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【原神】からかい上手のナヒーダさん #36 - エピローグ(前編)【二次創作小説】

 
挿絵


 スメールシティが視界に入ったとき、俺はようやく実感した。長い洞窟探索を終え、本当にスメールの街に戻ってきたのだと。

 ナヒーダは、そっと手を離し、ゆっくりとフードを下げた。被っていたコートとを脱ぎ、靴を履き替え、持っていた荷物にしまう。

 俺は理解した。さっきまで一人の少女に見えた彼女が、本来の草神としての威厳を取り戻していく。白に近い淡い緑の髪が光を受けて輝き、翠色の瞳には深い知性が宿る。

「さて、そろそろ人々の目に触れる場所ね、じゃあ……」

 ナヒーダの声にも、先ほどまでとは違う響きがある。それは草神としての、国を統べる存在としての声色だ。

「俺はその辺で適当に特産品を採集して時間を潰すから、後でスラサタンナ聖処で合流しよう」

「えぇ、それが良いわね」

 俺は近くでスメールの特産品をいくつか採集した後、スラサタンナ聖処の中へと足を踏み入れた。内部は幾何学模様の彫刻が施された壁に囲まれ、天井からは柔らかな光が差し込んでいる。聖なる静寂が支配する空間だ。

 ナヒーダは俺を先導し、通常の訪問者や参拝者が立ち入る場所を過ぎ、さらに奥へと進んでいく。やがて彼女は一つの扉の前で立ち止まった。

「ここよ」

 扉を開けると、そこには意外な光景が広がっていた。書物や資料が整然と並ぶ書斎のような空間の一角に、小さなテーブルが用意され、椅子が複数置かれている。部屋全体はスメールの学術的な雰囲気に満ちているが、どこか特別な場として演出されていた。

「任務の報酬として、約束通り食事をご馳走するわ。既に注文は済ませてあるけど、届くまでにしばらく待たせることになってしまうわね」

 ナヒーダの言葉に、少し戸惑う。確かに洞窟を出る前、彼女から「食事をしよう」と提案されていたことを思い出す。「私の奢り」という言葉とともに。

「本来は公務として正式な報告会をするべきなのだけれど、特別に二人きりの食事にしたいの」

 彼女は説明しながら、テーブルの周りを整え始めた。二人きりの食事──その言葉にやはり緊張を覚える。洞窟内では自然だった二人だけの空間が、ここスメールの中心、スラサタンナ聖処では妙に改まった雰囲気を醸し出している。

「さぁ、座って」

 ナヒーダに促され、椅子に腰かける。やや緊張した様子の俺を見て、彼女は優しく微笑んだ。

「緊張しなくていいのよ。ここでは誰も私たちを邪魔しないから安心して」

 その言葉が逆に緊張を高める。洞窟から出てきた後の二人の関係性の変化に、まだ完全に適応できていない自分がいる。

「でも、突然誰かが入ってくることは無いのか?例えば、放浪者がいきなり入ってくるとか」

「笠っちのことね。あの子は素行が悪いけれど、たとえ急用でも必ずノックするよう強く言い聞かせてあるわ。もし彼が訪れてきた時は、ノックの間に作戦を考えましょう」

 抜かりない。さすがだ。

「それと、料理が届く前に、報告をまとめておきましょう」

 ナヒーダが小さなノートとペンを取り出した。

「洞窟内で見つけた死域について、覚えているかしら?」

 彼女の表情が、草神としての真剣さに満ちている。少しホッとして、俺は記憶を辿りながら答え始めた。

「最初に見つけた死域は、洞窟の北側の広間にあったな。大きさは直径約3メートルくらいで、周囲の岩まで腐食が進んでいた。色は濃い赤紫色で──」

 洞窟内で観察した死域の情報を、できるだけ詳細に伝える。ナヒーダは頷きながら、丁寧にノートに記録していく。その姿は完全に知恵の神そのもので、学問への真摯な姿勢が感じられる。

「次に見つけたのは東側の狭い通路の先で、こちらはより小規模に見えたが、実際は──」

 俺の報告に、彼女は時折質問を挟みながら、明確な理解を深めていく。死域の正確な位置、大きさ、色、質感、周囲への影響、召喚した魔物…すべてを細かく記録していくナヒーダの集中力に感心する。

 約10分ほどの詳細な内容をまとめた後、彼女は満足そうに頷いた。

「ありがとう。とても詳細で役立つ情報よ。これで公式な報告は終わりね」

 ノートをめくり、新しいページを開く。そして、彼女の表情がわずかに変化した。先ほどまでの学術的な真剣さから、どこか意味ありげな微笑みへ。

「では、次に…」

 その言葉に、なぜか身構えてしまう。

「非公式な記録も取っておきたいの」

 ナヒーダの声色が少し変わった。学者のような口調から、彼女本来の少し茶目っ気のある調子に戻っている。

「ひ、非公式?」

「ええ。例えば…」

 彼女はペンを持ち直し、真剣な表情で問いかけた。

「洞窟内で手を繋いだ回数は、全部で何回だったかしら?」

 予想外の質問に、思わず「え?」と声が出る。

「な、なんでそんなこと…」

「記録は大切よ」

 さらりと答えるナヒーダ。彼女はさらにノートに何かを書き込む。

「あと、洞窟内で私を抱きしめてくれた回数は?もちろん、魔物からの攻撃を庇ってくれた時の回数も含まれるわ」

 エスカレートする質問に、顔が熱くなるのを感じる。確かに危険な場所で俺が彼女を庇うために抱きしめたことはあったが、それらも数えられているとは…

「な、何のためにそんな記録を…」

「知恵の神として、あらゆるデータは貴重なの」

 ナヒーダは学術的興味を装っているが、その目には明らかな「からかい」の色が宿っている。

(旅人と手を繋いだ回数──)

