記憶をなくした公爵夫人は仕方がないので開き直る

その灯台は海辺の絶壁にぽつりと佇んでいた。以前は荒波に立ち向かう船乗りたちにとって命を繋ぐ光を放っていたが、何十年も放置されたその姿にはかつての栄光の影もない。

苔むした石壁はひび割れ、外装は剥がれ落ちている。頂上にあるランタン室の窓はほとんど割れ、風にさらされてきた木製の扉がわずかに開いてはギシリと鳴った。

公爵夫人ステファニー・シュタインは灯台の最上階から無限に広がる波の連なりを見ていた。ガラスのない窓から強い海風が吹き込み、彼女の長い銀髪を揺らした。

ステファニーは灯台の窓枠に手をかけると、両腕に力を込めて窓の外に身を乗り出した。上半身が浮き、足の裏が石の床から離れる。

その瞬間、背中越しに低く響く男の声が聞こえた。

「天気は良く海は凪いでいるが……今夜は時化(しけ)だな」

ハッとしてステファニーは後ろを振り返る。腕の力が抜けて浮いた足はゆっくりと元の床面に降りた。

彼女の後ろには背の低いずんぐりとした男が立っていた。

「飛び降りるのかい？」

「あなたは……誰」

「俺は、灯台守さ」

喉にかかったような低い声で男が答えた。その男は薄汚れた麻布のシャツとズボンを身に着け、鼠色の頑丈に作られたコートを羽織っている。見た目は確かに灯台守だ。

（……ここは忘れられた灯台、人は誰も来ないはずだ）ステファニーは訝しげに眉根を寄せた。

「この灯台に灯りを灯すの？」

「あんたはここから飛び降りて死ぬのかい？」

男はステファニーの言葉を聞かず、質問をした。

「死なないわよ……」

灯台守はステファニーの隣まで歩いてくると、窓の下を見下ろし呟いた。

「まぁ、ここから落ちたって死にゃあしないな。大怪我をして、ずっと不自由な生活をしなくちゃいけねぇだけさ」

男のあごを覆っている長い髭が口元で揺れた。ステファニーは諦めのため息を吐いた。

本気で死ぬつもりはなかったが、この景色を見ていると自由になりたいという強い衝動に駆られた。彼女の疲れ果てた心は「死んでもいいか」と思うほど疲れ切っていた。

ステファニーはポケットからチューリップの刺繍がしてある白いハンカチを取り出し、額の汗をぬぐった。いつの間にか汗が流れていたようだ。

窓の外では波の砕ける音とカモメの甲高い鳴き声が潮風に乗って響いていた。

＊＊＊

しばらくすると、いつの間にかステファニーは、灯台守に誰にも言えない心の内を話していた。

伯爵家の長女として生まれたステファニーは、一般的な貴族令嬢だった。13歳の頃、彼女は突然光の魔力に目覚めた。

手から放たれる光はどんな病も瞬時に癒すことができ、その威力は過去に類を見ないほど強大だった。誰もが敬意を込めてステファニーを「聖女様」と呼び、彼女は国民の希望の象徴となっていった。

毎日人々の病や傷を癒し、命を救うことは聖女としての責務だった。それは善行であり正しい行為だから、どれだけ大変でも逃げてはいけなかった。毎日繰り返されるその重圧に、ステファニーの体は疲れ果て、心は悲鳴を上げていた。

人々はステファニーを聖女様と崇めたが、平民や貧しい人々にはその力は使われなかった。気がつけば、神官たちが患者を選び、神殿に高額の寄付ができる患者だけを治療していた。

平等とはいったい何なのだろう。ステファニーは何年も悩み、自分はどうするべきかを考えた。

彼女の上司である神官は彼女に告げた。

『貧しい者であれ裕福な者であれ、病人は同じだろう？貴族だからといって治療しないわけにはいくまい』

『では、同じように恵まれない人々にも治療を施します』

『できるのか？そんな大人数の患者を癒すことが可能ならやればよい』

神官が言うことはもっともで、ステファニー一人の力で国民すべてを救うことはできない。誰を救うかを決めるのは自分の仕事ではなかった。

強力な聖女の魔力はとても不平等な力だった。

神殿は金のために聖女の力を使っていて、ステファニーは神官たちが私腹を肥やすための金の卵を産む鵞鳥だった。

彼女は悩み苦しみ、いつしか生きることに希望を持てなくなっていた。

魔力は連続して使えるわけではなく、力を使えばその分体に負担がかかる。力を使うには体力も精神力も必要で、大きな治癒を終えたら数時間は疲労で動けなくなる。力が弱くなると時間を置き、魔力が戻ればまたすぐに次の患者を治療する。
その繰り返しは、まるで終わりの見えない長いトンネルを歩いているようだった。

「一日の奉仕を終えると、疲れ果てた体は動かず、目を開けることさえできなくなるほど消耗しきるの。なんとか馬車に乗り込み屋敷に帰り、翌日の奉仕のために無理やり食事を詰め込んでベッドに倒れ込む毎日だわ」

