17話 芽生え
『意識の覚醒を確認。スリープモードを解除します。』
目が開くと、すぐ隣に彼女の穏やかな寝顔があることに気づいた。まだぼんやりした頭でゆっくりと上体を起こし、現状を確認する。
薄暗い部屋には、窓の隙間から朝日が柔らかく差し込み、埃がゆっくりと舞っている。その小さな粒子たちは光を反射し、静寂の中で微かに存在を主張していた。耳を澄ませば、彼女の穏やかな寝息だけが聞こえる。世界に私たちふたりしかいないような錯覚すら覚える瞬間だ。
視線を落とすと、シーツに投げ出されたブロンドの髪が目に入る。シルクのような光沢を放つその髪を指で持ち上げてみると、するりと音もなく指の間をすり抜けていった。陽光に照らされる瞬間、まるで宝石のような輝きを見せながら、再びシーツの上に解けて落ちていく。
すきま風が少し冷たく、冬の匂いを運んでくる。思わず彼女の温もりが恋しくなり、仰向けで眠る彼女の背中にそっと手を差し入れ、ゆっくりと胸に顔を埋めていく──
温かく柔らかい感触、そしてほんのり甘い香り。それに混じるリズムよく響く心音が、心を満たしていく。目を閉じてその鼓動に耳を傾ける時間は、何よりも特別なものに思えた。
◇
「ウタ、おはよう。」
耳元で聞こえた声に、ウタはまぶたをゆっくりと持ち上げた。目の前には、少し細めた瞳でこちらを見つめるルネがいる。
「ふふ、ずっと抱きしめて寝てたの?」
柔らかな笑顔に、不意に胸がざわめき、ウタは慌てて視線を逸らした。だがその先には、ルネの服の隙間から覗く肌が目に入り、顔が一気に赤くなる。それに気づいたルネがくすっと笑い、ウタの髪をそっと撫でた。その仕草に引き寄せられるように再び目を合わせると、彼女の瞼がそっと閉じられ── 次の瞬間、柔らかな感触が唇に触れる。
唇を離したルネの頬も、少し赤らんでいた。
「さ、起きて朝ごはん食べに行こう。」
照れ隠しのように笑いながら促すルネだが、ウタは唇に残る感触を引きずり、動けない。その胸に膨らむ、今まで知らなかった感情の正体がわからず戸惑い── 何かに飢えたような、埋めたい、切ないような感情が湧いていた。
一方で、ルネはさっさと着替えを終え、ベッドのそばで腕を組む。
「早く着替えて。その格好で下に行くつもりなの?」
「……はい。」
うつむき加減で返事をすると、ルネはいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「その黒い下着、わりと好きだけどね。」
その一言に、ウタの顔はさらに熱を帯びた。今の自分の姿では、確かに食堂に行けるはずがない。ワイシャツとバイクショーツ姿というこの世界での常識にそぐわない格好に観念して、ウタはベッドから立ち上がる。だが、その瞬間──窓の外から甲高い鐘の音が響き渡る。
「……なんの鐘だろう?」
「知らないの?朝の合図よ。」
楽しげにウタを見つめるルネの表情が、どこか日常の安心感を与えてくれる。
◇
支度を終えた二人は宿の一階、食堂スペースへ降りた。ちらほらと客が座り、朝食をとっている。その中、受付の方から声がかかる。
「おはよう! ゆうべはお楽しみでしたね?」
いたずらっぽい笑みを浮かべるアリサに、ルネは手を軽く振るだけ。ウタもぎこちなくそれにならう。
「座ってて、持っていくわ。」
「いや、一緒に行く。」
「……うん、いいけど。」
少し困惑しながらも、一緒についていくウタ。
「選ぶものなんて特にないのに。」
「それでも一緒にいたいってだけ。」
ウタの真っ直ぐな言葉に、ルネが思わず笑う。普段は横にまとめている髪も、今日は後ろで簡単に束ねているため、少し違った雰囲気を纏っている。無料の朝食を受け取り、大きな窓際のテーブルに腰掛けた。
サンドイッチ、柑橘系のジュース──どれも質素ながらどこか安心する内容だ。
「いただきます。」
「いただきます。」
一拍遅れて挨拶するルネ。
「それ、元いた世界の挨拶?」
「うん。そっちは?」
ルネはウタの手をそっと握り、目を閉じて言った。
「テオに。」
「……テオに。」
ウタもぎこちなく繰り返す。
「これがこっちの挨拶よ。」
「短くていいね。」
その場の穏やかな空気に包まれながら、話題は次第に旅の予定へ移った。
「食べたら準備してギルドに行こうかな。」
「ルネの用事はないの?」
「あるわよ。教会でグリアナに会って、それから温泉!」
「楽しみ。」
互いに笑い合う二人。しかし、ふとウタは口を開く。
「でも……もっと急いで首都に行った方がいいのかな。」
そこには、胸に抱えた不安が垣間見えた。ウタの言葉をルネはしっかり受け止め、低いトーンで優しく答える。
「急ぐと怪しまれるよ。グリアナに睨まれてるからね。だから焦らずいきましょう。」
その言葉に少し安心したのか、ウタは小さく頷いた。朝食の空気は、再び穏やかなものに戻っていく。
◇
朝食を終えたウタとルネは、ストーンヘイルのギルドに足を踏み入れた──。
