2
ベッドサイドのカーテンが開かれ、部屋の静寂が破られた。急に明るくなった室内に私は目を細めた。
「良かった!目が覚めたのですね」
神官服を着た中年の男性が私の元へ駆け寄ってきた。ズキズキと頭が痛み、私はこめかみを押さえた。まるで錆びついた機械のように全身が重く、身体を起こすことができない。
「聖女様、意識が戻りましたね。本当に良かったです!」
部屋にいた人たちが一斉に私の方に駆け寄った。服装から神官や修道女だということは分かるけれど、いったい私はなぜここにいるのか分からない。
「私は……」
「ステファニー、いったい何があったんだ!」
「聖女様、大丈夫ですか!」
(聖女様?)
「私は……」
(……だれ?)
ここが何処なのか、自分が誰なのか、私には記憶がなかった。視線を泳がせ、眉間に皺を寄せながら唇を噛みしめた。
「し、神官長を呼んできます!」
苦悶の表情を浮かべる私を見て、修道女が声をあげ部屋の外に走り出た。神官たちが私の肩に触れ、手を握って口々に言葉を発する。
「聖女様から光の魔力を感じないぞ」
「まさか、魔力がなくなった……」
「誰か測定器を持ってこい!」
「魔力はどうした!ステファニー、何があったんだ」
ベッドの周りに集まってきた人たちから焦りが伝わってくる。
「私は、ステファニーというんですか?何も覚えていないのですが……」
私の言葉が、周囲の空気を一瞬で変えた。
「覚えてない?……」
神官の一人は小声で呟きながら頭を抱えた。
***
私は岬にある古い灯台の中で意識不明の状態で発見されたらしい。見つかった時には、行方不明になってからすでに2日が経過していたという。
一週間にわたる様々な検査を受け、多くの医師や魔力を持つ治療師に診察してもらったが、聖女の力が失われた原因は分からなかった。薬師に薬草や高価な薬を試してもらったものの、魔力が戻ることはなかった。外傷がないことから、精神的な要因が影響しているのではないかと言われた。
記憶喪失については、過剰な労働環境や精神的、肉体的に追い詰められたことによる解離性健忘ではないかとの診断を受けた。継続的な耐え難い状況や内面的な葛藤によって発症するものらしい。
治療法としては、できる限りストレスを避け、穏やかに過ごすことが勧められた。栄養と睡眠を十分に摂り、健康的で規則正しい生活を心がけるよう指導された。
その時初めて、自分が聖女として相当に酷使されていたことを知った。
神殿の修道女たちが私の世話をする中で、こう教えてくれた。
「翌朝、ステファニー様を公爵家の屋敷に迎えに行った際、屋敷に戻られていないことが判明したのです」
前日の夕方、私は神殿から公爵家へ向かう途中、貴族街で買い物をするために馬車を降りたのだという。
「めったに街へ出られないので、もしかしたら迷子になったのかと王都中を探しました」
成人した大人が迷子になるなんて、そこまで世間知らずな聖女だったのだろうか?道が分からなければ人に尋ねればいいし、辻馬車に乗れば自分の屋敷の場所くらい伝えられるはずだ。
私らしき人物が岬の方へ歩いて行ったという情報を得て、灯台で発見されるまでに2日かかったという。神殿の馬車を降りてから48時間後だったらしい。
「迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ありません」
「申し訳ないなんて、とんでもないです」
「何も覚えていないから、どうしようもないの……」
私は困ったように眉をひそめた。
「ステファニー様は何の責任もありませんわ!悪くないですから、深く考えないでください。ストレスを与えないようにと、神官長からも厳しく言われているんです」
修道女たちは焦った様子で無理やり笑顔を見せた。
私は神殿にいるけれど、家の者はどうしているんだろう?住んでいる屋敷には帰らなくてもいいのだろうか。もしかして、このステファニーという聖女は、自宅である屋敷の者たちに嫌われていたのか。
