第195話 新たな主を得て生き直す女
「当時は身も心もボロボロでした。あそこではそうして壊れて死んでいく女郎が毎日のように出る世界だったんです」
一同は普段は無口なリンの言葉の一つ一つに憤りを感じながら酒を飲んでいた。
「『岡場所』には無縁墓があるんですが、そこに使い物にならなくなった女郎が埋められない日は有りませんでした。私もいつかはそこに埋められる日が来るに違いない、その日が早く来ることを願いながら変態共の相手をしていました」
リンの言葉には感情が籠っていなかった。同じラスト・バタリオンでどちらかと言うと感情表現が苦手なカウラでも、そこまで無感情に言葉を発することは無い。誠はリンの当時の生活を思いやると、かなめの父が甲武を変えたいと言う思いがなぜ生まれるのか理解できるような気がしていた。
そこでリンの視線がかえでに向いた。見つめられたかえではいつもの妖艶な笑みを浮かべてリンを見つめ返した。
「そこでかえで様に私は救っていただきました。そうでなければその数日後には私は無縁墓に埋められていたことでしょう。かえで様は救い主です。命の恩人です。この命、いつかえで様に捧げても惜しくはありません」
リンの顔に初めて笑顔が浮かんだ。それはささやかで微妙なものだったが、初めて幸せを知った女性の美しい笑顔がそこにあることを誠は理解した。
「そして、私を見受けしていただいた上に、身に余る光栄として中級士族の渡辺家の家名と医大に通う学費まで用意していただきました。かえで様には感謝の言葉しかありません。私にはそんな資格は無いと言うのに……私は最下級の女郎に過ぎないのに……」
そう言うリンの表情は輝いていた。かえでに対する恩と愛にあふれていた。
しかしそのリンに向けてけげんな表情を浮かべるかなめが居た。その表情はいかにもリンの救出劇が出来すぎていると言うかなめの推測が見て取れた。
「おいおい、随分とご立派な話じゃねえか。出来すぎてねえか?かえで、なんでそんな場所にいた?それとだ。中級士族の家名だってそう簡単に買えるもんじゃねえ。何をリンにそこまで気に入った?医大の学費?これもおかしい。軍医を養成する士族しか通えない医大ならいざ知らず、甲武の医大の学費なんて普通の平民には出せる金じゃねえ。何をそこで見た?なんでそこまでリンに肩入れする」
かなめの言うことも一理あった。貴族趣味で庶民的な西園寺家を捨てたはずのかえでが庶民しか行かない岡場所に居ると言うのがまず誠には理解できなかった。
中級士族の家名、医大の学費。どちらもかえでにとってははした金でもただの無名の女郎に払う金額でないことは誠でも分かった。誠はかえでの事をまじまじと見つめた。相変わらずかえでの視線はリンから離れず、その顔にはうっすらと笑顔が浮かんでいた。
「かえでさん。なんでですか?教えてください」
誠も口を突いて出る疑問の言葉に戸惑いつつそう尋ねていた。
「それは……羨ましかったんですよ。僕は」
かえでの言葉はあまりに意外でこの場にいる全員があっけにとられた。
「僕はお姉さまに調教されてそう言う心を持つようになったんです。僕もリンの様に滅茶苦茶にされるのが好きになっていた。リン、お姉さまに感謝なさい」
この場にいる全員があっけにとられるしかなかった。誠はゲームや同人誌の中にしかいないと思っていた本格的マゾヒストに成長していたかえでを見て唖然とするかなめを見て、ただ一人の女性の命を救った事実だけが救いだと思うことにこの場にいる誰もが決めた。
「その時思いました私はかえで様の為なら死ねます」
突然の極端な発言に誠は手にしたままのビールの入ったジョッキを落としそうになった。
「西園寺……結果は一人の人の命を救ったのは良しとしてだ。貴様はかえでをどうしたんだ?どう教育したらそんな妹が育つんだ?教えろ。いくら甲武がおかしな国でも妹にそんな虐待を平気でする貴様の神経はどうかしている。前からおかしい奴だとは思っていたがここまでおかしいとは思ってはいなかった。どうなんだ?」
あきれ果てたカウラはかなめをきつい言葉で問い詰めた。しかし、かなめには反省の色はまるで見えなかった。むしろ、カウラに食って掛かりそうな怒りの表情がそこに浮かんでいた。
「アタシはそこまでひどいことはしてねえぞ!ただ、例のSM作家の作品を読ませてだな……」
ここで全員がすべてがかなめの責任であると察した。ただ、それが一人の女郎の命を助けたことだけが救いだった。
「そうか、自分のせいでは無いと言うのか。では聞くが、その時かえでは何歳だった?そんな深層心理にまで異常性欲の持主のおもちゃになりたがるような作品を子供に読ませて良いと思っているのか?」
なんとか自分の責任を回避しようとするかなめをカウラは激しく糾弾した。
「おいおいおい、そんな昔話はいいじゃねえか。結果、一人の命が救われた。その事実は消えないわけだ。少々かえでが変態になったのは困ったことだが、現状はいい方向に進んでるわけだ。現実を見ようよ、今を見ようよ」
カウラの詰問の様子が酒の場としてはあまりにきつ過ぎたのを見た嵯峨はそう言うと手にした日本酒を口に運んだ。それを見て一同も成り行きで酒を飲み始めた。