9話 アイドルへの道?
UKシティ郊外の住宅街。
古びた煉瓦造りのアパートが、並木道の影に隠れるように佇んでいる。長年風雨にさらされて柔らかな風合いを帯びたその外壁は、時間の流れを静かに語りかけてくるようだった。アパートの入口前に一台の深紅の車が静かに停車した。エンジン音が消えると、鳥のさえずりと遠くで響く車のクラクションが微かに耳に届く。
運転席に座るレイがエンジンを止め、後部座席を振り返る。ネルとウタが彼の動きをじっと見守っていた。
「ちょっと待っててくれ。ネルに渡したいものがあるんだ。」
短い言葉にネルは顔を輝かせ、好奇心を隠さずに身を乗り出す。
「レイの部屋、見てみたいな。」
その無邪気な提案にレイは一瞬驚き、すぐに苦笑交じりに手を振った。
「……独身男の部屋に気軽に上がり込むのはやめておいた方がいい。」
彼の真剣な言葉に、ウタが静かに口を挟む。窓際に肘をつき、気だるげに微笑みながら。
「私も一緒ならどう?」
だが、レイの表情はさらに険しくなる。眉間に皺を寄せ、低く答えた。
「いや、それでもダメだ。察してくれ。」
ウタはしばらく考え込むような仕草を見せた後、突然からかうような笑みを浮かべて言った。
「……もしかして、『Hentai』とか趣味にしてる?」
「おいやめろ。」
レイは即座に声をあげるが、その口元は抑えきれない笑いで歪んでいる。
「そんな趣味は無い。」
ネルは聞き慣れない単語に首をかしげる。その金色の瞳に純粋な好奇心が浮かんでいた。
「ねえ、『Hentai』って何?」
レイは慌ててネルの方を向き直る。肩をすくめ、少し笑いを含ませながら返す。
「お前も興味持つな。」
そう言うと、レイはため息をつき、車から降りた。彼の背中はどこか落ち着きがなく、足早にアパートの入口へと向かっていく。その姿をネルはじっと見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「あんな風にされると、余計に気になるよ。」
ウタは肩をすくめ、窓に肘をついたまま、ネルに軽く視線を送る。
「たぶん立場上、《パパラッチ》なんかを気にしてるんじゃないかな。」
ネルは《パパラッチ》という言葉に引っかかりを覚えたが、それを尋ねる間もなく視線は隣のウタに引き寄せられる。彼女の横顔は、陶器のように滑らかで光を反射して輝いていた。その整いすぎた顔立ちは、彫刻のように非現実的で、ネルは無意識のうちに息を呑んだ。
その瞬間、紫の瞳がネルを捕らえた。
「なに?」
不意を突かれたネルは慌てて目をそらし、頬を赤く染めながら小さな声で答える。
「き、綺麗だなぁと思って……」
ウタは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに微笑を浮かべる。その笑みは太陽のように暖かく、どこか子どもっぽい悪戯心を含んでいた。
「あなたもキレイだよ。その金色の瞳は、私たちとは違って有機的な美しさがある。」
ネルの頬はさらに赤く染まり、窓の外へ視線を逃がした。その仕草がウタには愛らしく見えたのだろう。彼女はくすくすと笑いながら顔を近づけ、ネルを下から覗き込む。
「赤くなってる。かわいい。」
「ほ、褒められ慣れてなくて……。」
ネルの小さな声は震えていたが、その正直さがウタの笑みをさらに深めた。
「ユカリさんとのお仕事が終わればウチに来なよ。」
突然のウタの提案に、ネルは驚いたように目を丸くし、彼女を見つめる。その大きな瞳は揺れ動き、不安と期待が入り混じった複雑な感情が浮かんでいた。ネルはしばらく何かを考えるように唇を噛んだあと、恐る恐る口を開いた。
「ウタさんの職場って、アイドルを何人も出してる……アルテ事務所ですよね。もし、わわ私でも……なれるんでしょうか?」
