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 唇から口内へと、そして喉から身体の中へ――。

 エステルの身体は、それをはっきりと『美味しい』と感じてどんどん飲み込んでいく。

 アンドレアの魔力だから、心が喜んでいるのか。

 それか抵抗しない唇から伝わってしまったのか、彼が唇を開けさせるみたいに両手で彼女の髪をくしゃりと撫で、もっと深く口づけ合う。

(ああ、でも、だめよ)

 与えられても、それは一時的なもの。流れていってしまうのだ。

 両手で押し返した。アンドレアが気づき、唇を離す。

「なぜだ」

 どうして拒む、とキスをやめてもとても近い位置にいる彼の目が問いかけてくる。

「君の身体は、まだ少し魔力を必要としている」
「で、ですが」
「魔力の相性はとてもいいはずだが」
「そういうことではなくっ」

 みるみるうちに赤くなっていったエステルは、とうとう真っ赤になってしまって視線を下に向けた。

「……そ、そもそも、王太子殿下の貴重な魔力を私がもらっていいはずがありません」

 そもそも、どうしてキスなんか、しているのか。

(そんなことしなくとも、触れるだけで魔力は与えられるのに)

 エステルは疑問符でいっぱいになる。
 すると、彼の身体を押している手を上から軽く握られた。

「エステル」

 名前を呼ばれて、どきっとする。

「混乱しているところ悪いが、すまない――上書きさせてもらう」
「えっ?」

 ぐんっと手を広げられる。やや強引に引き寄せられた次の瞬間、彼の唇が、今度はエステルの胸元から覗く傷跡に強く押しつけられた。

 アンドレアは、あろうことか傷跡にキスをしたのだ。

 一つ、二つと、唇を押しつけられるたびに傷跡をなぞられていく。

 そのたび、彼は器用にも魔力を注いだ。

 エステルの驚きは、直後に強いときめきへと変わっていた。

 嫌う象徴のようにされていたと思っていた醜い傷に、愛しい人が、許しを与えるように唇で触れてくれているのだ。

 嬉しさが、エステルの胸を満たした。
 そこに感じる唇の熱は、先程よりも熱く感じる。

「エステル。どうかアンドレア、と再び呼んでくれないか」

 片腕で強く抱き寄せ、彼が胸元で話す。

「君の口から第三王子の名前を聞くたび、俺は――」
「殿下?」

 ドレスの襟をほんの少しだけずらした彼は、そこでキスを最後にしてくれた。

 だからエステルは、何も怖くなどなかった。

 ただだた彼の声が懇願するようにかすれていることが心配だった。

「エステル」

 頭を起こしたアンドレアは、やはりどこか切実に訴えてきた。その目は『名前を』と伝えてくる。

「…………アンドレア様」

 本人の顔をまたに名前を口にしたら、きゅんっとしてエステルは切なくなる。

 するとすぐ、アンドレアは訂正してきた。

「様はいらない」
「そんなことは――」
「できないと言うのか? 奴のことは名前だけで呼んでいたのに?」

 隣国の第三王子なのに、随分な言い方だ。

 呼びたい。でも――だめだ。

 エステルは悲しみに心が震えて、両手で彼を突っぱねる。

「できません」
「どうして――」
「聞きわけてください! 私が、どんな思いで魔力を手放したとっ」

 アンドレアがハッと息を飲む。

 知られてしまった。
 エステルもぐっと言葉が詰まって、頬を涙が伝っていくのを感じた。

 きっと聡い彼のことだから、気づいてしまっただろう。すべては、この恋とすべてを終わらせるためにしたことだった。

「そもそもどうしてこんなことするんですかっ? あなたには、もう伯爵令嬢がいらっしゃるでしょうっ」

 こんな感情的な女性は、彼に嫌われてしまう。

 けれど、ここで言わなければならないとエステルは思った。もう、終わらせるのだ。今夜で、すべて最後にする。

「伯爵令嬢とよい仲だと周りが騒ぎ、それを私がどんな想いで聞いていたか分かりますか? これ以上、惨めな思いは嫌なんです……」
「エステル、君は……」
「お願いです、婚約を、破棄してください」