「あんたは13歳からずっと聖女として、神殿にこき使われていたってことか？」

彼は驚いたように眉を上げる。

「そうね……この10年間、それが私の仕事だった。『奉仕』と言って聖女の責務よ。この力がある以上、力を使うことは当たり前で、私が力を使わなければ、それは罪だったわ」

「聖女は人を助けて当然ってのが世の中の考えだな。治療は善い行いなんだから、拒否すればそれは悪になるんだな」

彼女はゆっくりと頷いた。

嬉しい時も悲しい時も、どんなに辛くても、彼女は聖女でいなくてはならなかった。いつしかステファニーは感情が表に出なくなって、笑えなくなり、泣くことも忘れてしまった。


＊＊＊

灯台守はランタン室のドアを開け、灯火台に油を注ぐ作業を始めた。

「この灯台は今でも使用されているのね。知らなかったわ」

ステファニーが独り言のように呟くと、灯台守がそれに答える。

「今日は夜から嵐になる。船が迷わないよう、俺は海の道を照らすのさ」

彼の手が灯火台に触れると、埃や錆が一瞬でなくなり、機材は輝き出していく。とても不思議な光景だった。(嵐が来る日だけこの灯台は使われるのかもしれない)ステファニーはそう考えながら彼の作業を見ていた。

「俺は長い間灯台守をしている。だけどできることはそれだけじゃねぇんだ」

「……できること？」

「あんたは光の魔法が使える。同じように俺も魔法が使えるんだ」

「どんな魔法？」

「うむ、どんな魔法か知りたいか？それなら何か望みを言ってみな、叶えてやるさ」

灯台守はニヤリと笑った。(彼も私と同じように魔力があるのだろうか？)ステファニーは少し考えてから試しにこう言った。

「何でも望みを叶えてくれるのなら、私の聖女の力をなくしてほしいわ」

「ハハハッ、それくらいならお安い御用さ」

彼は笑ってそう返事をしたが、灯火の準備を黙々としているだけで、何も行動は起こさない。
(きっと灯台守は冗談で『魔法が使える』と言ったのね)


この世界にはステファニーのように魔力を持つ者が存在する。魔力の保持者は貴族に多く見られるが、平民にはほとんどいない。能力の質や強さは個々によって異なる。ステファニーほどの魔力量を持つ者は、非常に希少でめったに出会えるものではない。

ステファニーは、本気にしていないというニュアンスを漂わせながら話を続けた。

「私に光の魔力がなくなったら……大変なことになるわね。国王陛下も巻き込んで、国中が大騒ぎする」

「まぁ、世間が大騒ぎになろうが、俺の知ったこっちゃない」

「私が皆から責められてしまうわね。自分が当事者でも、騒動に巻き込まれるのは面倒だわね」

「それならいっそ、記憶もなくせばいい」

「記憶？」

「ああ。記憶喪失ってやつさ。自分が聖女だったってこともすっかり忘れてしまえば、面倒なことに巻き込まれても、自分には意味が分からないからいいんじゃないか？」

「なるほど、それはそうかもしれない。罪悪感もないし、責任も何もかも忘れられるならある意味凄いわ」

「だけど、家族や友人のことも、その思い出も、みんな忘れちまうぞ」

「そうね……別に問題ないわ」

ステファニーには友人もおらず、忘れて困るような記憶もなかった。 彼女が光の魔力を得て以来、全ての友人が彼女のもとを去っていった。聖女とは神のような存在で、崇敬と畏敬を一身に集める対象だ。普通の人間には近寄ることができないと思われている。

だからといって、誰かに冷たくされたり、無視されたりしていたわけではない。
ただ人々は「恐れ多い」と感じ、謙遜の壁を彼女との間に築いて距離をとった。

「あんた、家族は？結婚はしてないのか？」

ステファニーは結婚していた。
聖女の血を受け継ぐ子を得るため、国王は王命を以て、レイモンド・フォン・シュタイン公爵との政略結婚を命じた。
彼は国王陛下の叔母の孫で、王族の血を引く人物だった。王家は聖女の力を血筋に取り込みたかったのだ。

「結婚して5年になるけど子どもはいない、私たちの間に愛はないわ。お互い、王命での結婚だったし、彼は聖女である私のために無理やり夫になったようなものよ」

「貴族様なら、そんな政略結婚も当たり前か」

「だから、夫との思い出はそれほど重要じゃないの」

父親のシュタイン公爵が亡くなり、その跡を夫レイモンドが継ぎ、新たな公爵となった。爵位を継ぐ前から、彼は自身の能力である影の魔力を使い、国の公安調査活動を任されていた。レイモンドの任務はまさに国家の正義を守るための影の戦いで、公安として王国の平和を支える重要な役割を果たしていた。