ネルの声には緊張がにじんでいたが、その中に隠しきれない希望の光が見えた。彼女は小さな手を膝の上でぎゅっと握りしめ、ウタの答えを待つ。ウタは少し間を置いてから、迷うことなく答えた。
「なれるよ。」
その即答にネルの表情が一気に明るくなった。頬に喜びの色が滲み、目にはまるで子どものような純粋な輝きが宿る。
「本当ですか!?」
ネルの声が弾けるように響き、車内に明るさをもたらした。しかし、その瞬間、ウタの唇に浮かぶ笑みがわずかに悪戯っぽいものへと変わる。彼女はネルの耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。
「えっちな衣装、着られるならね。」
その言葉にネルは瞬時に真っ赤になり、耳まで染め上げてしまった。言葉を返そうとするが、上手く声が出ない。そんなネルの反応を見て、ウタは満足そうに微笑む。その様子は、手のひらの中で小鳥を遊ばせているような余裕すら感じさせた。
そのタイミングで運転席のドアが開き、レイが車に戻ってきた。彼は車内の妙な空気を察してか、少し眉をひそめながら動きを止める。
「ど、どうした?」
ウタはネルから視線を外し、何事もなかったように答えた。
「別に、何も。」
ネルはというと、耳まで真っ赤なまま視線を伏せ、小さく身を縮めていた。その姿にレイは少し呆れたように肩をすくめると、手に持っていたものをネルに差し出した。
「ほら、ネル。受け取ってくれ。」
ネルが差し出されたものを見ると、それは銀と黒の二丁の拳銃だった。丁寧に磨き上げられた表面が光を反射し、重厚感を感じさせる。ネルは一瞬ためらったあと、その冷たい金属をそっと手に取った。
「これ……?」
レイは無表情を装いながら簡潔に説明を始める。
「もとは友達の銃だ。ダンテが言うには、な。」
ネルはその言葉を反芻しながら銃をじっと見つめた。どこか懐かしいような、不思議な感覚が指先から伝わってくる。ふと、ネルは顔を上げ、レイに問いかけた。
「どうして私に?」
レイは少し視線をそらし、気まずそうに答えた。
「娘に渡せって言われたからな。それに、これから必要になるかもしれない。」
そう言いながら、彼はさらに上着のポケットから赤い宝石が埋め込まれた銀細工のチョーカーを取り出した。それはまるで小さな炎が揺らめくような輝きを放っている。
「あと、これもだ。ダンテの母親、つまりお前の祖母の形見だそうだ。」
ネルはそのチョーカーを手に取り、息を飲んだ。鮮やかな赤い宝石に彼女自身の金色の髪と瞳が映り込み、その美しさに目を奪われる。
「……きれい……」
呟くように漏れた声に、レイは軽く頷いた。
「パトリシアも似たものを持っている。大事にしろよ。」
ネルは小さく頷きながら、宝石をそっと胸に抱いた。宝石のひんやりとした感触が心を落ち着けるようで、その中に祖母の想いが込められているのを感じた。
車が再び動き出すと、窓の外に映る景色が静かに流れ始めた。
ネルは窓越しにぼんやりと外を眺めながら、遠い記憶を思い返していた──パトリシアとすべてを切り離されたあの日。理由もわからず、怒りと悲しみに囚われた過去の日々が脳裏をよぎる。
しかし、今の自分はあの日の自分とは違う。ウタやレイに囲まれ、未来への希望を少しずつ取り戻しつつあった──
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小高い丘の中腹に位置するアルテ事務所は、夕陽に赤く染まっていた。長く伸びた木々の影が建物の壁を横切り、風にそよぐ葉が微かな音を奏でている。その穏やかな風景の中、レイは車を停めると静かに口を開いた。
「着いたぞ。」