 呼吸が苦しくなった。

 エステルは俯き、震える手で彼を叩くようにして拳で押しつけ、力を振り絞る。

「私は明日、領地に戻ります。もうあなたとは会いません。アンドレア様は……明日にでも、必ず、婚約破棄してください」

 明日、戻ったらもうここへは来ない。

 そんな想いで告げたのに、躊躇うような吐息をエステルは聞いた。

「婚約破棄は、しない」
「アンドレア様っ」

 思わずカッとなって頭を起こしたら、言葉を奪うみたいにまた唇を重ね合わされた。

 咄嗟に彼の胸板を叩くが、アンドレアがそんなエステルの腕ごと抱きしめる。

 彼の腕から、手から、唇から魔力が優しく沁み込んできた。

(――ひどい、どうして)

 どうして彼は、こっぴどくエステルを振ってくれないのか。

 これまでみたいに、冷たくして欲しい。

(でないと、好きが、終わってくれないの)

 悲しくなって泣いたら、アンドレアがキスをやめた。

「頼む、戻らないでくれ」

 どうしてそんなことを言うのか。エステルは、キスのせいで息が上がって言葉を返せない。

 涙に濡れた目で見つめ返すと、彼はエステルの涙を指で拭った。

「俺の魔力を分け与えるから――だから、奴の魔力は君には必要ない」
「…………アンドレア、様」
「答えられなくした俺が悪いのは分かってる。許してくれ、俺は、」

 彼が、強くエステルをかき抱く。

「君を、手放せない」

 告げたアンドレアの吐息は、かすかに震えている気がした。

「すまない。俺は、君を解放してあげることが、できない」

 解放、とは、いったいなんだ。

「頼む、待っていてくれ」

 アンドレアが少し腕を緩め、エステルの潤んだ目を覗き込んできた。

「全部片をつけてくるから」
「…………」
「話しをしよう、エステル。俺は君と、終わりたくない」

 どうして、と思う。

「君が、俺以外のどこかへ嫁いでいくのを、俺は見ていられない。俺は君が別の男のもとで幸せになることを……この国の王太子として、見送れることができない」

 それは、まさにエステルの気持ちそのものだった。

 まだ、頭の中は混乱している。

 アンドレアがどうして、自分と同じ心を抱いているのか。けれど彼が、何かしらとても必死であるのは分かる。

(あのアンドレア様が……)

 頼む、とエステルに懇願してきた。

 そして今も、眼差しで強く伝えてくる。

 彼は先程、エステルから別れの言葉を聞きたくなくてキスで呼吸を乱した。

 こんなにも余裕をなくした彼を見るのは、初めてだった。それでいて、彼と心から目が合っていると感じるのも初めてだ。

「頼む。時間を、くれ」

 アンドレアがエステルの左手を持ち上げて、婚約指輪に唇を押しつけた。

 月明かりの下、美しい花たちの光景の中でそれはとても神聖なものに見えた。

 たった二人、約束をし合うみたいな静寂をエステルは聞く。

「……はい」

 アンドレアの気迫に、思わずこくんと頷いてしまった。

 エステルも彼がそばにいて、手で触れ合っている温もりに存在感を覚えていることに、安心感さえ抱いてしまっている。

「公爵のもとに送ろう。今日はそのまま帰りなさい、――いいね?」

 手を取られて、立ち上がる。

 アルツィオと、そしてリリーローズに会わないと失礼だという思いが込み上げた。

 だが、アンドレアはそれが嫌なのだとエステルもさすがに察せた。

 彼は、アルツィオに会って欲しくないのだ。

 エステルは彼の意向にそのまま従った。自分の手を引いてくれるアンドレアの手を、戸惑いながらも見つめる。

 夢を見ているのではないかと、胸がトクトクと鳴っているのを覚えていた。

       ∞・∞・∞・∞・∞

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