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あれからさらに二週間が過ぎた。
記憶を失ってから一か月が経とうとしている。

神官長はどうやら私を屋敷に帰す気などさらさらないようだ。記憶は戻る気配がないから、屋敷に帰してくれと願い出たが、それは却下された。
ため息をつきたくなるような言葉が、神官たちの口から次々と飛び出してくる。

『力が戻るかもしれないから、神殿からは出てもらっては困る』
『聖女に会いたいと願う貴族たちが、神殿にはたくさん押し寄せてきているんだ』
『今後のことがまだ決まっていない状態で、屋敷へ帰すなどありえない』
『記憶を失った状態なのだから、どこにいようが同じだろう』

聞いているだけで、頭が痛くなる。
世間には聖女は体調を崩したと発表され、神官たちの管理下に置かれ、外の世界から完全に隔絶された生活を送っている。
けど、聖女が自分の体調を治せないという矛盾に、誰も疑問を抱かないのが不思議だ。
魔力を失った事実も、一部の者だけが知る秘密として隠されていた。

神殿の中だけで過ごす毎日は息苦しく、閉じ込められた生活にうんざりしていた。
こんな窮屈な状態を続けられるほど私は忍耐強くない。

私の仕事は「治療」と言いながらも、実際には読書がほとんどを占めている。図書室や資料室で、宗教に関する文書や魔導書、神殿の収支報告書まで、ありとあらゆる書類を読み続ける毎日だ。そして今は貴族年鑑や王室典範まで暗記している始末。
記憶に何の変化もないので無駄な治療だろう。

神殿に来て間もないころ、事務書類に目を通していて驚いたことがある。それは、聖女としての俸給がしっかりと支払われていると記されていたことだ。
しかし、その金額を見た瞬間、私は思わず眉をひそめた。

私の俸給は、患者からの収益の一割どころか、一パーセントにも届かない額だった。この金額は神殿全体の収入に比べても極端に少なく、不公平に思えた。それに、多額の寄付金がどのように使われているのか不透明で、その管理方法には疑問が残った。

けれど、10年も聖女として働いてきたおかげで、私の名義の口座に少しだけ貯金があると分かり、ほっとした。激務に見合った額とは言い難いけれど、無駄遣いを控えれば数カ月は一人で生活できそうだ。いざという時に使えるお金は持っておきたい。
急に住む場所を失っても、なんとかなるだろうと思えたのは幸いだった。

私は頭の中で計算を重ねながら、今後どう行動していくかを考えた。

「聖女様、大変です!」

修道女の声が響き、部屋の扉が勢いよく開いた。

「いったいどうしたの?」

「だ、第三王子のフィリップ殿下が、神殿へいらっしゃいました!」

えっ、王族が?私は驚いてしまった。普通ならば必ず先触れを出すはずで、こちら側としても、迎える準備をしなくてはならない。事前の知らせもなく、そんな高貴な方が突然現れるなんて考えられない。

「第三王子が神殿に?なぜ……?」

資料室で読んだ文献によれば、第三王子フィリップ殿下は薬師として知られ、魔法薬学の第一人者とされている。しかし、彼が選んだのは魔力を使った治療ではなく、科学に基づく治療の道だった。殿下は病を癒すだけでなく、国民全員が平等に薬を手に入れられるよう尽力していると記されていた。
同時に、彼が魔力を重視する神殿と対立しているとの記述を思い出した。
神殿にとって彼は敵のような存在なのだ。

「どうしましょう」

修道女の焦った様子がこちらにも伝わってくる。
扉の外がざわついて、重い足音が近づいてくる。
何か良くないことが始まるようで、心臓の鼓動が早くなった。

「フィリップ殿下、申し訳ございません。聖女様はまだ準備が整っておりませんので、少しお時間をいただけませんでしょうか……」

修道女が廊下で必死に殿下を止めようとしている。
けれど彼はその言葉には全く動じない。

「かまわない」

たった一言だけなのに、威圧感が半端ない。

「ですが、ここは聖女様の私室ですので……」

修道女の声がか細くなる中、殿下は冷たく命じた。

「私は気にしない。すぐに通せ」

修道女は殿下の力強い態度に圧倒され、何も言えないまま身を縮めた。その場の空気は、殿下の登場によってピリピリと張り詰めた。

そして彼女は黙って脇によって殿下に道を開けた。

フィリップ殿下は、誰もが目を奪われるような特別な容姿と存在感を持っていた。
深い緑色の瞳には力強さが宿り、青みがかった艶やかな黒髪が彼の整った顔立ちをさらに際立たせている。

