第172話 『奇人』と呼ばれた男の脳内
「ふー。疲れったなあ、今度は……すべてが俺の思惑通りとは行かなかったが、まあやるだけの事はやった」
司法局実働部隊隊長室。湾岸の宇宙港からリムジンバスと市バスを乗り継いでここに戻ってきた嵯峨は部下達の報告書に目を通し終わり、ガラクタだらけのこの部屋で大きく伸びをしていた。すでに深夜4時。目をこすりながら通信端末の電源を落とすとそのまま首を左右に曲げて気分を変えようとしていた。
そこにノックをする音が響いた。
「おう!開いてるぜ!遠慮しないで入んな!」
嵯峨の声に扉が開くとそこには彼の娘であり同盟司法局法術特捜本部部長である嵯峨茜がお盆にポットと急須、そして湯のみを載せたものを運んできた。
「なんだ、まだいたのか?若いのは良いね無理が利いて。甲武から帰国してすぐの俺にはこの時間はきついよ」
嵯峨は予想していなかった娘の登場に困ったような顔をしながらそう言った。
「ええ、やはり全五千件の法術犯罪のデータのプロファイリングということになるとかなめさん達やラーナだけには任せて置けなくて……ちょっと遅くなりすぎましたね」
そういうと静々と銃の部品や骨董品が雑然と転がる隊長室の応接セットに腰を下ろした。茜はそのまま湯飲みにポットからお湯を注ぎくるくると回した。
「自分で手を下さねえと気が済まねえってところか?損なところだけ似たもんだな。俺も今回は寿命が縮んだよ。例の07式を遼帝国経由で持ち込んだ件。まさか『ビッグブラザー』が動くとは予想してなかった。俺もまだまだってところかな」
嵯峨は自分が読み切れなかった07式の出現の報告を聞いた時、背中に寒いものが走るのを感じた。
東和共和国だけの平和を守る存在『ビッグブラザー』。その意図と行動原理は理解しているつもりの嵯峨だったが、第三国経由でその目論見の達成を目指して来るとは嵯峨も予想していなかった。
「それより、神前君を助けた法術師の正体。お父様はお分かりなんじゃないですか?」
茜は微笑みながら入れた茶を嵯峨の執務机に置いた。
「こんなことが出来る人間はそう居ない。そして、その中で俺達の行動に関心を持っている人間は俺は一人しか知らないな」
茶を飲みながら嵯峨は渋い表情でそう言っていた。
「『廃帝ハド』彼以外にこんなことをする人間は居ないとおっしゃりたいんですわね」
娘の察しの良さに感心しながら嵯峨は静かに頷いた。
「あの男にとって今の状況は好都合だ。下手に甲武軍やアメリカ軍にあそこに入られるとアイツの野望にとっては邪魔が増えるだけだ。だから俺達に手を貸した。あそこにいたのも恐らくは甲武軍とアメリカ軍の監視をするつもりだったんだろう。奴の代わりを俺達がやってのけたってことだ。奴にとっては好都合だったのか、余計なお世話だったのかそこのところは良く分からないがな」
嵯峨はそう言うと静かに飲んでいた茶を机に置いた。
「これからも出てきますか『廃帝ハド』。正直、これだけは申し上げておきますわ。今の法術特捜では『廃帝ハド』の相手は不可能です。私一人では絶対に『廃帝ハド』には勝てませんから」
弱気な表情を浮かべて茜はそう言って苦笑いを浮かべた。
「あの伝説の支配者の相手をしろだなんて司法局の偉いさんもそこまで法術特捜に期待はして無いんじゃないかな。それにうちだって『廃帝ハド』の相手はギリギリの勝負になりそうなんだ。今後も大人しく俺達の手助けなんかをしてくれると良いんだけど……そうは上手くはいかないわな」
そう言って立ち上がって後ろにおいてあった甲武への旅の荷物を解いた嵯峨は中から生八ツ橋を取り出した。