22
唇から口内へと、そして喉から身体の中へ――。
エステルの身体は、それをはっきりと『美味しい』と感じてどんどん飲み込んでいく。
アンドレアの魔力だから、心が喜んでいるのか。
それか抵抗しない唇から伝わってしまったのか、彼が唇を開けさせるみたいに両手で彼女の髪をくしゃりと撫で、もっと深く口づけ合う。
(ああ、でも、だめよ)
与えられても、それは一時的なもの。流れていってしまうのだ。
両手で押し返した。アンドレアが気づき、唇を離す。
「なぜだ」
どうして拒む、とキスをやめてもとても近い位置にいる彼の目が問いかけてくる。
「君の身体は、まだ少し魔力を必要としている」
「で、ですが」
「魔力の相性はとてもいいはずだが」
「そういうことではなくっ」
みるみるうちに赤くなっていったエステルは、とうとう真っ赤になってしまって視線を下に向けた。
「……そ、そもそも、王太子殿下の貴重な魔力を私がもらっていいはずがありません」
そもそも、どうしてキスなんか、しているのか。
(そんなことしなくとも、触れるだけで魔力は与えられるのに)
エステルは疑問符でいっぱいになる。
すると、彼の身体を押している手を上から軽く握られた。
「エステル」
名前を呼ばれて、どきっとする。
「混乱しているところ悪いが、すまない――上書きさせてもらう」
「えっ?」
ぐんっと手を広げられる。やや強引に引き寄せられた次の瞬間、彼の唇が、今度はエステルの胸元から覗く傷跡に強く押しつけられた。
アンドレアは、あろうことか傷跡にキスをしたのだ。
一つ、二つと、唇を押しつけられるたびに傷跡をなぞられていく。
そのたび、彼は器用にも魔力を注いだ。
エステルの驚きは、直後に強いときめきへと変わっていた。
嫌う象徴のようにされていたと思っていた醜い傷に、愛しい人が、許しを与えるように唇で触れてくれているのだ。
嬉しさが、エステルの胸を満たした。
そこに感じる唇の熱は、先程よりも熱く感じる。
「エステル。どうかアンドレア、と再び呼んでくれないか」
片腕で強く抱き寄せ、彼が胸元で話す。
「君の口から第三王子の名前を聞くたび、俺は――」
「殿下?」
ドレスの襟をほんの少しだけずらした彼は、そこでキスを最後にしてくれた。
だからエステルは、何も怖くなどなかった。
ただだた彼の声が懇願するようにかすれていることが心配だった。
「エステル」
頭を起こしたアンドレアは、やはりどこか切実に訴えてきた。その目は『名前を』と伝えてくる。
「…………アンドレア様」
本人の顔をまたに名前を口にしたら、きゅんっとしてエステルは切なくなる。
するとすぐ、アンドレアは訂正してきた。
「様はいらない」
「そんなことは――」
「できないと言うのか? 奴のことは名前だけで呼んでいたのに?」
隣国の第三王子なのに、随分な言い方だ。
呼びたい。でも――だめだ。
エステルは悲しみに心が震えて、両手で彼を突っぱねる。
「できません」
「どうして――」
「聞きわけてください! 私が、どんな思いで魔力を手放したとっ」
アンドレアがハッと息を飲む。
知られてしまった。
エステルもぐっと言葉が詰まって、頬を涙が伝っていくのを感じた。
きっと聡い彼のことだから、気づいてしまっただろう。すべては、この恋とすべてを終わらせるためにしたことだった。
「そもそもどうしてこんなことするんですかっ? あなたには、もう伯爵令嬢がいらっしゃるでしょうっ」
こんな感情的な女性は、彼に嫌われてしまう。
けれど、ここで言わなければならないとエステルは思った。もう、終わらせるのだ。今夜で、すべて最後にする。
「伯爵令嬢とよい仲だと周りが騒ぎ、それを私がどんな想いで聞いていたか分かりますか? これ以上、惨めな思いは嫌なんです……」