「失礼するよ」

突然響いた声に、私は慌てて挨拶をした。

「フィリップ殿下におかれましては、ご機嫌麗し……」

けれど、その挨拶は殿下の冷徹な言葉であっさりと遮られた。

「挨拶などどうでもいい。行幸ではなく、個人的に来たのだ。聖女、ステファニー、君が記憶と魔力を失ったと聞いている」

「事実でございます」

私は緊張しながら返事をした。

殿下は無表情のまま堂々と部屋の中央の椅子に向かい、断りもなくドカリと腰を下ろした。
彼の苛立ちが伝わってきて背中に汗が流れる。

「呼ぶまで誰も入室するな」

殿下の低い声が室内に響いた。扉が閉じられ、部屋に二人きりになると、彼からはほのかに薬草の香りが漂ってきた。

殿下は私に向かい淡々と話し始めた。
彼の言葉からは温かさや親しみはまるで感じられなかった。

「こうなった以上、神殿はもはや意味をなさない。聖女の力を失った神殿など無価値だ。これまで甘い蜜を吸い続けてきた君たちが、ついに報いを受ける時が来たのだ」

「はぁ……は?」

私は思わず「はぁ?」と漏らしてしまった。甘い蜜は私は吸っていない、何を言っているのか理解が追い付かなかった。
けれども、彼は私の反応を完全に無視した。

「今後は寄付など集まらないだろう。私腹を肥やし、貴族たちから法外な金を寄付金として集め、国に税も納めない。そして国民の支持を得ている、そんな神殿のやり方がまかり通るとでも思っていたのか」

「はぁ……」

殿下にどう返せばいいのか分からず、ただ曖昧に頷く。

「もはや君は用無しだ。ここから出て行くが良い」

「承知しました」

私は落ち着いて返事をした。

「なに?」

殿下は眉をひそめ、困惑した表情を浮かべる。

「出て行くのですよね?承知しました」

殿下は一瞬固まったが、ゴホンッと咳払いをして態勢を立て直そうとする。

「だから、今まで甘い蜜を吸ってきた君は、もう聖女でないのだから、民からの羨望の眼差しも受けられず、尊敬もされず……」

「かしこまりました」

私は淡々と返事をする。

「何?何か文句でもあるのか!」

殿下の声が少し荒くなる。

「いいえ、承知しました。文句などありません。今すぐここから去ります」

私は冷静に言い切った。

殿下は私の言葉に驚いたようで、少し拍子抜けした表情を浮かべた。眉を上げ、戸惑いがその瞳に映っている。その顔にはどう応えるべきか迷う様子が浮かび上がっていた。

彼の反応が少し可笑しくて、私は思わず表情に出さないようそっと息を吐いた。
殿下が私の名前を「ステファニー」と呼んだところを見ると、どうやら過去の私とは知り合いらしい。
ただ、神殿での聖女としての激務や、その報酬については何も知らないようだった。

殿下は次第に冷静さを取り戻している様子だった。

「君は、そんな簡単に指示に従う人間なのか?」

フィリップ殿下は軽く肩をすくめるようにして、少し呆れた表情を見せた。強硬な態度が和らぎ、彼の威圧感がわずかに薄れた。

「もちろんです。殿下の命令ですから」

冷静に答えたが、内心ではこの会話を妙に面白がっている自分がいた。


殿下は口を開けて何か言おうとしたが、数回動かすだけで結局言葉にはならなかった。その姿を見て、これほど威厳ある方でもこんなふうに迷うことがあるのだと感じ、少しだけ親しみを覚えた。

その時、部屋の外で大きな物音がした。神官たちが血相を変えて部屋に押し入ってくる。

「殿下、王宮には神殿に対する権限がありません。勝手な行為は赦されません」

フィリップ殿下は鋭い視線を護衛に向け、冷たく叱責した。

「無礼だぞ。誰も入れるなと言ったはずだ」

部屋の中は、フィリップ殿下の言葉によって、また険悪な空気になってしまった。
彼の態度と発言が、神殿との溝を感じさた。

廊下では修道女や護衛たちが立ち尽くし、殿下の命令に従うべきか、神官長に報告すべきか、誰も判断できずにいるようだ。

そんな時、扉の向こうが騒がしくなり、護衛たちが騒ぎ出した。

「何が起きている?」

静寂を破るように、低い声が響いた。騒ぎを聞きつけ神官長がやってきたようだ。

護衛が状況を説明しようとしたようだが、それより先に扉は新官庁の手で開けられた。
周囲を見回して状況を把握した神官長は、一瞬で厳しい顔つきになった。

「神官長様お待ち……」

護衛の言葉は殿下の怒声に遮られた。

「誰も入室させるなと言っただろう!」

廊下は静まり返った。神官長は深く息を吸い、部屋に一歩足を進めて低い声で告げた。

「フィリップ殿下、少しお話を伺えますか?」

返事はなく、沈黙だけが続いた。

その静けさが廊下全体に広がり、さらに緊張感を強めていった。

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