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「もう勘弁してくれ……」 それが、俺の正直な感想だった。

今まで出迎えなどしたことがなかった妻が、屋敷の入り口で俺の帰りを待っていた。
いつもの修道服姿とは打って変わり、貴族夫人らしいデイドレスをまとい、髪を整え、化粧まで施した彼女はまるで別人のようだった。 何か声をかけてもらいたそうにしている彼女の姿を見た瞬間、正直、どっと疲れが押し寄せた。

通常の勤務で気力が残っている日なら、もっと気の利いた言葉をかけることもできただろう。 だが、今日はさすがに限界だった。

今回、隣国への公式訪問に同行することとなった。しかし、俺の本当の任務は外交関係の強化や国際親善の促進ではなく、諜報活動だった。 俺は影の魔力を使い、相手の影を通じて会話を盗み聞きし、情報を収集するという特殊な任務を遂行していた。

およそ20日間の任務を終えて、やっと屋敷に戻って来た。
けれど屋敷では公爵家の執務が待っている。
家令たちは執務を任せられるように優秀なものを揃えたつもりだが、自分が最終的には判断し、サインをしなければならない。屋敷に帰っても休む暇がなかった。

1ヶ月半ほど前、妻が事故に巻き込まれた。能力と記憶を失ってしまったようだ。けれど、妻は治療のため神殿で預かってもらえることになった。回復するまで、屋敷で世話をする必要はないということで少し安心していた。

なのに、まだ完全に元に戻ったわけでもないのに、先に屋敷へ戻ってきたという報告を受けた。面倒ごとが次々と増えて、これから先のことを考えると不安が募るばかりだった。

彼女の素晴らしい点は、夫婦であっても互いに干渉しすぎることなく、対等な関係で自由に仕事ができるところだった。 顔を合わせない日が続いても、不満を口にすることはなく、独立性を尊重する姿が彼女にはあった。
聖女でもあり、激務に愚痴もこぼさない。俺から見たら尊敬できるかっこいい女性だった。

なのに、急になんだこの変化は。
彼女は構って欲しがるような女性ではなかったはずだ。 それなのに、夜会などでは距離感を誤り、俺の体に密着してくる。くだらない話題で時間を浪費する婦人たちと、何も変わらないように思えてしまう。


20日間も屋敷を空けていた。山積みになっているであろう執務のことを考えるだけで気が重かった。それだけでもうんざりしているのに、妻にも気を使わなければならないなんて、とてもじゃないが身が持たない。

俺はステフを適当にあしらって自室へ向かった。
少し睡眠をとれば、気分も落ち着くだろう。

「セバスチャン、日が暮れる前には起こしてくれ。それまでは誰も部屋に近づけるな」

「……承知しました」

セバスチャンは一言返事をしただけで、足早に部屋を出て行った。 普段なら食事や湯あみについて確認するはずだが、今回は何も言わなかった。彼にしては珍しく、職務怠慢のように思えた。


***

夜中に、異変に気が付いた。

執務室でうんざりした気分のまま、書類に目を通していたが、妙だった。こんなに分かりやすく整理された書類を見るのは初めてだ。

特に驚いたのは、手紙への返事だった。頭語や季節の挨拶、本文の導入から内容、結びの挨拶まで完璧に整っていて、あとは俺がサインをするだけでそのまま出せる状態になっていた。

しかも、その文字は明らかに女性の筆跡だ。家令の中に、こんなに丁寧な字を書く者がいただろうか?

さらに、俺が行うべきもの、使用人の雇用、配置、評価、そして給金の管理まで、すべてが完璧に記録されていた。トラブルや不満への対応、調整の報告までもが詳細にまとめられている。しかも、それらが見やすく要約され、さらに今後の方針まで立案されていた。

使用人の教育や訓練の状況などは、セバスチャンに任せていたのだが、ここまで完成度の高い形で仕上がっているとは思いもよらなかった。

結局、明け方近くまでその書類に目を通していた。一体、誰がこんな仕事をやったのだろうか?