「皆さんが手厚く看病してくださって、私の体はもう元気になりました。怪我もしていないし、今はとてもゆったり過ごしています。本当に感謝しています」
ずっとベッドで安静にしていたおかげで体調は整い、気分はスッキリしていた。栄養のある物を食べ、睡眠も十分に取れているので、どちらかと言えば今は元気いっぱいだった。
屋敷の者に嫌われていたとしても、せめて神殿の修道女たちには好かれていたと思いたい。願いを込めて、私は彼女たちに言葉をかけた。
「本当に迷惑をかけるわね」
「いいえ、体調が戻ってよかったです。今までたくさん奉仕をしていらしたので、あまりお話しする機会がありませんでした。聖女様と話せてとても光栄です。今がチャンスだと思って、私たちがしっかりお世話しますね」
少し嬉しそうにそう言う彼女に、ありがとうと告げた。
***
今日もまた神殿の会議室に神官たちが集まり、重要な会議が行われている。 (まぁ、議題は私のことなんだけど)
高価な大理石が敷き詰められた廊下を歩きながら部屋の前を通ると、扉越しに話の内容が聞こえてくる。
「なぜ魔力がなくなったのだ 三年先まで治療の予約が埋まっているというのに、いったいどうすればよいのだ」
「記憶もないのだから、聖女様の身に何があったのか分からない。事故に巻き込まれたのだろうか」
「とにかくなんとしてでも、ステファニー様の魔力を取り戻させなければ。記憶はどうでもいいが、聖女がいなければ神殿が終わってしまう」
「そうなった原因を突き止めなければならないだろう……それには、行方不明だった間に彼女に何があったのか本人が思い出さなければならない」
漏れ聞こえてくるのは、どれも前向きとは言えない内容だった。「なぜだ」「どうしてだ」「どうすればいいんだ」
結局、同じことを繰り返しているだけで進歩がない。
だからと言って、どうしたらいいのかなんて、自分でも分からないし、何があったか覚えないんだから仕方がない。
考えてもどうしようもないことを延々と話し合うのは、無意味だと思う。
自分のことなのに、まるで他人事のように感じながら資料室へと向かった。
資料室には、これまでの奉仕の記録がまとめられた報告書や資料がたくさん並んでいる。少しでも記憶を取り戻してほしいという神官たちの期待に応えるため、それをすべて読むよう言われている。
(まぁ、何をしても、結局思い出せないのだけれど)
不思議なことに、読んだ物はすべて頭の中に入ってくる。記憶を失い、真っ白になった脳は、まるでスポンジのように情報を吸収していった。
例えば『5年前の5月3日。ラトビスタ侯爵の虫歯を治療し、3万ゴールドの寄付を受け取った』
また『昨年の2月5日の治療報告書には、感染症の治療薬が出回っているものの、偽物が多いため、高位貴族はすべて聖女の治療を受けた』などだ。
目に入った内容は一言一句違わず暗記してしまう。これは記憶をなくした代わりに新たに備わった能力なのかもしれない。でも、暗記能力があるからといって、自分には何の得にもならないから、この力は無駄能力だと感じた。
資料を読んであらためて確認できたことは、自分が非常に過酷な労働環境にいたという事実。これまで聖女として行ってきた奉仕は膨大な量で、多い日には一日に10人以上もの患者を治療していた。それを、365日、一日も休むことなく続けていたのだ。
ざっと計算すると、年間で3650人、10年間で36500人を治療していることになる。
そんなに働いていれば、記憶を失いたいと思ってしまうのも無理はないと感じた。
少し肩が凝ったなと思った昼頃、修道女が食事の準備ができたと知らせに来てくれた。彼女は私の疑問に何でも答えてくれる親切な修道女だ。
「ステファニー様、午後に公爵様がお見舞いにいらっしゃいます。もしかしたら何か思い出すかもしれませんわ」
「そうなのね……」
