21
「ですから、アルツィオへの非難はどうぞお収めくださいませ」
お願いする声が震えそうになる。
アルツィオ、と名前を呼んだ瞬間、見つめるアンドレアから強い憤りを感じた。
「公爵家からも知らせはいって知っているかと存じますが、私はほとんどの魔力を失いました。……殿下には、魔法数第二位のアレス伯爵家の令嬢がいます」
口にするだけで、胸が張り裂けそうなくらいに、痛い。
「私はもうあなた様の、この国の王太子殿下の妃にはなれない身です。私は新たな婚姻先にと、アルツィオとの縁談が両国によって打診されており――」
「君はまだ俺の婚約者だ」
「え……?」
強く、はっきりと告げられたことに心が揺れた。
「そもそもその打診についても、我がティファニエル王国はまだ認めていない」
認めていない、のではなく、この国の王太子である彼が何も進めてくれないでいるだけだ。
もう、こんな苦しいことは終わりにしたい。
胸が痛くて仕方がない。そんな想いで溢れた次の瞬間、エステルの中で、何かが崩壊した。
「殿下、もう私を手放してください」
気づいた時、彼女の唇から、涙の気配を滲ませた声が出ていた。
「私には、無理です」
あなたに終わりを突きつけられる日を、待つことが。
もう言葉にならなかったエステルの深いアメシストの目から、つうっと涙がこぼれていく。
アンドレアがとても苦しそうな表情をした。
(なぜ、あなたがそんな顔をするの?)
そんな彼を見て、エステルももっと苦しくなった。
「無理とは、俺とのことか」
「はい」
「一緒にいると、つらくて苦しいのか」
「……はい」
「その男の方がいいと?」
答えるごとに涙が溢れ、最後の問いにはもう何も答えられなかった。
(あなたが、それを言うの?)
ひどい人だ。
選択肢を奪ったのは、アンドレアだ。
彼は、エステルを幼い頃に嫌ってしまった。考え直してくれる隙すら与えず、結婚ができる年齢になったら、彼はユーニをそばに置いた。
まるで徹底して、エステルから希望や期待すら奪うみたいに。
「君がそう願っても――すまない、叶えることができない」
「え」
絶望で、胸が、心がギシリと軋むのを感じた。
恐ろしいほどの苦しみに、エステルの涙も止まる。
(そこまでして……あなたは、私が嫌いなのですか?)
その時だった。
「はい、エステル。そこまでですよー」
場違いなほど、明るい声が上がった。
絶望の底に落ちて思考が停止しそうになった直前、アルツィオの存在に引っ張り上げられた。
彼が二人の間に割って入っているのを見て、ハッと我に返る。
「待っ――」
危ない。まだ、アンドレアを説得できていない。
そう思って背筋が冷えたのだが、アルツィオと目が合ってハタとする。
アルツィオは、エステルが唖然としてしまうくらいにっこにこしていた。
「……あなた、こういう時も、そうなのですか?」
「そう、とは?」
ふふふと美しい笑みを浮かべた彼が、アンドレアに向く。
「アンドレア・レイシー・ティファニエル王太子殿下には、敬意と、謝罪を」
美しい所作で頭を軽く下げ、左胸に手を添える。
アンドレアが眉を寄せた。
「あ、お言葉は結構です。どうぞ先にエステルとお話になられた方がよろしい」
アルツィオのあまりにも場違いなきらきら笑顔のせいだろう。
口を開こうとしたアンドレアも、意表を突かれたみたいに発言のタイミングを逃していた。
「それではエステル、私は席を外しますね」
「えっ、ですが――」
ここで置いていくのか。
あまりにも無情ではないかとエステルは思ったのだが、アルツィオは「それでは」なんて爽やかなに言い残し、軽やかな足取りであっという間に庭園の通路を戻っていってしまった。
場に、ぎこない空気が漂った。
二人きりであることに強く緊張して、エステルは言葉を探す。