執務の補佐をする家令は住み込みではないからもう帰宅している。朝になったらセバスチャンに詳細を尋ねることにして、俺も休むことにした。

3日間の休暇を執務に充てようと考えていたが、これだけ書類が整っていれば作業は随分と楽になるに違いない。

新しい家令でも雇ったのだろうか? そう考えながら、俺はようやくベッドに横になることができた。

***

「なんだって」

俺は思わず声を上げた。

「奥様が執務を手伝ってくださいました。最初は家政を覚えるとおっしゃっていましたが、異常なほど覚えが早く、すぐに他の執務も理解されていました」

あの妻が、執務を?呆然とする俺の中で、困惑と驚きがせめぎ合う。

「ミドル、執務にまでステフを使ったのか。それにしても、彼女にそんなことが本当にできるのか?」

ミドルは長年執務を担当している家令だ。公爵家の事務仕事は彼に任せている。
絞り出すように尋ねる俺に、ミドルは冷静に返した。

「奥様を使ったというよりも、教えてくださいとおっしゃったのです。それで、私はお教えしました」

さらりと言われたその言葉が、いっそう信じられなかった。あの神殿で聖女として過ごしていた妻が、自ら進んで執務を学び始めた?

「奥様は財務管理がお得意です。帳簿の収入と支出を管理し、予算を策定し、必要な資金の確保まで手がけられました」

「算術が得意だったのか、彼女が?」

声を落とし、思わず自分に問いかけるように呟く。金勘定は神殿の務めとは無縁だ。それなのに、そんなことができるとは。

「はい、こちらが奥様が作成された帳簿です」

ミドルが机の上にどさりと置いた帳簿。その量と整然とした記録に、思わず息を呑む。ページをめくるたびに、緻密な計算と洗練された記録が目に飛び込んでくる。

「それだけでなく、奥様の記憶力と応用力は驚異的です。一度教えたことはすぐに暗記され、さらには改善案を提案してくださいました」

ミドルの言葉に耳を傾けながら、信じられない気持ちと、少しばかりの誇らしさが同時に湧き上がる。それを打ち消すように、口からは否定の言葉が漏れた。

「そんな馬鹿な……」

そんな中、セバスチャンが静かに加わった。

「奥様は使用人管理のマニュアルまで作成されました。一度作れば使いまわせるので便利だとおっしゃって」

「それはお前の仕事だろう。なぜ彼女に?」

「奥様がお申し出になられました。おかげで業務の効率化が進み、非常に助かっています」

俺は妻がここまで執務の効率まで考えていたことにただ驚きを隠せなかった。

「さらに奥様は領地運営の勉強もされています」

「なんだと」

差し出された資料を受け取り、目を通す。記録されている内容は驚くほど詳細で、領地運営の方法が体系的にまとめられている。農業や商業の発展から住民生活支援策まで、どれも具体的かつ実行可能な案ばかりだ。

ページをめくる手が止まらない。次第にその内容に夢中になり、気づけば、食事の時間さえ忘れていた。妻が本当にここまでのものを作り上げたのかと思うと、彼女への新たな感情が静かに芽生え始めていた。

「ステフを呼んでくれ……」

疲れた声で命じると、セバスチャンは深々と一礼し、彼女を執務室へ呼びに行った。しかし、しばらくして執務室へやってきたのはメイド長のダリアだった。

「旦那様、申し訳ございません。奥様はただいま外出されています」

「外出?」

思わず聞き返す。ステフが外出?それも今の時間に?不安と疑念が交じる表情で続けて尋ねた。

「ステフが?神殿へ行ったのか?」

彼女が以前の生活を送っていた場所だ。そこぐらいしか行く場所はないだろう。
しかし、ダリアは俺を見据えて、首を横に振った。

「奥様は、カフェへ行かれました」

「か、か……カフェ?」

使用人たちが皆、呆れた様子で俺に視線を向けた。

「旦那様がおっしゃったのですよ?ステフは好きなようにすればよいと」

ダリアの視線は冷たかった。

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