(旅人に抱かれた回数──)

 距離があるのでハッキリとは見えないが、ナヒーダはしっかり見出しと回数を記載しているようだ。

「あと、キスの回数…♪」

「は??…き、キスなんてしてないだろ!!」

 思わず声が大きくなる。記憶にないことまでカウントされては困る。

「あら?現実世界では確かにしていないわね」

 ナヒーダの言葉に、一瞬ホッとする。だが、その安心は長く続かなかった。

「でも、夢境内で私とたくさんキスをしたじゃない、覚えていないの?」

 突然の言葉に、完全にパニックに陥る。

「え?…いつ?どこで?…え?」

 記憶を必死に探るが、そんな覚えは全くない。彼女とキスした記憶など、あるはずがない。

「あら、記憶にないの?私はしっかり覚えているのに」

 ナヒーダは少し残念そうな表情を見せる。

「そんなことあるはずがない!俺はそんな記憶は…」

「夢の中でのことだから、あなたが忘れていても不思議じゃないわ」

 彼女の説明に、頭が混乱する。夢境…ナヒーダの能力を使えば、確かに人の夢に入ることも可能かもしれない。だが、そんな場所でキスなどしていたら、俺だって覚えているはずだ。

 いや、でも夢というものは忘れることも多い。もし本当に夢の中でそんなことがあったとしたら…

「何回キスしたと思う?私の両手どころか、両足の指を使っても足りないのよ?」

 ナヒーダの追い打ちのような質問に、もはや言葉が出ない。20回以上…だと!?

 頭の中で夢と現実の境界が曖昧になり、混乱が広がる。

 そんな状態の時、部屋の外からチャイムのような音が聞こえた。

「あ、料理が来たわね。旅人、使用人のような扱いをして悪いけれど、取りに行ってちょうだい」

 ナヒーダはさらりと言った。まるで先ほどまでの会話など何事もなかったかのように。

「ああ、取りに行くよ…」

 混乱から逃れるために、立ち上がろうとする。いや、ちょっと待て…

「俺が取りに行ったら怪しまれるだろ!なんのためにここまで別行動をして合流したんだよ!注文したお前が取りに行くべきじゃないか!!」

 少し強めの口調で言ってしまった。

「ふふっ、それもそうね。しばらく座ったままで待っていてちょうだい」
 
 彼女は渋々立ち上がり、部屋を出ていった。

 やっと一人になれた安堵感で、深く息をつく。さっきの混乱からようやく解放された気分だ。しかし、頭の中は「夢境でのキス」という言葉でいっぱいになっている。

(本当にそんなことがあったのか?なんで覚えていないんだろう…まさかとは思うが…夢境から出る時に、ナヒーダに記憶を消去された…?)

 自問自答しながら、なんとなく周囲を見回す。学術的な書物が並ぶ静かな空間。

 そして、テーブルの上に置かれたナヒーダのノート。

 そのノートに目が釘付けになる。先ほど彼女が記録していたノート。そこにはさっきまでナヒーダが記述していた「キスの回数」についても書かれているはずだ。

(見るべきではない)

 良心がそう告げる。他人のノートを無断で見るなど、失礼極まりない行為だ。しかし、「夢境でのキス」という言葉が頭から離れない。

(確かめたい)

 好奇心が勝ってしまう。ナヒーダがいない今、ノートを見るチャンスは他にない。

 躊躇いながらも、立ち上がり、手を伸ばす。重い罪悪感と共に、ノートを手に取る。

 ページをめくる指が少し震えている。データや記録が細かく記載されたページが次々と現れる。死域の情報、洞窟の地形、そして…

 見つけた。「身体的接触記録」というタイトルのページ。

(旅人と手を繋いだ回数──)

(旅人に抱かれた回数──)

 そんなのは今はどうでもいい。

「旅人とキスをした回数:0回」

 はっきりと「0回」と書かれていた。安堵のため息が漏れる。やはり夢境でのキスなど、なかったのだ。

「ちょっと!国家機密を勝手に盗み見るなんて、ひどいわ!最低ね!」

 背後から声がして、思わず飛び上がりそうになる。振り返ると、そこにはナヒーダが立っていた。手には料理の盆を持っている。彼女の表情は珍しく不満そうで、ふくれっ面を作っている。

