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雨上がりにかかる 虹のような妻との約束

 美里の葬儀の際には、彼女の両親から「病気のことをどうして知らせてくれなかった」と責め立てられたが、返す気力も湧かなかった。

 肩を落とす武尊は、ただただ言葉を受け入れるだけだった。

「悪いのは、全部俺なんです……」
 と弱々しく告げるのが精一杯の彼を見て、顔を見合わせる彼女の両親は、それ以上何も言わなくなった。

 悲しむ間も与えてくれないようなスケジュールを葬儀会社から立てられ、それをこなせば、気がつけば初七日まで終わっていた。

◇◇◇

 無情にも時は変わらず流れ、満員電車での通勤が始まると、今まで以上に息苦しく感じ、途中の駅で逃げるように降りてしまう。

 喪中休暇明けの初日から遅刻してしまったが、憔悴しきる彼を見た上司は、何も言えずに言葉を飲んだ。

 仕事から帰ると、もう読まれることはないとわかりつつも、「ご飯を作ったよ」と、妻へLINEを送る。

 既読の付かないそのメッセージを見て、ただ涙がこぼれた。

 それから一か月以上、どんな風に過ごしていたかわからない日々が過ぎていた武尊のスマホが、一通のメールを受信した。

『明日は休みだね! ビーフシチューの材料とレシピを、武尊に伝授しよう。朝から材料を買えば、夜に食べられるよ。次に会うときは、私にご馳走してね。私のわがままの賭けは、負けちゃったみたいなので、先に天国で待ってるから、ゆっくりおいで。できた妻は『他の女性と幸せになるんだよ』って言うんだろうけど、私が武尊とずっと一緒にいたかったから、まだその言葉は言えないかな』

「嘘……これは美里が予約してたのか……。ってことは、自分がどうなるのか、わかっていたのか──……」
 嬉しさや困惑の感情が入り乱れ、武尊が絶句する。
 メールの予約機能だろう。
 それから毎日、美里からメールが届くようになった。

 気がつけば、その日の何時にびっくり箱のようなメールが届くだろうかと、心待ちにしながら過ごしている彼がいた。
 仕事中でさえ、まだか、まだかとワクワクしながらスマホを見るが、夜に届くことが多かった。

 今日は美里が描いたイラストが本の表紙となって、店頭に並ぶ日だ。

 それを買いに行こうと本屋の新刊コーナーで、そっと立ち止まる。
 イラストレーターの名前を見なくとも、武尊にはどれが妻の色使いの絵なのか見分けるのは、容易なことだった。
ゆっくりと歩く彼は、本の一つの山で、一冊の本に釘づけになる。

 美しい希望の虹が描かれた里美の絵だ。
 特設コーナーに平積みにされた虹をしばらく見ていれば、ポケットが揺れる。スマホに届いたメールだ。誰からだろう?
そう思って、差出人を確認した彼は驚愕で目を見開いた。

『お誕生日おめでとう! 一緒にお祝い出来なくてごめんね。昔ね。もしかして妊娠しにくいかもしれないって言われたことがあったんだ。そんな私は駄目な妻かもしれないって思っていたのに、何も言わずにいてくれてありがとう』

「……馬鹿。駄目な妻だなんて思ったことは……一度もなかったって。俺は、性に合わない言葉を伝える勇気がなくて、ありがとうなんて美里に言えていた記憶がない。俺の方が馬鹿だな。大事な言葉は、伝えておけばよかったのに……。もう届かないじゃないか」

 瞳を潤ませる武尊は、声に詰まりながら言葉にした。

 その直後、もう一本のメールが届く。

 それを開いて読み始めたら、泣けてしまう気がする。買ったばかりの本を握りしめ店を出ると雨が降っているせいで誰もいない公園を見つけた。
 そこにベンチが数台置かれていて、都合がいいことに、屋根がついている。

 ここならゆっくり読めるだろうと、手前のベンチに腰かける。お尻がひんやりとしたが、次第に慣れてきた。

興奮からだろうか? それとも緊張だろうか?
鼓動が幾分速くなっている彼は、見ないようにしていたスマホの画面に視線を向けると、メールを開いた。

『無口なくせに、入院中にいっぱいメッセージを送ってくれて、随分と無理していたでしょう。あなたのことはちゃんとわかっているから──』

「本当に……。俺の気持ちをわかりすぎだろう」
 空笑いをしながら言葉にした。

彼は霊の存在などは信じていないが、もしかして美里が横にいるかもしれないと思えば、声に出さない選択肢はなかったからだ。

そのまま動けずにいれば、更にメールの着信を知らせる音が鳴り、すぐさま内容を確認する。

『実はね。初診は十月四日だったの。その十日後から病院から電話がかかってきて、一度目は予定がわからないって伝えて。でも一週間してからまた電話がかかってきたときに、不妊検査の結果なんかで何度もかけてこないと思ったから怖くて。妊活のために仕事を辞めることにしたのに、婦人科の病気だと言われてしまうのは、自分の価値がなくなる気がして……。悩んでいるせいで調子が悪いのかもしれないと思って、考えないようにして、ごまかして……。しばらく武尊にちゃんと伝えられなかったんだ。いっぱい迷惑をかけたし、困らせてごめんね』

 そのメッセージを読んだ武尊が、胸を熱くする。

「迷惑なんてかかってないし、困らせたのは俺の方だろう。必死に治療中の美里に『ごめん』なんて言ったらそのままいなくなる気がして、言えなかったんだ。ずっとごめんって伝えたかったのに、美里だけずるいよ」
 そう言った彼が、ぽろぽろと大粒の涙をこぼす。

『武尊のことが大好きだったよ。あなたの元にずっと帰れるように、病院で毎日空を見上げていたの。でもね、どんなに雨が降っても虹は現れなくて。ちょっと泣きそうなときに、いつも武尊がメッセージをくれていたんだよ。信じられないよね。まるで私の気持ちをわかっているみたいなタイミングで届くから、最後まで笑っていられたんだ』

「それは自分が寂しかったときに送っていただけなんだ……一方的に送ってたのに、いつも返事をくれたじゃないか」
 そう言った直後、五通目のメールを受信した。

 同じ日に複数件届いたのは初めてだ。
 その内容を確認する前に、確信に近い感情を抱く武尊は、袖口で乱暴に涙を拭う。
 少し前より視界が鮮明になった彼は大きく息を吐くと、そのメールを読み始める。

『先に天国に行かせてくれてありがとう。私は一人ぼっちじゃなかったから、最後まで楽しい時間を送れました。私の人生は、あなたの妻でとても幸せでした──』

 光る画面を見る武尊は、泣いているのか笑っているのかわからない表情で口元を抑えた。

 ゆっくりとスマホの画面から視線をずらし、空を見上げると、少し前まで降っていた雨がやみ、雲の隙間から日の光が見え始めていた。

 次第に眩しく感じる太陽に目を細めていると、空に大きな虹がかかっている。
「虹──」

 何となくだけど、明日からは美里のメールが届かない気がする。
でも、それでいい。
くよくよするのは今日までだ。
そう決意表明したように、表情は晴れやかなものに変わった。

 空を見上げた武尊は、ひと際大きな声を出して返答する。
「いつか会える日まで気を長くして待っていてくれよな──。美里の元に、俺が戻っていくから」

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