4話 命名
思っていた以上に疲労が蓄積されていたらしく……
部屋を借りた後、お風呂に入る気力もなく、私は赤子と一緒に泥のように眠った。
そして、翌朝。
……というよりは、早朝。
「あー! あうううっ、うあ、あーーー!」
赤子の泣き声で目が覚めた。
がばっと跳ね起きると、赤子がものすごく、とんでもなく、すさまじく、烈火のごとく泣いていた。
わーい、元気だ。
よかった!
……なんて、ボケている場合じゃない!
「え? え? ど、どどどっ、どうしたんですか!? な、なんで泣いているのですか!?」
「あーうー!!!」
「そんなに大きな声を出したら、あぁ、ほ、他の方に迷惑が……えとえと、えっと……あっ!? そ、そういうことですか!」
赤子を包むタオルが濡れていた。
粗相をしてしまい、その不快感を訴えていたのだろう。
赤子はしゃべることができず、泣くことしかできない。
だから泣いて訴えるのだ。
元聖女なので、知識だけはある。
ただ、実際にそういう場面に直面したら、どうすればいいかわからなくて……
「え、えっと……タオルを替えれば? いえ、その前に体を綺麗に……あぁ、でも、私もあちらこちら汚れているし、こんな状態で触れていいものか……えっとえっと」
「アリサ? どうしたの?」
「あぁ、ビアンカ!」
泣き声が聞こえたらしく、ビアンカが様子を見に来てくれた。
とてもうろたえていた私にとって、ビアンカは女神さまのように見えた。
「その、この子がおもらしをしてしまったのですが、どうしていいか……私もあちらこちら汚れていますし、それと、替えのタオルもなくて……あぁ、昨日のうちにオムツを買っておけば……」
「はいはい、落ち着いて。おもらしくらいで慌てていたら、この先、やっていけないわよ?」
「あぅ……す、すみません」
「とりあえず、アリサは風呂に入ってきなさい。確かに、汚れたままっていうのはまずいから、まずは綺麗にしないと」
「で、でもこの子が……」
「子供の面倒はあたしが見ておいてあげる。大丈夫。これでも、二児の母だもの」
「そうなんですか?」
意外だ。
見た目は、二十代前半に見えるのだけど、二児の母親だったなんて。
「た、頼もしいです……! 未熟者の半端者で、どうしようもなく至らぬ私に、色々と教えていただけると幸いです」
「なんで、そこまで卑屈になるのさ……とにかく、まずは風呂に入ってきなさい。替えの服も用意しておいたから。ほらほら」
「は、はい。わかりました」
ビアンカに背中を押されて、私は浴室へ。
でも、赤子のことが気になり、何度も何度も後ろを振り返る。
「こら!」
「ひぃ!?」
ビアンカと目が合い、睨まれて、私は慌てて浴室に移動した。
――――――――――
赤子のことはとても気になるのだけど、でも、私が不衛生な状態で妙な病気を持ち込むわけにはいかない。
しっかりと体と髪を洗い、綺麗になったところで風呂を出る。
そして、髪を乾かすのもそこそこに、ビアンカのところへ急ぐ。
「ビアンカ! お風呂に入ってきました!」
「しー」
「あっ!?」
ビアンカの腕の中で赤子が寝ていた。
小さな服を着ている。
おむつも履いているみたいだ。
ビアンカが用意してくれたのだろう。
そこは感謝しかないのだけど……
「……むう」
ビアンカの腕の中で穏やかに眠る赤子を見ていると、なぜか微妙な気持ちになる。
私の腕の中でのみ、穏やかに寝てほしいというか、その笑顔を独占したいというか……って、なにを考えているのか、私は?
「どうぞ」
「あ、はい」
ビアンカから赤子を受け取る。
途端に、胸のモヤモヤが消えた。
なんだったのだろう?
「ところで……無理にとは言わないけど、事情を聞いてもいい? ある程度、知っておいた方が協力しやすいと思うし、なにかあった時に対処しやすいと思うから」
「はい、わかりました」
元聖女で婚約破棄されて追放されました……なんてことは、さすがに言えない。
なので、お風呂に入る間に考えた、ウソの事情を口にする。
私は、とある貴族に仕えていたメイド。
主の愛人だったのだけど、奥方にバレて追放。
その後、あてのない旅を続ける中で赤子を拾った……という内容だ。
ウソを吐く時は、ある程度の真実を織り交ぜておくことがポイント。
そうすると、人は疑うことなく話を信じるという。
「なるほど……大変だったのね。あたしにできることがあれば、なんでも言ってちょうだい。力になるわ」
「ありがとうございます。でも、部屋を貸してもらっただけでも十分ですから。その上、さらに甘えてしまうなんて……」
「いいから甘えなさい。アリサのためでもあるけど、その子のためでもあるのよ?」
「それは……」
そう言われると弱い。
私は母親初心者で、子育てに関してはなにもわからない。
この先、色々な問題が起きるだろう。
そんな時、ビアンカがいてくれれば、どれだけ頼もしいことか。
「あの……甘えてしまったもいいのですか? 色々と良くしてもらっても、私は、ビアンカにどれだけ報いることができるかどうか……」
「恩返しとか気にしないの。理由がなくても誰かを助けることができる……それが、人っていうものでしょ?」
「っ……!」
ビアンカの言葉に、私は泣きそうになってしまう。
カインやエリザの悪意に心を砕かれて、この世界を嫌いになりかけていたのだけど……
でも、それはまだ早い。
私の世界は小さかった。
ビアンカのような人がいる。
それを知ることができて、本当によかったと思う。
「ところで……」
ビアンカが思い出したかのように言う。
「はい?」
「その子、拾ったっていうことは、まだ名前は?」
「あっ」
そういえば、まだ名前をつけていなかった。
「アリサは母親になるんだから、しっかりと考えて、良い名前をつけてあげないと」
「そうですね……えっと、えっと」
考える。
考える。
考える。
「……むううう」
「大丈夫?」
「ものすごく悩ましいです……うぅ、なんて名前にすれば? かっこいい名前に……いえいえ、この子は女の子ですから、可愛い名前にしないと。でも、可愛い? 可愛い名前というのは……はて?」
考えれば考えるほど答えが遠のいていくような気がした。
「ビアンカは、子供達の名前をどのようにして考えたのですか?」
「今のアリサと同じように、たくさん考えて悩んだわ。正しい答えなんてないし、あたしが決めるようなことじゃない。これは、母親である、アリサの初仕事なの」
「母親の……初仕事……」
「時間はあるから、ゆっくり考えるといいわ」
「はい、ありがとうございます」
そして、私は赤子の名前を考えることにした。
――――――――――
それから、赤子の世話をしつつ……
ついでに、自分の面倒も見て……
必死に必死に必死に名前を考えた。
思いついては消して、考え直して。
ああでもない、こうでもないと考えること、三日。
「決めました!」
赤子を掲げて、目を合わせる。
とても綺麗な瞳。
宝石みたいで、清水のように澄んでいて……
この子の心を表しているみたいだ。
「あなたの名前は、シンシアです」
「あーう?」
「今日から、私の娘、シンシア・ライズですよ」
「うぁ、うぅ!」
娘……シンシアが楽しそうな声をこぼす。
喜んでくれていると思いたい。
「ふふっ」
シンシアを見ていたら、自然と笑みがこぼれた。
カインに裏切られて、もう二度と笑うことなんてないと思っていたのだけど……
この子と一緒にいると、温かい気持ちがどんどん溢れ出してくる。
知らなかった自分の一面に気づくことができる。
「この子に巡り合わせてくれた女神さまに、感謝を……」