レイの低い声が車内に響き、ぼんやりと外を眺めていたネルの意識を現実へと引き戻す。ネルは慌てて身を乗り出し、周囲の景色を見渡した。彼女の目には、大きな建物の輪郭が夕暮れの光に浮かび上がる様が印象的に映る。
ウタが無言で車を降りると、ネルも少し慌てた様子で後に続いた。しかし、運転席に残ったレイが降りる気配を見せないことに気づき、首を傾げながら声をかける。
「レイは降りないの?」
ネルの言葉に、レイは窓を少し下ろしながら目線だけで彼女を見た。その視線はどこか冷静で、それでいて少し警戒心を含んでいるように見えた。
「ああ、週刊誌が目を光らせてるからな。アルテは良くない噂も多い。」
レイの言葉に、ネルは自然と背筋を伸ばした。何気なく言われた一言だったが、彼の口調にはどこか厳しさが滲んでおり、彼女の胸に緊張感を走らせた。ちらりと隣を見ると、ウタはその様子を見て肩をすくめ、微笑んでいる。
「噂って、そんなにひどいの?」
ネルは恐る恐る尋ねる。レイはふっと鼻で笑うような仕草をしながら言葉を続けた。
「あくまで噂だ。しかし世間は噂好きだからな。」
「そ、そっか……色々あるんだね。」
ネルは何とも言えない表情で頷いたが、胸の奥に小さな不安が広がっていくのを感じた。
《パパラッチ》──熱心な写真家の事だが、ネルの頭の中でその言葉が反芻される。その時、ふと視線を横に向けると、ウタが落ち着いた声でレイに言った。
「この子の事は任せて。」
その言葉にネルは少し驚いたが、ウタの表情は終始穏やかだった。まるで、何があっても自分が守ると言わんばかりの信頼感に満ちた態度だった。
「ああ。よろしく頼む。」
レイは短く答えると、エンジンを再びかけた。その瞬間、ネルはどこか置いていかれるような心細さを覚えたが、車が走り去る車をぼんやりと見送るしかなかった。
「さ、君の部屋に案内しよう。」
ウタが促すように声をかけた。
「え? 私の部屋?」
ネルは驚きのあまり目を丸くし、ウタを見つめる。ウタはおかしそうに微笑みながら言った。
「聞いてなかったの? アストラルが君の部屋のドアを破壊したから今日はうちにお泊まりだよ。」
ネルはその説明にようやく思い至り、気まずそうに顔を伏せた。そして無意識に首元のチョーカーを触れる。その赤い宝石は一層輝きを増しているように見えた。
「嫌なら近くのホテルを手配するけど……」
ウタの提案にネルは慌てて顔を上げる。
「いえ!お世話になります!」
思わず声が大きくなり、ネルは恥ずかしそうに俯く。彼女の可愛らしい反応に、ウタは柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
ネルはウタに続いて建物の入口へ向かい、数段の階段を上る。
扉は自動で開き、彼女の目の前に広がったのは、驚くほど長く伸びた通路だった。床には木目調の光沢があり、廊下を挟む壁には大きな観葉植物がところどころに配置されている。ほのかな芳香が漂い、どこかホテルのロビーのような雰囲気を醸し出していた。ネルは周囲の雰囲気に少しだけ緊張を緩めながら、ゆっくりと歩を進めた。
ふと目に入ったのは、壁に飾られた数々の写真だった。ライブステージでの情熱的なパフォーマンスや、自然の中で撮られたロケ写真。どれもプロの仕事ぶりを感じさせる構図で、美しい光と影の調和が印象的だった。ネルはその一つ一つに見入ってしまい、足が止まりそうになる。
「どう? 面白い写真がたくさんあるでしょ?」
ウタの声に、ネルははっとして我に返った。彼女の視線は相変わらず柔らかいが、どこか満足げな表情を浮かべている。
「うん……すごく素敵です。これ、全部アルテの仕事なんですか?」
「そうだよ。私たちはこういうのを撮るのも仕事だからね。」
