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「やぁ……調子はどうだい?」
この端正な顔立ちの紳士は、レイモンド・フォン・シュタイン公爵。私の夫だという。その深い青の瞳はどこか控えめで、金色の髪はわずかに乱れ、疲れの色が感じられる。
「体調はとても良いです」
「そうか……」
私は彼に椅子をすすめた。レイモンドの顔には緊張が浮かんでいて、夫婦だというのに少し距離を感じる。
「えっと……その、私は記憶をなくしていまして。あなたが誰だか分かりません」
「ああ、聞いているよ。ステフがいなくなったと聞いて心配していたんだ。その……48時間後に見つかったらしいね。もっと早く捜し出せればよかったのだが、すまなかったね」
この人の責任ではないだろう。
「いいえ、私こそご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。何があったのやらさっぱり忘れてしまって、私が聖女であったことも、結婚していることも全く記憶にないんです」
「ああ、聖女の力が消えてしまったと聞いた。神殿ではかなり大ごとになっているよ」
彼のどこか他人行儀な言葉遣いは、まるでこの場にいるのが重荷であるかのようだ。
「神官長様も毎日来られて、いろんなことを試してくださいますが、まったく力が戻る気配がないです」
過去の「作業記録」や「業務報告書」を読まされて、神殿に貯蔵してある本や資料、帳簿まで全て読んでいるけれど、思い出す気配は微塵もない。
「そうか」
「原因は過労ではないかと言われています。なので、今は治療というよりは静養している感じです」
「君は少し働き過ぎだったから、休めるときはしっかり休んだ方がいいだろう」
「あの……私はずっと神殿にいますが、屋敷の方へは帰らなくても大丈夫なんでしょうか?」
「神官長から、君の面倒は任せてほしいと言われている。今、君は入院している状態だ」
帰ってこなくても良いという意味かしら。けれど、魔力が使えない私は、聖女としての役目を果たしていない。記憶はないが、ただの健康体の夫人で、帰る場所は公爵邸しかないのだけれど。
レイモンドはベッドの隣まで歩み寄ると、一瞬、私の顔を見つめる。しかし、その視線はすぐに窓の外へと逸れてしまう。何かを気にしているのか、あるいは心の内を探られたくないのか、彼の表情からは読み取れない。
「あの……言いづらいことかもしれませんが、私たちの夫婦仲は良くなかったのでしょうか?」
私は直球で尋ねてみる。彼は困惑したように眉をひそめる。彼は重い空気の中で無理に笑顔を作ろうとしたが、それはぎこちないものだった。
「いや、そうだな……記憶をなくしてしまっているから、覚えていないんだろう。それは仕方がないことだ。ステラと私は仲良くもなく悪くもなかったという感じだろうか」
言葉の最後には微かなため息が混じった。
「私が倒れてから2週間経っています。その間、あなたがお見舞いにいらしたのは、今日を合わせてたったの2回です」
彼は軽く首を振り、その事実を認める。
「ああ……そうだな。すまなかった」
いや、謝ってほしいわけではない。これから私はこの人の屋敷に戻ることになるだろう。そこに住んでいる以上、もし夫婦仲が悪く、私が屋敷で冷遇されているのなら、知っておきたい。
「今後のことを話し合わなければなりません。もしも、夫婦として成り立っていなかった場合や、実は一緒に住んでいなかった場合、あるいはあなたが他の方と愛し合っている場合。例えば第二夫人がいる場合などはどうでしょうか?」
「まさか!第二夫人なんていない。愛人もいないし、浮気もしていない。そもそも、そんな暇なんてない」
困ったわ、もしかしたら怒らせてしまったのかもしれない。
「いえ、たとえそのような方がいらっしゃったとしても、あるいはそうでなかったとしても、正直に言ってどちらでも構いません。理由は単純です。私は今、記憶を失っていますから」
「そうだな……正直に、私たちの関係について話しておいた方がいいだろう」
「はい。どうか正直に教えてください。たとえ私が疎まれていたとしても、『そうだったのですね』と受け止めるほかありませんし、逆のケースも同じです」
嫌われていても好かれていても、どちらでも変わらないという意味だ。
「分かった」
そう言って彼は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「君は聖女で、僕は公爵としての仕事に加えて、国の公安としての職務もある。どちらも非常に忙しく、眠る時間さえ満足に取れないほどだ。だから、君が事故に遭ったと聞いても、すぐに駆けつけることはできなかった」
「ええ」
「そういった状況では、通常の夫婦生活を続けるのは難しかった。けれど、そのような状態が、ある意味お互いにとって楽でもあった。それぞれの生活に干渉し合うことがなかったから、変に気を遣う必要もなかった。君との関係は、そういう意味では悪くなかったと言える」
「それは……記憶をなくす前の私も、その状態が気楽だった、ということでしょうか」
「ああ、こうやって君と話したのは二ヶ月ぶりだ。直接君と夫婦の関係について話をしたことはないが、同じことを考えていたと思う。私たちは王命での結婚だったし、それにステフは子どもを望んでいなかった」
「貴族の妻といえば跡継ぎを産むことが務めだと思いますが、私は子どもを望まなかったんですか?」
「そうだ。子育てに時間を割くことが非常に難しかったし、実際、私も自分の子どもが欲しいと思ったことはなかった。後継者なら、親族の中から優秀な者を選ぶ方が効率的だと考えていた」
「なんだかとても、寂しい距離感のある夫婦関係だったように感じます」
「寂しいというより、むしろ独立したパートナーシップといった方が近いかもしれない」
「なるほど……」
レイモンドは目を閉じ、一瞬の沈黙を挟んだ後に答える。
「君と話ができて良かった」
そう言いながら、彼は身支度を整え始めた。まさか、これで帰るの?このわずかな会話だけで?
