記憶をなくした公爵夫人は仕方がないので開き直る

ステフに「好きに過ごせばいい」と言ったのは他でもない、自分だった。あくまで彼女がこれ以上自分の生活に干渉せず、なるべく関わらないでほしいという意図を込めた言葉だった。

「奥様は旦那様のご命令に従うおつもりです。記憶を失い、右も左も分からぬまま奥様はおひとりで屋敷に戻ってこられました」

「俺は国王に付き添い隣国へ行かなければならなかった。仕方がないだろう」

「きっととても不安だったと思います。神殿でお会いになられたのは旦那様お一人。知る顔は旦那様だけだったのでしょう」

セバスチャンが丁寧な声で続けたその後、ダリアが口を開いた。

「奥様が執務を学び始められたのは、旦那様のためでございます。仕事に追われ、寝る間も惜しむほどお疲れの旦那様を少しでもお助けしたいというお気持ちから、奥様は執務室にこもりきりで家政を学んでおられました」

「そんなこと……彼女に執務をしろなど、俺は頼んだ覚えはない」

反射的に口を突いて出た言葉は、自分でも予想しないものだった。
家令たちの言葉がまるで俺を非難するかのようだったから、思わず苛立ってしまった。

「そうですね。それも奥様はお気づきのようです」

「気づいた……？何に？」

「はい。奥様は何もしない方がいいとお考えになり、旦那様に極力関わらぬよう過ごすことを選ばれたのです。『好きにすればよい』と旦那様がおっしゃったのを受け、『好きにさせていただきます』と仰ったわけです」

確かに「好きにすればよい」と告げたが、それは彼女が何もできないだろうという確信があったからに過ぎなかった。

「執務が手伝えると分かられた以上、今後は奥様に家政をお手伝いいただくのでしょうか？」

「旦那様が『何もしなくていい』と仰ったのに、いまさら『手伝え』と命令されるのですか？」

「誰もそんなことは言っていない！」

俺の声音に、執務室が一瞬で静まった。

「い、いや、お前たちを責めているわけではない。ただ、昨日は疲れていて、ついステフに冷たく当たってしまった。彼女にはちゃんと謝っておくから……それより、カフェってなんだ？誰と行っているんだ？王都のカフェか？」

ダリアは頷いたが、その視線にはまだ冷たさが残っていた。

「今日非番のメイドたちと貴族街のカフェに行ってらっしゃいます。奥様はカフェに行ったことがないそうです」

「行ったことがない？カフェくらいどこにでもあるだろう」

「奥様はカフェどころか、レストランや観劇にも行かれたことがないでしょう」

それを聞いて俺はハッとした。
そうか。彼女はずっと聖女として神殿に詰めていたのだ。確か……10年だ。10年間、ほとんど休みなく、毎日神殿で奉仕をしていた。
他の令嬢のように王都で遊んだことなど一度もなかっただろう。

「そうか、彼女が休暇を楽しんでいるのなら、それでいいだろう。好きにすればいいというのは、そういう意味だったのだからな」

「……ふんっ！」

なんだ、「ふんっ！」とは？だいたい、皆いつの間にステフの味方になったんだ？今まではほとんど彼女と口をきかなかったではないか。

聖女様と話すのは緊張する、などと言っていた使用人たちが、今では彼女と友人のように仲良くしているのか？
公爵夫人ともあろう者が、メイドたちとカフェへ行くだなんて……本来なら友人を誘うのが筋というものだ。貴族は茶会や夜会でお茶を楽しむのが常識。カフェなどという場所は、平民たちが集うところではないか。そんな場所で危険な目にでも遭ったらどうするつもりだ。

彼女が王都に慣れていないことも不安を煽る。たとえ貴族街のカフェであったとしても、変な輩がいないとは限らない。物取りや誘拐事件だって頻繁に起こっているではないか。

「……っ、護衛はついているのだろうな？」

俺は急に心配になってセバスチャンに訊ねた。

「はい。護衛に志願する者があまりに多く、抽選で選びました」

「なんだと？……くそっ！もういい、仕事に戻れ。ただで給料を受け取っているわけではないだろう！」

そうだ。好きにすればいい。これまで働き詰めだった彼女なのだ。カフェでも観劇でも、好きなところに行けばいい。

そう自分に言い聞かせると、俺は彼女が残したという執務の内容を確認するため、机に向かった。

＊＊＊

夕方には、仕事を終えることができた。こんなに早く執務が片付くとは思っていなかった。取っておいた3日間の休みは、本当の意味での休暇になった。

それもこれも、すべてステフのおかげだった。

俺は窓の外に広がる夕焼けを眺めながら、茶の湯気を静かに見つめる。こんな穏やかな時間を持ったのは、一体いつぶりのことだろう。記憶の糸を辿るように、彼女のことが頭をよぎった。

公爵家の夫人の予算を記録した出納帳を手に取り、中身を確認する。結婚して5年、その帳簿の数字はほとんど動いていない。

修道服しか身に纏わず、贅沢など一切しなかった彼女には、宝飾品も必要なかったのだろう。金がかからない夫人。それが彼女の姿だった。

もし夜会に連れて行けば、ドレスや宝石を買いそろえる機会もあっただろう。けれどそんなことは一度もなかった。夜会など彼女は出る暇はなかった。

俺たちの生活は、なんと冷たく味気ないものだったのだろう。

昨日屋敷に戻った時に、彼女が纏っていたデイドレスは、新しく購入したものだったのだろうか？その時、「似合っている」と一言でも言えていれば……。
今さらながら、後悔が胸を刺す。

聖女として神殿にいた時は、夫婦関係もなんとか平穏を保っていた。しかし、いざ彼女が屋敷に戻ってきた今、その歯車はどこか狂ってしまった。

神殿へステフを見舞いに行ったあの日、俺は何を彼女に告げたのだろうか。好きでもなく嫌いでもない、という言葉だったか。確か、夫婦関係は悪くないと口にした気がする。けれども、彼女自身はどう思っていたのだろう。

俺に対して、彼女は何を感じていたのか？心の奥底に眠るその答えを探ると、胸の内にじわりと鈍い痛みが広がった。もしかしたら、彼女には好かれていなかったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎり、言いようのない寂しさが押し寄せてきた。

その思いを振り払うように、俺は呼び鈴を鳴らしてセバスチャンを呼び出した。

「今夜、夕食は食堂で摂る。ステファニーを呼んでくれ。昨日のことを謝りたいし、執務の礼も言いたい」

セバスチャンはすぐに答えた。

「旦那様、本日は食堂で召し上がる件、承知しました。ですが、奥様は今夜夕食を召し上がらないと伺っております」

「……は？」

「カフェでたくさん食べられて来られたそうです。さらに帰りに、王都で人気の肉や野菜を詰めたパイを土産として買ってきてくださいました。それを、ご自分用にもお買い求めになったご様子です。今夜はそれで十分だとおっしゃっております」

「……土産？」

俺の分はないのか？どうして俺にはパイがないのだ？……そんなもやもやした感覚に、思わず肩を落とし、小さな溜息が漏れてしまった。

セバスチャンが執務室から静かに出て行ったのを見届けた俺は、何もできない自分に苛立ち、「……くそっ」と呟いた。そして、乱雑に髪をかき上げながら、自分の感情を持て余していることを感じていた。