「こ、こんなところにいてはいけません」
そうだと思い出し、彼女は言った。
「殿下は、ユーニ伯爵令嬢のもとへお戻りを」
同伴出席していたのに、どうして彼女を置いてこんなところにいるのか。
彼女は、エステルではない。一人にするなんてひどいことだ。
するとアンドレアが、急に動き出した。
エステルはたじろいで反射的に後退する。だが、精神的な疲労のせいか、足元がぐらりと揺れた。
(――あ、魔力が足りないんだわ)
アルツィオがくれたのは、ほんの少しだったから。
その時、アンドレアに手を掴まれた。流れるように腰に腕が回り、支えられる。
「やめてっ、離して――」
「ユーニ嬢のもとにすぐ戻るつもりはない」
え、と思ってハタとエステルは抵抗をやめた。
アンドレアがすぐそこから、藍色の瞳でエステルの目を覗き込んでくる。
「頼むから、君を、ベンチに座らせてくれ」
彼の目には気遣いがうかがえた。
「このまま立っていては、回復もしないだろう?」
いったい、どういう風の吹き回しだろうか。
(そんな言い聞かせるみたいな声、初めて聞いたわ……)
国内第二位の魔力量を、失った女を哀れに思ってはいるのだろうか。
それとも、それを失った理由が、彼が女性を作ったという噂に耐えきれず外に飛び出したことが原因だと、聞かされて……?
「座ろう、エステル」
ずるい。どうして、そう優しく呼ぶの。
エステルは涙が出そうになって、こらえるために口を閉ざし、そのまま大人しく彼に導かれてベンチへと腰を下ろした。
アンドレアが隣に座った。俯き、目を合わせないエステルに『視線を上げて』というように、顔を包み込む。
頬に指先を触れさせて、滑らせ、耳から髪の中へと指先を埋める。
彼の触れ方は、とても慎重だった。
まるで『優しい』と、エステルが錯覚してしまうほどに。
(そんなふうに、彼女には触れているの?)
彼といるのに、彼の仕草一つずつにユーニとのことが浮かんでくる。
(……私の方が、こんなにも好きなのに)
悔しさと、嫉妬する自分へのたまらないほどの後ろめたさ。けれど、どうしても、こんなにも長く好きでいたのにとエステルの胸に思いが切なく込み上げるのだ。
彼の隣にいると、虚しさばかり込み上げて悲しくなる。
昔は、こうして一緒に二人、座っていることを夢見たものなのに。
「エステル」
名前を呼ばれて、胸が熱くなる。
エステルは気づかないふりをして、ぎゅっと目を閉じた。
「俺が、恐ろしいか」
「…………」
「頼む、目を……君を、傷つけはしないから」
もうじゅうぶん傷ついている。
彼がそばにいると、エステルは彼への想いが溢れて、苦しくなるばかりなのだ。
今だって忘れられない。
(忘れ、たくない)
外国に嫁ごう思ったのは、国内なら彼を忘れられないと思ったからだ。
夫なる人に、失礼だと思ったから――。
エステルは、幼い頃に聞いただけの穏やかな声につられるようにして、おずおずと視線を持ち上げた。
そこにあったのは、すっかり大人になってしまった彼の美しい顔だった。
けれど厳しさもなくなり、悲痛そうな表情を彼は浮かべていた。
「え、殿下……? あっ」
彼を呼んだ瞬間、ぐんっと二人の距離感が消え去った。
アンドレアがエステルを引き寄せ、そして自分も顔を寄せて、唇を奪ったのだ。
(え……?)
キスだ、というのは理解した。
柔らかな唇で口を塞がれている。強く、強く押しつけられて彼の温もりをそこに感じた。
(どう、して)
どうして、そんなことをするのか。
甘酸っぱい気持ちが胸いっぱいに広がる。
そのせいで抵抗を忘れていると、ただ押しつけているだけの唇から、すぅっと心地のいい魔力が注がれるのを感じた。
(――あ。アンドレア様の、魔力が)
彼の魔力は、美しい湖みたいにエステルの中に沁み込んできた。