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残念ながらエステルは王太子の婚約者という肩書きと、公爵令嬢という立場から『エステル』と呼んでくれる相手はいなかった。
彼女か、友達作りに失敗してしまったことも理由にはある。
「ふふ、あなたも気に入ってくださったようで、よかったです」
また、心の音、とやらでも聞いたのだろうか。
「違いますよ。エステルは、意外と表情に出る愛らしい女性だったようですね」
「か、からかわないでくださいっ。そういうことは、意中の女性にだけにしていただきたいです」
「おや」
「エルボワ子爵令嬢に求婚したいのでしょう?」
「もちろんです。そのためだけに、私は今回この国の王から届いた手紙に食いつかせていただきました」
彼は隠すことなく、悠々と主張してきた。
「身分を考えると逃げられてしまうでしょう。かといって私は、逃がしたくないのです。一度目で確実に信頼を勝ち取り、交流の許可を彼女からいただきたい」
「……意外と積極的ですのね」
彼ができる軍人でもあることを考えると、協力していいのかちょっと心配になってきた。
けれど、これはリリーローズにとってもまたとないイイ話だ。
「残念なことに、どうも一目惚れした相手にはうまく話せないらしくて。それも彼女に出会って初めて知れた、自分の一面です」
彼は楽しそうだった。
(恋が、楽しいみたい)
そう感じて、エステルは鈍い胸の痛みが蘇ってきた。
本来は、そういうものなのかもしれない。
思えばエステルにも、そんな頃があったのを今になって思い出した。
(あの事件が起こるまでは――私も、彼に次お会いできる日の間もずっと楽しかった、気がするわ)
結婚に全然興味がなく、父王も兄弟達も困らせていたというアルツィオ。
そんな彼が、ティファニエル国王の婚姻提案の手紙にすぐ応えた。
それは国籍も違う、そして身分もかなり違う他国の子爵令嬢との、チャンスを作るため。
もしリリーローズが、エステルも叶わなかった幸せな出会いを果たしたとしたら?
彼と、交流を取れるようになったとしたら――。
俯いていた彼女が頬を染め、笑顔になって異性と話しているのを想像した途端、胸の痛みがすーっと引いていくのを感じた。
(そのために役に立てるのも、悪くないわ)
エステルだって公爵令嬢だ。
必要になった時はアルツィオに味方すれば、彼との婚姻話は立ち消えるだろう。
「いいわ、協力します」
「私の本気を分かってくださって、ありがとうございます、エステル」
彼が手袋を取り、手を差し出してきた。
「これから、どうぞよろしく」
声は聞こえないだろうが、どこからか見ている国王夫妻は、『しばらく交流を取ることにした』とは伝わるだろう。
彼はリリーローズに本気なのだ。
最後のチャンスとやらに貢献すべく、エステルは彼の手を「ふふっ」と笑って握り返した。
婚約解消までの間、鬱屈とした気持ちで過ごすと推測していたが、彼のおかげでいい考え事ができたみたいだ。
「私を利用するのですから、彼女を幸せにしてくれないと許しませんからね」
「もちろんです。では、早速始めましょうか」
エステルは、少し困ってしまった。互いの手が離れるのを感じつつ、会場の人々の方をちらりと盗み見る。
「すぐには無理ですわよ」
その時、彼が声を遮っていた魔法を解いた。
「しばらく領地に戻ってゆっくりされるのでしょう? 努力ばかり続けていらしたのであれば、余暇を楽しむには、いい機会ですからね」
そう理由を作ってしまえばいいと、アドバイスしてくれたようだ。
聞こえている貴族達の印象もいいものだろう。
傷心で、深く傷ついて、婚約解消待ちに……なんて言われるよりは、マシだ。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
手袋をつけ直した彼が、手を差し出してくれたので、エステルは彼のエスコートを受けて立ち上がる。
「エステル、あなたが向かう別荘の住所をあとで教えていただいても?」
まさか、来るようだ。
そう考えて、エステルは当然かとハタと気づく。
別荘には彼女一人で滞在する予定だ。王都と違って周囲貴族の目もないし、秘密の会議やらをするにも、ちょうどいい。
「ええ、メモに書いてお渡しします。ですがアルツィオは、どちらへ行かれるおつもりなのですか?」
エステルと彼の会話に聞き耳を立てていた者達が、名前呼びだと小さく騒ぐ。
「王のもとへ。先程挨拶をしそびれてしまいましたし」
すると、彼がエステルの手を優しく引き寄せて耳打ちする。
「しばらく時間を稼ぐためにも、あなたと交流を持つことにしたのでご許可ください、と報告へ」
「ああ、なるほど」
色っぽい相談ではなかったので、エステルもあくまで平然と頷く。
「私も自国に戻って、できるだけ時間を作れるよう調整してきます」
「そちらの王達もグルなのですよね?」
「はい。私がようやく結婚してくれるかもしれない案件ですから、必死に時間をあけるため協力してくださるかと。あなたの協力も得られたことですし」
アルツィオの笑顔が、見目麗しさ二割増しで輝く。
(結構、いい性格をなさっているみたい……)
優秀で、有能で、さぞ困った息子だとあちらの国の王も思っていることだろう。
まぁ性格の件はあとでいい。
「まずはリリーローズ・エルボワ嬢の情報を集めるためにも、時間を作らなければならないのですわね?」
エステルは彼と共に少し歩きつつ、そっと囁く。
「そうなります。エステルは――」
「私がすることは分かっていますわ。別荘に移動はしますが、父に相談してどうにか調べさせる手段を考えます。そして実行に移します」
「頼もしいですね」
「父には打ち明けても?」
「ええ、もちろん構いませんよ。ベルンディ公爵の力は必要になるでしょう」
そういうことで話はまとまった。お願いしますねと言って、一度アルツィオが手を離して歩いていく。
(ひとまず、紙とペンね)
エステルは、おかげでこの会場内にアンドレアがいることについて、すっかり頭から飛んでいた。
やや駆け足で父の姿を捜す。
「お父様」
「おぉっ、エステル」
かなり気になっていたようで、父は近くのドリンクテーブルの前をうろうろしていた。
「それで、どうだった?」
どう、と聞かれると簡易な説明が難しい。
エステルは住所を書いて渡さなければならないし、とにかく手短に結果を伝えた。
「一番目の婚姻相手の候補者ですけれど、会ってみたら女性を紹介して欲しいと言われましたわ」
「なぜ!?」
「あ、でもこれは秘密でお願いしますわね。お父様にもあとで頼みたいことがございますの」
「ちょっ、待てエステルっ、いったいどこへ!?」
「紙とペンを捜してきます」
父が後ろで「!?」という顔をしていた。