先日彼女たちに聞いた話では、どうやら私は結婚しているらしい。夫は公爵であり、城での職務もあるという。自分が結婚していたことにも驚いたが、私がいなくなってから家族が一度も会いに来ていないことに、もっとびっくりした。
夫は私が意識を失っている間に一度様子を見に来たらしいが、意識が戻ってからは一度も神殿に訪れていない。だから、今回が初めて彼に会う機会となる。
「私がいなくなってから2週間も経っているのよね。今日が初対面だなんて、本当に夫婦だったのかしら」
仲の良い夫婦なら、妻を心配して毎日見舞いに来るはずだ。それなのに、公爵邸の従者も誰一人として見舞いに来ていない。それに私の友人も、両親も訪れることはなかった。
「私はきっと、家族との関係が希薄で、友人もいない寂しい聖女だったのね」
そう呟くと、修道女たちは必死に首を横に振った。
「いいえ、聖女様は誰からも尊敬される素晴らしい方でした。神官長が、ステファニー様の状態を外部に知られてはならないと言っていますから」
「みんなは、私が記憶喪失なのも魔力を失ったのも知らないってことなのね?」
「騒ぎになることを考えて、今は伏せておくらしいです。元に戻るかもしれませんし」
「けれど、こんなに家を空けていたら、友人や家族なら心配するわよね?」
「ステファニー様は奉仕が忙しすぎて、他者と個人的な交流ができなかっただけです。それに……」
「それに?」
「こう、なんというか……聖女様は崇高すぎて近寄りがたい印象がありました。でも、今のステファニー様はとても話しやすいです。こんなに言葉を交わしたのは初めてで、私たちはとても光栄に感じています」
「聖女様の状態が安定するまでは神官長の指示で、神殿への立ち入りが制限されていました。民衆が混乱することや、信徒たちが押し寄せてしまうことを防ぐためです」
とはいえ、身内まで完全にシャットアウトする必要があったのか。素直に思ったことを聞いてみる。
「もしかして、私は夫に嫌われているのかしら?」
「いいえ!そんなことはありませんわ!仲が悪いとか、揉めているという噂は一切ありませんでした」
「仲が良いという噂もなかったのよね?」
「公爵様は大変忙しい仕事をしてらっしゃいます。ステファニー様も、奉仕されてますから、一緒にいる時間がなかっただけで険悪だとかはないです」
「お二人とも全力で役割を果たしていた証でもあります」
「……5年も?時間が取れなかったのかしら」
「……ご夫婦のことは、神殿では分かりませんので、なんとも……」
彼女たちが言いづらそうに返事をする様子に、私は苦笑した。まぁ、記憶がないのだから、もし険悪な夫婦関係だったとしても覚えていないのでどうしようもないわね。
「ステファニー様は神殿にはなくてはならない存在で、皆から必要とされています。聖女様なんですから」
私の魔力が消えて「聖女様」でなくなれば、必要とされなくなるのよね。人々を治療せず、癒せないなら、ここにずっといる訳にはいかないわ。
それでも私の世話をしてくれている彼女たちに、心から感謝している。彼女たちが誠心誠意尽くし、優しく接してくれていることが、ひしひしと伝わってくる。無駄になるかもしれないのに、それでも私のために尽くしてくれるなんて。本当にありがたい。
その思いを込めて、私は静かに微笑んだ。
「みんな、ありがとう」
「ステファニー様が、笑った……」
驚いたように目を丸くした修道女たちは、涙を浮かべていた。
……私って、今まで笑顔を見せたことがなかったのかしら?不思議そうな表情を浮かべる私に、一人の修道女がそっと手を握った。
「大丈夫です。私たちは、ステファニー様のおそばにいます」
彼女たちの温もりが、心にじんわりと染みわたった。
ここで目覚めた瞬間から、私の世界は大きく変わった。
魔力を失った私に失望の色を隠せない神官たち。
彼らの焦りを感じながら、力のない聖女として生きるべきなのか否か。
私は新しい現実と向き合う覚悟を静かに決めていた。