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「ちょっとカディオっ、陛下に何してるのっ」
たびたびそうやってわけの分からない喧嘩を急に勃発させることはあったが、まさか二十四歳になってもしていたなんて。
「あ、いいんだよシェスティ。私。家庭内ではいつもこんな扱いだから――」
「あら、もう酔ってるのかしらね」
気付いて見てきた王妃がそう言った。
カディオが、形のいい口元でライングラスを傾けて、ごくごくと飲む。あっという間にグラスの中を空にすると、息を吐き、やや乱暴に手の甲でぐいっと口元を拭う。
「シェスティ、飲んだぞ」
「なぜ、主張されているのかしら……」
空になったグラスを見せられても、戸惑いしかない。
カディオの表情は、心なしかわくわくしている感じがする。彼の尻尾は左右にぶんぶん揺れていた。
(やっぱり彼、おかしい)
楽しそうだが、どこにそんな要素があっただろう。
(陛下? 陛下を押しやれたことが楽しかったとか? いえ、まさかよね)
シェスティは、カディオのことがよく分からなくなってきた。
「いい飲みっぷりだけど、心配になってきたわ」
「あー、気にしすぎじゃないかな」
兄の言葉が、こんなにも頼りなく聞こえたことはあっただろう。気のせいか、棒読みに聞こえてくるのだ。
母が空のグラスを回収するよう人を呼ぶ。いつの間にか注目を集めていたようで、父が国王と一緒にフォロー入っていた。
それを横目で眺めていた王妃が、シェスティに耳を寄せた。
「この子、褒められたいのではないかしら」
「え?」
「褒めてくれるか」
カディオがそう口にして、尻尾がもっと左右に大きく触れた。
「……彼、酔ってるのかしら?」
「狼ってだいたいこんな感じよ。婚約するまで、陛下も挙動不審だったわ」
すると国王が向こうから、「私はそんなんじゃなかったぞ!?」なんて主張してくる。さすがは獣耳、よく聞こえているようだ。
(一気飲みしたせいで、今だけ酔っているのかも)
シェスティが覚えている限り、カディオは酒に強い人だった。
その澄ました、つまらなそうな顰め面を赤くすることはなかったし、変な行動もゼロだ。
ただただ、毎回ずっとシェスティの隣で不機嫌にしている。
それなのに今、彼はどこか目を期待に輝かせてシェスティを見つめている。
「……カディオ、すごいわね」
素直に待っている相手を見て断れるシェスティではない。戸惑いつつも、褒めてみた。
そうしたらカディオが、金色の目を少し見開き、そして口元を綻ばせた。
彼が――笑った。
眉間に皺はない。目元はとても優しげで、シェスティの心臓がなぜがどっとはねる。
(ああこれ、たぶん、酔っぱらっているわ)
歩きながら酔一気飲みの酔いが醒めるといいのだけれど、とシェスティは思った。
少し足を動かしていたら、酔い心地はみるみるうちに抜けてくれたようだ。
だが、やはりこれは体調がおもわしくないのではないだろうか、とシェスティは本気で心配になってきた。
珍しいくらい、国王夫妻とシェスティの両親は若い令息がいるグループに話しかけた。
そのせいでカディオの機嫌も最高に、悪い。
今年に社交テビューしたばかりだという初対面の令息に対しても、敵を見るような警戒の態度を崩さない。
そのせいで、パートナーとして彼をフォローするシェスティが大変だった。両親たちはそれを楽しんでいる節もあり、全然加勢してくれない。
(何か意味があるのかしら?)