ウタは軽く笑みを浮かべる。その笑顔に、ネルはほんの少し心が和らぐのを感じた。
そんな会話をしていると、前方から女性の声が聞こえてきた。
「ウタさん、おかえりなさい。」
ネルが顔を上げると、現れたのは、桃色の長い髪をエプロンで束ねた女性だった。彼女は柔らかな笑顔を浮かべながら、ゆったりとした動作でこちらに近づいてくる。
「ただいま。この子を今日からしばらく預かるよ。」
ウタが女性にそう告げると、ネルは急いで頭を下げ、自己紹介を始める。
「ネルです、よろしくお願いします!」
慌てた様子のネルに、女性は優雅に頭を下げて応えた。
「モモです。よろしくお願いします。」
その一挙一動が洗練されており、ネルは思わず見惚れてしまう。その様子を見ていたウタが、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「こう見えてモモはオーナー兼社長だから、私より偉いんだよ。怒らせないようにね。」
「えっ……!」
ネルは驚きと緊張が入り混じった表情で再び頭を下げた。
「そ、それは失礼しました! 頑張ります!」
そんなネルの姿を見て、モモは口元を手で覆い、小さく笑った。どこか温かみのあるその笑い声に、ネルはほっとする反面、さらに身が引き締まる思いがした。
次の瞬間、通路脇のドアが乱暴に開き、勢いよく飛び出してきた赤い髪の女性にネルは驚いて後ずさる。
「ウタ! おかえり!」
その声と共にウタに飛びつき、勢いのまま彼女を抱きしめるその姿は、ネルにとってあまりにも唐突だった。ウタは少し迷惑そうな声を上げながらも、どこか慣れた様子で彼女の肩を軽く押す。
「こら、テト。またそうやってすぐくっ付く。」
「えへへ。」
テトと呼ばれた赤い髪の女性は、ふにゃりとした笑顔を浮かべながらウタにますます体を密着させる。その様子にネルはどう反応すべきか分からず、思わず視線を逸らしてしまった。
ネルの存在に気付いたテトは、ようやくウタから離れると、興味深そうにネルを見つめる。その赤い瞳がネルをじっと捕らえ、彼女は肩をすくめた。
「ん? 誰?」
ウタは少し困ったように答える。
「今日からウチで預かるネルだよ。」
テトはネルの顔をじっくりと観察すると、突然大きな笑顔を浮かべた。
「かわいい!」
ネルは驚く間もなくテトに抱きしめられ、思わず声を上げた。
「ちょ、ちょっと……!」
彼女は腰に手を回し抱き寄せてくる。身体が密着すると甘い香りと柔らかな感触に包まれ、ネルの頭は混乱していた。声を出そうにも喉が詰まるようで、ただ赤い瞳を間近で見つめるしかない。
「こら、テト。困ってるでしょ。離れなさい。」
ウタに窘められると、テトは名残惜しそうにネルを解放する。解放されたネルは、少し息を整えながら、なんとも言えない表情でテトを見た。
「よろしくね!」
満面の笑みを浮かべて手を差し出すテトに、ネルは警戒しながらもおずおずと手を握った。
「よ、よろしくお願いします……。」
テトに握られた手は、思いのほか力強く、ネルはどう対処すればいいのか分からず戸惑うばかりだった。
彼女の手は温かく、柔らかいのにしっかりとした感触があり、ネルはその強さに押されるような気持ちで身を縮めてしまう。テトはそんなネルの困惑にはお構いなしに、満面の笑みを浮かべたまま手を離そうとしない。
ネルは、どうにかこの状況を切り抜けようと必死に考えるが、脳内の混乱がそれを許してくれない。視線を彷徨わせていると、ウタの冷静な声が間を割った。
「テト、ネルに魔力銃の扱いを教えてあげて欲しいんだよ。」
その一言に、ネルははっと顔を上げる。言われた当人であるテトは、一瞬だけ目を丸くしたかと思うと、パッと顔が輝いた。その赤い瞳がさらに大きく見開かれ、期待に満ちた表情でウタに向き直る。
