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別れ

 一度退院したときから決まっていた入院の日。
 いよいよ今日から本格的な治療が始まる。 

 期待と不安が入り混じる武尊は、美里が入院してからというもの、毎日LINEでメッセージを送る。

 とはいえ「元気か?」やら「どうしてる?」などを送ったところで、美里も返事に困るだろう。
 そう考える武尊は、毎日、様々なネタを探すのに奔走する。

 街路樹の下に咲く花や神社の境内から見た町並みやら、テレビ番組で気になるものがあれば、パシャリとスマホで写真を撮り、すかさず美里に送っていた。

 テーマパークに新しいアトラクションができたというニュースの画像に、「今度ここに行こう」というメッセージをつけて送信した。
 今まで行列が嫌だと言い張り、美里から行きたいと誘われても拒絶していたのだが。
そんな過去のやり取りもそっちのけで、彼は本気で行くつもりだった。

 そうすれば、美里から「いいね!」と反応がある。
返信を見て嬉しくなる武尊は、妻の興味のある話ができたと感じ、ガッツポーズを決めていた。
 妻はその手の乗り物が好きなので、当然なのだが、それはどうでもいいようだ。

◇◇◇

「よお! どうしてる」
 そう言いながら、仕事終わりの武尊は美里の病室を訪ねた。

「ああ~、ちょっとだるくて寝てた」
「ほんとだ、顔に枕の線がついてる」
「っもう、馬鹿にして!」
「ははは、枕の線がついていても、可愛いから気にするなって」
 楽しげに返してくる武尊を見て、膨れた顔をした美里もおかしくなって笑い声を上げる。
「ふふっ、すぐごまかすんだから。そういえば夕飯は食べたの?」
「家に帰ってから、何か食べようと思ってるからまだ。めっちゃおなかすいてるけど、美里の夕飯はなんだったの?」
 
「私にダイエットを強要するメニューよ」
 嫌そうな顔をしながら美里が言うため、武尊がくすくすと笑う。
「野菜の煮びたし、ってやつか」
「そうよ。三食毎度、葉っぱばかり食べさせられるから、ウサギにでもなった気分だわ」
「退院したら、美味いものをたくさん食べような」
「それなら、ガーリックの効いたステーキを食べたいわ」

「やめとけって。一気にそんなパンチの強いのを食べたら、胃がびっくりするぞ!」
「確かに、言えてる~」

 そう言って、けらけらと美里が笑っていた。
「案外髪の毛って、すぐに抜けないんだな」

「うん。まだ抗がん剤治療を始めて一週間だからね。もう少し先なんじゃない。髪が抜ける前に、思い切って坊主かベリーショートに切った方がよかったのかもしれないなって思ってて」
「美里がもしも坊主にするなら、俺も一緒に坊主にするから言って」
「それだと会社にどうやって説明するの?」

「そんなの、禿げたからでいいじゃん」

 しれっと言う武尊を見て、嬉しさや申し訳なさなど様々な感情が込み上げる美里が言葉を失ったタイミングで、夜7時になったため、面会終了という院内放送が流れた。
 それを聞いて、がっくりと肩を落とす武尊が告げた。

「また来るから、俺のこと忘れないでね」
「ふふっ、それって来てくれるのを待ってる、私のセリフじゃない」
「絵を描いて夢中になったら、俺のことなんて忘れられている気がするから。って、面会時間を過ぎて喋っていれば怒られそうだし、とりあえず帰るわ」
 そう言って、じゃあっと手を挙げた武尊は、美里の病室をあとにした。

◇◇◇

 メッセージでは存外元気だが、ここ最近は、病院へ行くと、ぐったりしているときも珍しくない。副作用のせいだからと、二人で納得していた。

 そうして迎えた金曜日だが、武尊の予定としては休日出勤した振替の休みである。
 美里と二人であれば行きたい所は思いつくが、一人となれば特にやりたいこともない。

 一人で部屋に居るのも気持ちが滅入る。
 そうなれば、自然と妻の元へと向かっていた。

「お~い、元気かぁ~」
 とりわけ明るい声を出し、個室の扉を開けた。

 そうすれば、美里は武尊の方に顔を向けるものの、起き上がる様子はない。
 小さな声だけが返ってくる。

「……まぁまぁかな」

「調子が悪いってことは、悪い細胞も死んでるって証拠じゃないのか?」

「そうね、そうだといいわね」

「早く退院できるといいな。俺、めちゃくちゃご飯を作るのが上手くなったから、早く美里に食べさせたいんだ」

「本当に⁉ 料理なんかできない武尊が作れるようになったの?」

「人間はな、やればできるんだって」

 これまで料理を人任せにしていたくせに、急に自信を持ったせいで、随分と偉そうな口調で言った武尊を見ておかしく思えてきた美里が、ふふふっと声を出して笑う。
 とはいえ、一番強く感じたことを彼に伝えた。