それが三回どころではなく、六回も続くとシェスティは考えさせられた。
「あ」
続いて、同級生の知り合いの令息の顔が見えた時に、ふっと推測が頭に浮かぶ。
兄が気付き、尋ねてくる。
「どうした?」
「私が帰国したから結婚相手にどうかと、陛下たちは私の婚約者候補に合わせている感じですか?」
空気が、一瞬にして凍えた。
家族のところから手を振っていた同級生が「ひゅっ」と息を飲むのが見えた。振り返ってきた大人たちの中で、国王の顔が『あ、やぱい』というように変わる。
それを見て、シェスティも事態の重さを察した。
何か、まずい発言をしてしまったみたいだ。
「え、あの……?」
そもそもいったい、この冷気はどこから出ているのだろう。
不意に、ようやく今になってその思考にいたる。
その時だった。シェスティは、隣からカディオが一歩踏み出すのにハッと気付いた。
「陛下、まさかシェスティの〝次〟をお考えなのですか?」
自分よりも一歩前に、ゆらりと立ったカディオ。シェスティは彼に対して初めて『声が出ない』という状況を体感した。
――怖い。
本能が察知したみたいに、身体がぞわりと寒くなる。
冷気の正体の一つは、コレでもあったらしい。
カディオから出ている圧倒的な獣人族の〝威嚇〟。そして、圧倒された人々の肝が一瞬にして冷えたのだ。
(あ、思い出した)
この国で王位を継承する条件は、他の獣人族を残らず畏怖させること。
それは、この国で唯一〝黒狼〟である王家がそうだった。
そしてカディオの血の濃さはも歴代の王の中でも三本指に入るといわれていた。
持って生まれた武才は血筋によるもので『騎士王子』と呼ばれ、尊敬されている。
その圧倒的な支持は、彼の次期王としての優秀さだけではないのだ。
「ふぅ、誤解だよカディオ」
国王が、なんでもないようにため息をこぼす。しかしカディオとそっくりな彼の金色の瞳は、気が抜けないと言わんばかりに獣の緊張感と殺気で光っていた。
「今のお前は余裕がないから、普段のような思考が七割は機能できていないのは分かっている」
「機能していますよ。シェスティを、別の男にやると?」
その時、シェスティは切羽詰まった兄の「シェスティっ」と呼ぶ声を聞いた。
金縛りにあっていたみたいな身体が、途端に動く。
初めて見る本気の父子の喧嘩の緊迫感を前に、シェスティの心臓は苦しいくらい脈打っていた。けれど気付いたら彼女は、金髪とドレスのスカートを揺らして一歩前へと飛び出していた。
「…………カ、カディオ!」
次の一歩を踏み込もうとしたカディオの胴体に、思い切り抱きついた。
自分の体重をぐっと足元にかけて、彼をその場に留める。
カディオがぴたりと身体を止めて、そして力も抜いていく。殺気もみるみるうちに小さくなるのをシェスティは感じた。
「喧嘩は、だめ。何を怒っているのかは分からないけど、ああたぶん、私の政略結婚のことを怒ってくれたのよね? 大丈夫よ、陛下は私にとって、第二の父みたいなものだもの。私が嫌がるような、不幸になるように結婚命令は、しないわ」
たぶん、とシェスティは思った。
両親が提案する相手と結婚する覚悟は、令嬢教育を王宮で早々にこなし終わってしまった時にはできていた。
よくしてくれた国王と王妃、王宮のみんな。
ウチは公爵家だから、国王たちが必要とする結婚先に嫁ぐことも視野には入れていた。
けれど、カディオは違うのだ。
「私の代わりに、怒ってくれたのね。ありがとう、カディオ」
彼の気配からピリピリとしたものが、完全に消えた。
「……そんなんじゃない、俺は……」
こちらを見下ろした彼は、苦しそうな表情になったかと思うと、口をぱくぱくさせる。そしていつもみたいに、また彼の言葉はそのまま途切れた。
「まったく、とんだ息子ね。将来がほんと楽しみだわ」
王妃の声がよく聞こえた。
ふっと会場の様子をようやく目に留める心の余裕ができたシェスティは、いつの間にか静まり返っていることに気付く。
「シェスティ、カディオを休ませてきてくれる?」
「はっ?」
急にカディオが焦った声をもらした。
「いや、ですが、俺は」
「分かりました」
カディオは強がりだ。もう体調が限界なのだろうと察し、シェスティはしっかりと頷き返し、家族に先に退出すると告げ、いつの間にかそばにきていた護衛騎士隊長に誘導され、カディオの背を押して会場を出た。