「エステル、君は……」
「お願いです、婚約を、破棄してください」
呼吸が苦しくなった。
エステルは俯き、震える手で彼を叩くようにして拳で押しつけ、力を振り絞る。
「私は明日、領地に戻ります。もうあなたとは会いません。アンドレア様は……明日にでも、必ず、婚約破棄してください」
明日、戻ったらもうここへは来ない。
そんな想いで告げたのに、躊躇うような吐息をエステルは聞いた。
「婚約破棄は、しない」
「アンドレア様っ」
思わずカッとなって頭を起こしたら、言葉を奪うみたいにまた唇を重ね合わされた。
咄嗟に彼の胸板を叩くが、アンドレアがそんなエステルの腕ごと抱きしめる。
彼の腕から、手から、唇から魔力が優しく沁み込んできた。
(――ひどい、どうして)
どうして彼は、こっぴどくエステルを振ってくれないのか。
これまでみたいに、冷たくして欲しい。
(でないと、好きが、終わってくれないの)
悲しくなって泣いたら、アンドレアがキスをやめた。
「頼む、戻らないでくれ」
どうしてそんなことを言うのか。エステルは、キスのせいで息が上がって言葉を返せない。
涙に濡れた目で見つめ返すと、彼はエステルの涙を指で拭った。
「俺の魔力を分け与えるから――だから、奴の魔力は君には必要ない」
「…………アンドレア、様」
「答えられなくした俺が悪いのは分かってる。許してくれ、俺は、」
彼が、強くエステルをかき抱く。
「君を、手放せない」
告げたアンドレアの吐息は、かすかに震えている気がした。
「すまない。俺は、君を解放してあげることが、できない」
解放、とは、いったいなんだ。
「頼む、待っていてくれ」
アンドレアが少し腕を緩め、エステルの潤んだ目を覗き込んできた。
「全部片をつけてくるから」
「…………」
「話しをしよう、エステル。俺は君と、終わりたくない」
どうして、と思う。
「君が、俺以外のどこかへ嫁いでいくのを、俺は見ていられない。俺は君が別の男のもとで幸せになることを……この国の王太子として、見送れることができない」
それは、まさにエステルの気持ちそのものだった。
まだ、頭の中は混乱している。
アンドレアがどうして、自分と同じ心を抱いているのか。けれど彼が、何かしらとても必死であるのは分かる。
(あのアンドレア様が……)
頼む、とエステルに懇願してきた。
そして今も、眼差しで強く伝えてくる。
彼は先程、エステルから別れの言葉を聞きたくなくてキスで呼吸を乱した。
こんなにも余裕をなくした彼を見るのは、初めてだった。それでいて、彼と心から目が合っていると感じるのも初めてだ。
「頼む。時間を、くれ」
アンドレアがエステルの左手を持ち上げて、婚約指輪に唇を押しつけた。
月明かりの下、美しい花たちの光景の中でそれはとても神聖なものに見えた。
たった二人、約束をし合うみたいな静寂をエステルは聞く。
「……はい」
アンドレアの気迫に、思わずこくんと頷いてしまった。
エステルも彼がそばにいて、手で触れ合っている温もりに存在感を覚えていることに、安心感さえ抱いてしまっている。
「公爵のもとに送ろう。今日はそのまま帰りなさい、――いいね?」
手を取られて、立ち上がる。
アルツィオと、そしてリリーローズに会わないと失礼だという思いが込み上げた。
だが、アンドレアはそれが嫌なのだとエステルもさすがに察せた。
彼は、アルツィオに会って欲しくないのだ。
エステルは彼の意向にそのまま従った。自分の手を引いてくれるアンドレアの手を、戸惑いながらも見つめる。
夢を見ているのではないかと、胸がトクトクと鳴っているのを覚えていた。
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