「食べるのが楽しみだな~」

「一応、リクエストは聞いてやるよ。退院祝いは何がいい?」

「じゃぁ、ビーフシチューかな」

「はぁ? 無理、無理、無理。そんな上級者向けの料理は、俺にはまだ早いって」

「え~、食べたいのに残念だな~」

「ってか、俺、美里の作ったやつがいいし、作り方なんかわかんねーもん」

「それならね、退院したら一緒に作ろうか」

「そうだな。キッチンの広い部屋を借りて正解だったな」

 うんと、美里が愛らしい笑顔で頷いた。
 たわいもない会話を小一時間ばかりしてから、眠そうにしている美里に別れを告げた。

 病室から出て、エレベーターへ向かう途中、武尊は駆け寄ってきた看護師から引き止められた。

「先生が、美里さんのご主人と相談したいそうです」

「あ、はい」
 医師から説明があるとなれば、退院の話だろうと期待して、以前通された小さな部屋で医師の到着を待つ。

 武尊が入って来た側とは違う方の扉が、ガラッと開く。

「急に申しわけありません」
 そう告げた医師へ「別に構いません」と、さらっと返す。

 美里の治療は順調に進んでいると思われていたが、実際そうではないらしい。

「このまま化学療法を続けていても、効果は低く、むしろ美里さんの体力を奪うだけなので、中止しようと考えています」

「そ、それって、もう治療はしないってことですか⁉」

「まあ、今の薬はやめて、状態を診ながら他の薬を検討することもあります」

「で、でも……」

「今より美里さんの体調も安定すると思います。ご主人にはお話しなされていないかもしれませんが、全く食事が摂れておりませんし、トイレへ行くのも難しいくらい体力が落ちています。このまま治療を続けるとむしろ危険ですので」

「急に治療をやめたら、美里だってどう思うか……何か違う点滴をすることはできませんか?」

「必要のない点滴はご本人の負担になるだけですからできません」
 主治医の言葉を理解しつつも、治療をやめたという説明を美里はどのように受け止めるだろうか?
 それを考えただけで、胸の奥からこみ上げるものがある武尊は、額に手を当てながら、ゆっくりと尋ねた。

「妻にどうやって説明したらいいのでしょうか……?」

「あらかじめ、治療と治療の間は点滴を止めると説明してありますから、第一のクールが終わったとしか思わないはずなので、問題ないでしょう。痛みのコントロールのため、もう少しだけ入院して調整すれば、退院しましょう」

 治療をやめるということは、治る見込みを捨てるということだ。
 武尊としては納得できるはずもない。

 だが、苦しむ美里を見ていられないのも事実で、他の選択肢もない。
 そのため苦渋の表情を浮かべる武尊は、わかりましたと承諾するしかなかった。
「……わかりました」

「できるだけ自宅にいられる方がよいので、今後は外来治療を中心になりますね」
「そうですか」
 落ち着いて話を聞いているような武尊だが、気落ち気味に一言伝えるのが限界だった。

◇◇◇

 それから2日経ったころ──。

 武尊のポケットの中でスマホが振動している。
 そう思ってポケットから取り出し画面を見ると、美里からのLINEが届いていた。

『なんかね、最近すごく調子がいいんだ』
 上機嫌のメッセージを読めば、すぐさま返事を送った。

『まじか! 治療の効果が出て、良くなったからじゃないの!』

 すぐに既読が付き、返答がある。

『そうかもしれない』
 美里は思いのほか楽観的だと感じ、安堵した。

 治療もなくなり退院話が浮上してきた。
 そんなタイミングのことだった──。

 武尊の送ったメッセージが何時間経っても既読にならない。こんなことは初めてだ。

 病院を訪ねようと考えていれば、電話のコール音が鳴った。
 画面に大きく、美里の病院と表示されている。

 美里が入院している病院からだと思う彼は、慌てて「何かありましたか?」と応対した。

 そうすれば、間髪入れずに鬼気迫る声がした。
「すぐに来てください!」
 その言葉に「はい」と返答したが、わけもわからずパニックになっていた。

 たとえ無意識でも、妻の病院までは迷わず行ける。それくらいに体に染みついた場所でも、気が動転しながらも最短時間で到着できてしまう。

 病室へ入る前に、ふぅ~っと大きく息をはき、ノックと同時に部屋を開けた。

 そうすれば、医師が美里に心臓マッサージをしていて、ベッドの横に看護師が一人佇んでいた。

 その彼女が小さな声で告げる。
「お待ちしていました」
 看護師の声を合図に、医師が心臓マッサージをやめると、ベッドの横にある小さなモニターの心電図が一直線になっており、医師が美里に触れたタイミングで、ノイズのような山ができるだけだった。

 俺が到着するまでの三十分間、心臓マッサージを続けていたが、これ以上は意味をなさないためやめるとのことを、医師から告げられた。

 かすむ視界。とめどなくあふれる涙を拭うことなく、彼女に駆け寄った。

 温かい美里の顔に触れ、視線を重ねることが叶わなくなった妻にかける言葉は、謝罪しか思いつかなかった。

「美里! ごめん……俺が、あの日、すぐに病院へ行くって言わなかったから。お願いだから、一人にしないで」

 雨がザーザーと降りしきる四月のある日。美里は退院祝いとはほど遠い帰宅をした。

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