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重厚な公爵家の扉がきしみながら開くと、澄み切った秋の空が目の前に広がった。空気は新鮮だが少し冷たく、皆の緊張を表しているようだった。
旦那様の乗っている黒塗りの馬車が徐々に近づき、使用人たちの間にざわめきが広がった。

「早く、整列するように。奥様、旦那様の目に完璧な姿をお見せください」

執事のセバスチャンが私を先頭に並ばせ、使用人たち一人ひとりをチェックする。

並んだ使用人たちは普段の様子と違い高揚しているようだ。セバスチャンは胸を張り、メイドのベスはエプロンの端をそっと握り締めている。

「奥様、とてもお美しいです」

ダリアが小声で呟き、私は照れくさい気持ちを抑え、優しく微笑んだ。
彼女の言葉は私の緊張を解すためだろう。気遣いが嬉しかった。

あの馬車の中には旦那様が乗っているんだ。
静かに心を落ち着けようと深呼吸をするが、周囲の視線と期待が私に集まって心臓がドキドキしている。

馬車が到着し、扉が開き旦那様がゆっくりと降り立つ。その動作は一分の隙もなく洗練され、深い紺色の外套が風に揺れる姿は威厳に満ちていた。鋭い眼差しと凛然とした佇まいは公爵らしく堂々としていた。背の高い彼は圧倒的な存在感を放っていた。

旦那様の視線が私をとらえた。彼の瞳に映る自分の姿が、美しく見えるようにと願いながら頭を下げた。

「お帰りなさいませ……」

私の声が少し震えたのは、緊張のせいだけではなかった。



……彼の無表情で冷たい視線が私の心臓に針を突き刺したからだった。

私は体が締め付けられるような感覚に襲われた。彼の瞳には、期待していた温かさも、懐かしさも、何一つ映っていなかった。ただ冷たく、無関心な光だけがそこにあった。

「お仕事お疲れさまでした。神殿より二週間前に戻ってまいりました」

震える声でそう告げたものの、返事はなかった。旦那様は私を一瞥しただけで、私がまるでそこにいないかのように目の前を通り過ぎていった。

メイドたちが一生懸命着付けてくれたデイドレスも、朝から湯あみを手伝ってくれた肌も、きれいに化粧を施してくれた顔も彼にはどうでもいいようだった。
私は自分が素通りされたことよりも、何より皆の努力を無下にしてしまったことが、ただつらく苦しかった。

周囲の使用人たちの視線が痛い。彼らの中には、私を気遣うような目を向ける者もいれば、何も言わずに目を伏せる者もいた。

「奥様……」

ベスがそっと声をかけてくれたが、その優しさがかえって涙を誘った。私は必死にそれを堪え、微笑みを作ることで自分を保とうとした。

「大丈夫よ」

そう言ったものの、その言葉が自分自身に向けたものだと気づく。心の中で何度も大丈夫と繰り返しながら、私はその場に立ち尽くしていた。

「セバスチャン、悪いが二日ほど睡眠をとっていない。先に仮眠をとる。そのあと執務室に食事を運んでくれ」

「かしこまりました……旦那様、奥様が神殿よりお戻りになられました」

「ああ、聞いている」

「旦那様……」

「すまないステフ、悪いが先に睡眠をとりたい」

「……承知しました」

私は小さな声で返事をした。
その瞬間、私の中で何かが崩れ落ちていく。まるで心の中にあった温かな灯火が一気に吹き消されたような感覚だ。彼の言葉は刃のように、私の心に傷跡を残した。

リリア様が旦那様の到着を聞きつけたのか、屋敷の奥から駆け寄ってきた。

「レイモンド!お帰りなさい。ずっと待っていたのよ」

リリア様は派手なドレスに身を包み、旦那様の腕に縋りつかんばかりに距離を詰めた。

「すまないリリア、悪いが先に睡眠をとりたい」

リリア様にも私と全く同じ言葉を返した旦那様。その瞬間、私は彼女と同列であるという現実を突きつけられた。

「奥様、旦那様はかなりお疲れのご様子です。睡眠をとられ落ち着いたときにまた話をする時間を持たれた方がよろしいでしょう」

ダリアが私の耳元で小声で告げてきた。

「ありがとう。でも結構よ、私は邪魔なようですから自室に戻りますね」

「奥様!」

メイドたちが私の側へ集まってきた。

「なんだ、騒々しい。ステフ、何か不便なことでもあったか?」

「いいえ、ございません」

「君は今まで通り、好きなように屋敷で過ごしてくれたらいい」

「はい。お出迎えも必要ないようでしたので、いらぬことをしてしまったみたいですね。申し訳ありませんでした」

「疲れているんだ」

それだけの一言。感情の欠片も感じられないその声に、自分がどれほど彼にとって無意味な存在なのかを思い知らされる。

「承知しました。どうぞお休みくださいませ」

私は感情を消した声でそう告げると、その場を離れた。周囲の使用人たちの視線を背中に感じながらも、毅然とした足取りで廊下を進んだ。
彼らの同情が、私の心をさらに重くした。

廊下を歩きながら、悔しさと情けなさで唇を強くかんでいた。これから先、愛されることを願っていた自分が、どれほど愚かだったのか。冷たい現実が、私の心を容赦なく叩きつけてくる。心の奥で滲む痛みを無理やり押し込め、背筋を伸ばしてしっかりと歩いた。

心は乱れていても、外見だけは公爵夫人としての気品を保つ。それが皆を失望させないための最低限の態度で、私がこの立場にいることの責任だと思った。

離れに戻った私は、静けさに包まれた部屋で一人佇んでいた。窓から差し込む柔らかな光は、ただ虚しいだけで気持ちを安らげてはくれなかった。

「何を間違えてしまったんだろう……」

私は独り言のようにつぶやいて目を閉じた。

旦那様の冷たい視線と投げられた言葉が蘇る。私は静かに息を整え頭の中を整理した。

彼が背負っている立場と責任を考えれば、このような態度も仕方がないのかもしれない。私が公爵夫人としての役割を果たすだけでは、本当に彼の信頼を得ることはできないのかもしれない。

「私にできることは何だろう……」

そう自問する。私は公爵夫人としての責務を果たすために、家政や公爵家の務めを学び頑張ってきたつもりだ。
なのに……何を間違えたのだろう。

「もしかして……」

私は心の中でつぶやいた。

脳が急速に情報を整理し、今まで気づかなかった事実が一つの絵となって浮かび上がる。霧が晴れるように、頭の中で点と点がつながり、確信に繋がった。
彼が求めているのは、ただ関わりを持たず、手間のかからない妻なのだ。その冷たい態度や無関心な視線が、その事実をっ物語っていたではないか。

私が記憶を失う前の姿、彼にとって『都合の良い存在』を求めているのだろう。

ならば、公爵夫人として着飾ったり、頼まれもしない家政や執務をこなしたりする必要はなかった。
彼は「好きなようにすればいい」と言っていた。その後には「自分に関わってこなければ」という注釈が付いたはずだ。

静かに周囲を見渡しながら、私は心の奥で決意を固めた。自分自身の新たなスタートを切るために、彼を巻き込む必要はない。記憶を失った今だからこそ、自分の新しい価値を見つけるべきだ。

彼にとって便利な存在でいることに何の未練もないだろう。そうよ、私の未来は私自身で選ぶ。

私は私の尊厳を守る、誰にも影響されず、前を向いて新たな道を進むべきだ。

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