「ご、ごめん……」

 慌てて謝る。盗み見が発覚した恥ずかしさと、自分の行動に対する後悔で胸がいっぱいになる。

 ナヒーダは料理を置きながらも、まだ怒った表情を崩さない。普段はほとんど見せない感情だけに、その変化に驚く。

 いつも冷静沈着な彼女が、今は怒っている表情に、不覚にも心を奪われる自分がいることに気づく。

「…どうして見たの?」

 彼女の問いに、正直に答えるべきか迷う。「夢境でのキス」の話を信じてしまった自分の愚かさを認めることになるが、嘘をつくのも嫌だ。

「その…夢境でのキスのことが気になって…」

 照れながらも正直に答えると、ナヒーダの表情がさらに複雑になった。怒りと共に、どこか楽しんでいるような色も混じっている。

「まさか本気にしていたの?」

 彼女の言葉に、愕然とする。

「もしかして、俺をからかっていただけ…?」

「ふふっ、少し反応を試してみたかったの。でも、そのためにノートを見るなんて…」

 ナヒーダはまだ不満げな表情を見せているが、その目は確実に笑っている。

「国家機密を記載したノートを盗み見たことについて、あなたへ罪を問い、からかうこともできるけれど…管理不十分だった私にも原因があるし…まあいいわ。食事にしましょう」

 彼女は話題を切り替え、残りの料理を持ってきて並べ始めた。

 テーブルには、スメール特有の香辛料が香る料理が次々と並べられる。風味豊かなの肉料理、彩り豊かな野菜の煮込み、フワフワの食べ物、そして甘い香りのするデザート。

「いただきます」

 二人で言葉を交わし、食事を始める。張り詰めていた空気が少し和らぎ、穏やかな雰囲気が戻ってくる。

 食事をしながらも、俺の心には「キスの回数は0回」という記録への安堵感があった。しかし同時に、スメールを離れる寂しさも感じる。そんな複雑な心境に、自分でも戸惑う。

「美味しい?」

 ナヒーダが尋ねる。

「ああ、最高だよ。スメールの料理は本当に奥が深い」

 素直に答える。確かに料理は絶品で、スメールでの冒険を締めくくるのにふさわしい味だ。

 二人は食事を楽しみながら、洞窟での出来事や、スメールの歴史など、様々な話題で会話を続ける。徐々にリラックスした雰囲気になってきたところで、ナヒーダが突然問いかけた。

「それで、次はいつ、私とキスするの?」

 再び動揺が走る。食べかけていた料理に思わずむせそうになる。

「ごほっ…な、何を言い出すんだよ…」

 先ほどの「夢境でのキス」の話は嘘だと認めたはずなのに、なぜ、既にキスしたことがあるかのような、同じ話題を…

「だって、キスの回数が0回だったのを確認して、残念そうな顔をしていたから」

 鋭い観察眼だ。自分の微妙な感情まで見透かされているようで、居心地が悪い。

「いや、別に残念がっていたわけじゃないって…!」

 ナヒーダの翠色の瞳がじっと俺を見つめている。その瞳には知恵の神としての深い洞察力と、一人の少女としての好奇心が混在していた。

「そういえば洞窟内での恋人同士になる提案を覚えているわ。あなたは『考えておく』と言ったけれど、結論は出た?」

 洞窟の中での会話が鮮明に蘇る。確かに彼女は恋人同士について言及し、俺は「考えておく」と返事した。しかし、その後の出来事に流されて、明確な答えを出していなかった。

「その…まだ」

 正直に答えると、ナヒーダは少し残念そうな表情を見せた。だが、すぐに明るい笑顔に戻る。

「焦らなくていいわ。私たちにはまだ時間があるから」

 その言葉には優しさがあった。プレッシャーを感じさせない、思いやりのある言葉。

「そういえば、次の目的地はフォンテーヌ、水の国…遠くになるわね」

 ナヒーダの声には、かすかな寂しさが混じっていた。

「だけど、また戻ってくるつもりだ。スメールのイベント…花神誕祭の時に戻ってくる」

 その言葉に、彼女の顔が明るくなる。

「本当?約束する?」

「ああ、約束する」

 二人の間に、静かな約束が交わされた。それは旅人と草神という関係を超えた、個人的な誓いのようでもあった。

 食事を続けながら、俺は考える。スメールでの冒険は終わりに近づいているが、ナヒーダとの関係は何か新しい段階に入ろうとしているようだ。

 洞窟内での出来事、手を繋いだこと、そして「キス」という言葉が何度も行き交ったこと。すべてが何かの始まりを示唆しているようで、期待と不安が入り混じる。

「花神誕祭までに、考えておくことの答えも用意しておいてね?」

「おい!さっき『焦らなくていい』って、言ったばかりじゃないか!それは約束できない!」

「ふふっ、そうだったわね♪」

 食事を終え、二人は静かに向かい合っていた。スラサタンナ聖処の静寂の中、二人だけの特別な時間が流れている。

 この瞬間、俺はようやく気づいた。ナヒーダとの関係は、単なる草神と旅人という枠を超え、もっと個人的な、特別なものへと変わりつつあることに。

 彼女の微笑みを見ながら、俺はその変化を静かに受け入れていた。

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