりと見ておられました……」

 雉猿狗の呟くような言葉を耳にした夜狐禅が雉猿狗に向けて口を開いた。

「頭目様は、心の眼……"心眼"によって物を見ているのです」
「なるほど……妖術ですか」
「はい」

 雉猿狗が言うと、夜狐禅は頷いて返した。

「夜狐禅……くんも、妖怪なの?」

 桃姫は寝台の上から両足を降ろすと、夜狐禅に尋ねた。

「はい。僕は"夜狐"という種族の、黒狐の妖狐です……お二人を七ノ湯に案内します。ついてきてください」

 夜狐禅はそう言うと部屋を出ていく。二人はその後を追って部屋を出ると赤い敷物が敷かれた長い廊下に出た。

「夜狐禅様。丁稚奉公をしておられると言っておられましたが、それは夜狐の風習か何かですか?」

 雉猿狗は先導して歩き出した夜狐禅の背中に向けて疑問を投げかけた。

「いえ。昔、僕は悪事を働いていたのですが、政宗公のお叱りを受けて反省し、今は頭目様の元で丁稚奉公の身分となったのです」

 振り返らずに淡々と告げる夜狐禅の後頭部を見ながら雉猿狗は訝しみに目を細めた。

「悪事……ですか。とてもそのようなことをする"悪い子"には見受けられませんが、いったいどのような悪事をなさっていたのですか……?」
「この館には部屋が八十八室、温泉が十六湯あります。皆様には部屋から近い七番目の湯、七ノ湯を利用して頂きます」

 夜狐禅は雉猿狗の言葉を無視するように説明して前に進むとグッ──と雉猿狗が夜狐禅の肩を強く掴んだ。

「……雉猿狗様。何か──?」
「──夜狐禅様……今、私の"犬の部分"が、無性にその首筋に噛みつきたくて仕方がないようなのです──」
「……そうですか」

 雉猿狗の衝撃的な告白に夜狐禅は表情一つ変えずに整然と答えて返した。

「雉猿狗……! だめだよ、夜狐禅くんを噛んだら……!」

 桃姫は慌てて雉猿狗の腕をひっぱり、夜狐禅の肩から引き離した。

「すみません……なんとかして、この"衝動"を抑えます。ですが、もう一度だけ聞かせてください──今は本当に"良い子"、なのですよね……?」
「はい。随分と反省しましたから」

 夜狐禅は警戒する雉猿狗の"獣の目"を見て、あっけらかんと答えて返すと、再び赤い敷物が伸びる長廊下を歩き出した。

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