「いいよ! 任せて!」
声のトーンは弾むように明るく、その勢いにネルは圧倒されながらも、胸の奥にじんわりと温かさを感じた。テトのエネルギッシュな反応は、ネルの緊張を少しだけ解いてくれるようだった。
しかし、未だに手を離してくれないテトに、ネルはやはり困惑が拭えない。
ぎゅっと握られたその感触が、逆に彼女の不安を煽るようでもあり、同時にどこか心地よさすら覚えるという矛盾した感覚に苛まれていた──
◇⋆。・゚゚・ :゚・⋆。◇⋆。・゚゚・ :゚・⋆。
「ふう……。」
ネルは深いため息をつき、スマートフォンをベッドにぽんと放り投げた。
そのまま腰を下ろし、ふわりと沈むマットレスの感触にしばらく身を任せる。疲れがじわじわと身体中に広がり、目の前に広がる部屋の光景もどこかぼんやりとして見えた。
この部屋は、ウタから「自室」として一時的に提供されたものだ。
ネルは改めて視線を巡らせた。壁はシンプルな白、少し手狭な空間には、一組のテーブルと椅子、小さな冷蔵庫と電子レンジ、さらにはテレビまで備え付けられている。快適といえば快適だが、どこか簡素さも感じさせる内装だった。
「戴冠式まで居ていいだなんて……しかもこれで家賃がタダなんて高待遇だなぁ…」
そう呟きながら、ネルは自嘲気味に笑った。こんな好条件、普通はあり得ない。何か裏があるんじゃないかと勘繰る気持ちがないわけではなかったが、考えたところで答えが出るわけでもない。彼女は大きく伸びをして、冷蔵庫の方へと向かう。
冷蔵庫の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れる。
中を覗き込むと、ペットボトルの水、陶器のお皿に載せられたケーキ、そして小さな陶器の器に入ったプリンが目に入った。ケーキは透明なカバーで丁寧に覆われ、カバーの上には小さなメッセージカードが添えられている。ネルはそのカードを手に取り、読み上げた。
『棚の中に紅茶もあります、寛いでください♪ モモより』
「手作りかな…? 女子力高すぎ……」
思わずぽつりとこぼした言葉に、自分で驚く。ウタの話に出てきた「モモ」という女性を思い出し、その優雅な仕草や穏やかな笑みが脳裏に蘇る。彼女の存在感は、ただの「社長」という肩書きを超えた何か特別なものを感じさせた。
ネルはケーキには手をつけず、プリンを選び取った。陶器の器に入ったその形がどこか可愛らしく、無意識に手が伸びたのだ。テーブルに座り、スプーンを手に取りかけたその時――スマートフォンが突然聞いたことのない音を立てた。
「なんだろう……。」
驚きながらもスマートフォンを手に取る。画面を見ると、ユカリからのメッセージが届いていた。何気なく開いたその内容に、ネルは目を丸くした。
『潜入成功した? 地下にある武器庫の写真撮って送ってね♡ 』
「えっ……何それ聞いてない……私、知らないうちにスパイになってる? 」
一瞬、画面を見つめる手が震える。その内容があまりに唐突で、しかも危険な香りが漂っている。ネルは全身から力が抜けるような感覚に襲われ、スマートフォンを持つ手がその場で垂れ下がった。
視線をテーブルに置かれたプリンに移す。
滑らかな表面に反射する明かりが、どこか不安を和らげてくれるように感じた。ネルはスプーンを手に取り、深いため息をつきながら一口を口に運ぶ。ほんのり甘いその味が、緊張で硬くなった彼女の心をわずかにほぐしてくれた。
しかし、頭の片隅ではユカリのメッセージがこびりついたまま離れない。どうすればいいのかも分からず、ネルは胸の奥に沸き上がる不安と混乱を抱えたまま、視線を宙にさまよわせた。
今日、一番の困惑が、ネルを襲った――。