壁にかけられた時計は、彼が来てから、たった15分しか経っていなかった。
「ちょ、ちょっと、お待ちいただけますか?今後のことなど、話さなければならないことがたくさんあるのですが」
「すまない。午後から任務があるんだ。もう出なければならない。何かあれば神殿を通じて伝えてもらうようにしておくから、君は静養してくれればいい」
「いえ、その、私は力が戻る気配もありませんし、このままでは神殿にいても邪魔なだけです。聖女としての役目はもう果たせそうにありませんから」
「いや、神殿からは君の力が戻るまで預かり治療すると聞いている。帰る場所がないわけではないし、もし屋敷に戻りたくなったら、いつでも帰ってくればいい。屋敷には君の部屋もちゃんとあるし、公爵夫人として、屋敷の使用人たちを自由に使ってくれて構わない。ただ、全て私にではなく執事に相談してくれ」
「執事にですか……」
「ああ、私が手伝えればいいんだが、どうしても時間が取れない。君の顔を見るのも、数カ月ぶりなくらいだから」
2回しかお見舞いに来なかったという以前の問題だ。同じ屋敷に暮らしているというのに、数ヶ月も顔を合わせていなかったなんて驚きだ。
けれど、独立したパートナーシップと言われれば、これ以上彼に何を聞いても、きっと意味がないのだろう。
「では、最後に聞かせてください。私に屋敷で仕えていた専属の侍女はいましたか?屋敷の者は誰も私の体調を気にかけていないのでしょうか?」
「ああ、侍女はいる。ただ神殿から、記憶や魔力については外部にはまだ伝えるなと言われている。執事や数名の侍従には話してあるから、その者たちに連絡するよう指示しておこう。執事はセバスチャンという男だ。不便なことがあれば彼に頼めば、ほとんどの問題は解決するはずだ」
そう言って夫のレイモンドは、もう一度「行かなければならない」と告げて神殿を去っていった。
結局、彼は私の問題に深入りしたくないという気持ちが透けて見えた。「いつでも帰って来ていい」と言われたが、それはあくまで形式上の言葉で、できるだけ面倒は避けたいのだろうと感じた。
「仕方ないわね、前向きに考えましょう」
彼に助けてもらえるかもしれないという願望は無残に砕かれた。けれど、逆に言えば、自分勝手に何でも好きにできるという意味にも取れる。
夫は公爵だ。金銭面で困ることはないだろう。私は公爵夫人であり、屋敷には自室もある。世話をしてくれる侍女も付き、衣食住に困る心配もない。何もしなくていい上に、好きなように過ごせるなんて、まさに天国ではないか。
神殿にいる今は、ただ時間を持て余すばかり。指示された書物はすべて読み終え、もう手持ち無沙汰だ。記憶や魔力が戻ったなら、そのとき改めて神殿に戻る選択肢もあるだろう。ただ、聞いてきた話や、過去に自分がどれだけ働いていたかを思うと、記憶が戻った後にここへ帰りたいと思えるかは疑問だ。 申し訳ないけれど、こき使われるだけの神殿生活に再び戻るなんてありえないし馬鹿げた話だと思っている。
神殿は私をここで静養させ、早急に記憶と魔力を取り戻そうと必死だ。それでも、今のところ成果は芳しくない。だからこそ、私は静かにここから抜け出す方法を考え始めた。
空は橙色のグラデーションで染まり、病室の窓から差し込む陽の光が部屋全体をオレンジ色に染め上げていた。夕日が、新たな人生の門出をそっと後押ししているようだった。