公爵家の執務と城での職務に忙殺される日々が続いたが、彼にはそのどちらかを辞めるという選択肢はなかった。

レイモンドはステファニーと年齢も近かったため、政略結婚をさせられた『気の毒な公爵』だった。

ステファニーはハンカチに刺してあるチューリップの刺繍を指でなぞった。
チューリップはレイモンドの好きな花だった。

「そりゃまた寂しい話だな。互いを忘れてもいいような夫婦ってのはどうなんだ」

「同じ屋敷に住む同居人って感じかしら。でも、夫のことは嫌いじゃないし、彼から冷たくされているわけでもないわ。屋敷で会えば挨拶はするし」

「挨拶だけか？」

ステファニーは頷いた。広い屋敷の中でも、互いの部屋は離れていて、そもそも顔を合わせる機会がほとんどなかった。
最初のうちは閨を共にすることもあったが、激務に追われ、夫婦としての時間を作ることは次第に難しくなっていった。
そして、愛や恋といった感情を抱く余裕もなかった。

「仕事の性質が違うから、彼とは話が合わなかったの。夫も忙しい人で、ここ数ヶ月は顔を合わせることさえなかったわ」

「夫の記憶はいらないというわけだな」

長年共に暮らしてきたものの、神殿で働くステファニーと、屋敷を空けることの多い夫の生活リズムは違っていた。一緒に食事をすることも、夜会やお茶会に出席することもなく、旅行やデートなどは夢のまた夢だった。結果として、5年間夫婦でありながら、ステファニーは夫のことをほとんど知らないままだった。だから、彼の記憶が消えたとしても、何も問題はないと思えた。

「夫婦として共に過ごしてきたのに、変だと思われるかもしれないけれど、これが私たちの現状なの。相手を思いやる余裕なんてなかったの。でも、それがかえって楽だったのよ。効率的と言えばそうかもしれないけれど、もう疲れ切っていて、面倒な気遣いをする余力なんて残っていなかったから」

聖女の血を引く跡継ぎを産む使命があったが、子どもは授からなかった。夫との閨を共にしたのもごくわずかだったし、互いにそんなに熱心でもなかった。ここ数年は同じ寝室で眠っていなかった。

また、妊娠や出産をすれば責務がさらに増えることがわかっていたステファニーは、それを望んでいなかった。さらに、自分の聖女の力を子どもが受け継ぐことも良いとは思えなかった。

＊＊＊

「あんたの望みは、光の魔力を消すこと、そして記憶喪失だな。その二つだけでいいのか？」

ステファニーは他に何か望みがないかと考えた。

「そうね……できるなら、もっと明るい性格になりたいわ。希望を持ち、やる気に満ちて前向きな性格になれたら理想的よ。でも、私は全てを諦めがちで、自分の悲観的な性格なの。根暗で本当に嫌になるわ」

「それは、まぁ……これまでの環境の影響があるんだろうな」

「見た目も地味だし、無表情で冷たい印象だと言われる。治療した人に感謝されたり、おいしい料理を食べたりしても、感情が表に出ないから」

「望んでも変わらないから、表情も乏しくなってしまった。笑顔を忘れ、喜びを感じることさえできなくなってしまったんだろうね」

「ええ、そうかもしれないわね」

灯台守は咳払いをした。

「それなら、一つ目は魔力を消す。これは一生なくなってもいいのか？それともいつかは、元通り使えるようになりたい？後になってもう一度聖女に戻りたいと思わないか？」

「いらない。一生いらないわ」

「二つ目は記憶を消す。何年か経ってからなら、思い出しても良いとは思わないか？例えば育ててもらった両親のことまで忘れてしまうぞ」

「それは……そうね……」

ステファニーはごくりと息を呑む。少し思いに耽るようすで答えた。

「記憶は数年後に思い出す感じがいいかも」

灯台守は頷いた。

「三つ目は性格を明るくする。やる気満々で、いつも元気な感じでいいのか？それはそれで疲れそうだな」

「そうね……ほどほどに前向きな感じがいいかしら」

「注文が細かいな……他にはないな？後悔したりしないか？後から文句を言われちゃかなわない」

「そうなってみなくちゃ分からないわよね。贅沢よね、手に入らないものに憧れる一方で、手にしたものを面倒だと感じるなんて」

「人間ってのは本当に面倒だよな。もし元に戻したいと思う時が来たら、ここをまた訪ねてみるといい。嵐の夜、海が騒いでいる日には、俺がここにいるかもしれない。運が良ければ、その時また会えるだろうさ」

ステファニーは、納得した表情で静かにうなずいた。


灯台守はランタンを灯火台に設置し、光が海の遥か彼方まで届くようレンズを丁寧に調整した。その静かで集中した姿は、一種の儀式のようだった。話に夢中になっていたステファニーがふと顔を上げると、既に夜の闇が静かに辺りを覆っていた。

「それじゃあ、点火するぞ」

彼は火打ち石を取り出し、慎重に火花を散らした。カチン、カチンと数回繰り返すうちに、ランタンの芯に火が着き、その光が瞬く間に辺りを照らし始めた。

灯りはみるみるうちに大きくなり、部屋全体を包み込むとともに、闇を切り裂くように外へと広がっていった。その光はまぶしく強烈で、ステファニーは思わず目を細める。

その瞬間、心臓の鼓動は速まり、耳鳴りがした。そして周囲の空気が消えたような息苦しさが襲ってきた。酷い頭痛がした次の瞬間には闇が全てを呑み込み、ステファニーの意識は完全に途絶えた。