外観は、採石と炭鉱の街にふさわしい威圧感と堅牢さを兼ね備えている。黒く煤けた石材に頑丈な木材が組み合わさり、いかにも重厚な印象を与える建物だ。小規模ながら要塞を思わせるその姿には、長い年月の重みが刻まれている。入口には分厚い鉄の扉が備えられ、その表面には無数の傷跡が残っていた。それらは、過去にこの街で何があったのかを物語っているかのようだった。
「意外と小さいね。もっと大きいと思ってたけど。」
「こんなものよ。さ、入るわよ。」
ルネは勢いよく鉄の扉を押そうとするが、その重さに手こずり、わずかにしか動かない。後ろからウタが軽く手を添えると、扉はあっさりと開いた。
「おお〜!」
思わず両手を胸元に当て、歓声を上げるルネ。どうやら、力を見せつけられるのが好きらしい。ウタは彼女のそんな様子に少し戸惑いながらも、一緒に中へ入った。
ギルドの中は外観以上に簡素だった。黒い木材で組まれた家具が並び、壁にはいくつかの掲示板が設置されている。中に足を踏み入れるとすぐ、受付カウンターにいたウサギ耳の職員が声をかけてきた。
「おはようございます。ご用件は?」
黒を基調とした長袖のワンピースに、控えめな白いエプロン──どこかメイドのような服装に、ウタは思わず声を漏らす。
「メイドさんだ……。」
その一言にルネはくすっと笑ったが、職員は首をかしげるだけだった。ウタの固まった様子に代わり、ルネが用件を伝える。
「この子の身分証の発行をお願いします。」
「……あ、お願いします。」
青髪の職員が軽く頷き、二人を奥へと案内する。足取りは優雅で、スカートが揺れるたびにどこか舞台のような美しさが感じられる。ウタは目を奪われながらも、自分の中で密かにため息をついていた。
── メイド服、可愛いけど……私には似合わないよなぁ。
案内された先で、職員からいくつか質問を受ける。名前や持ち物、推薦者について答えるうちに、少しずつ緊張も解けてきた。リュッカ村の村長やラムエナの名前を挙げると、審査は滞りなく進み、クレジットカードサイズの身分証が発行された。木片を銅で縁取り、特殊な焼印が押されたものだ。
「穴を開けて革紐を通せますが、どうなさいますか?」
「いや、これでいいです。ありがとう。」
ウタはルネの鞄にそれを預けると、ほっと肩の力を抜いた。
「ちゃんと斧と弓を持ってきて正解だったね。」
「うん。」
ウタの手斧は正規兵の支給品で、柄には前の所持者・ラムエナの名前と共に譲渡の旨が記されていた。それが審査をスムーズに進めた理由だと聞き、ウタは改めて彼女の厚意に感謝した。
「よし!次は教会ね!」
「なんか気合入ってるね。」
ルネはギルドを出るなり、弾むような足取りで歩き始める。そして、腰から鞄を取り出し、中から分厚い赤黒い本を掲げた。十字に封をされた鎖がそれを厳重に守っている。
「これを見て!」
「何それ?」
「霊気の本よ!剣でも魔法でも傷つけられないの。聖騎士グリアナなら、何か知ってるかもって思って。」
身振り手振りを交えて嬉しそうに語るルネ。彼女の熱意に引っ張られるように、ウタもその本に興味を抱く。
「へえ……確かに、それはすごい。」
だが、彼女の話に聞き入るあまり、前をよく見ていなかったルネは、ふいに人とぶつかってしまった。フードを深く被った相手がよろけて倒れる。
「あ、ごめんなさい!大丈夫ですか?」
ルネが慌てて声をかけるも、相手は無言のまま立ち上がり、早足でその場を立ち去ってしまう。その背中を不安げに見送りながら、ルネは小さく肩をすくめた。
「やっちゃった……。」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。行こう。」
二人が再び歩き出すと、さきほどのフードを被った人物が建物の陰から顔を覗かせた。その目には明らかな執着が宿っている。そして、低く押し殺した声で呟いた。
「見つけた……あの本だ……。」
◇
しばらくして、二人は街の中心にそびえるテオの石像へとたどり着いた。
その石像は、背中に竜の翼を生やした巻き髪の女性が遠くを指さしているポーズで、今にも「少年よ、大志を抱け」と言い出しそうな威厳を放っている。台座だけでも二メートルの高さがあり、その上に立つ石像は二階建ての建物ほどもある。間近で見上げると、その圧倒的な存在感が胸に迫った。
「大きい……。」
「ほら、さっさと教会へ行くよ。」
圧倒されるウタを、ルネが軽く催促する。石像の指差す方向に目を向けると、その先には目的地である教会の姿があった。
教会に近づくと、敷地内に長い行列ができているのが見える。並ぶ人々は皆、ボロを纏い、裸足の者も少なくない。どこか物悲しさを感じさせる光景だった。
「今日は炊き出しね。」
「手伝う?」
「あんたね……教会関係者でもないのに、さっさとグリアナを探すわよ。」
皮肉を込めたルネの返事に、ウタは少し頬を膨らませる。それでも言われるがままに行列を横目で見ながら先へ進む。行列の先、食べ物を配っている一際目立つ大柄な女性──それがグリアナだった。
「なんて呼べばいいのかな?」
「……そうね、グリアナ卿でいいんじゃない?」
教会でも騎士関係者でもない二人にとって、最も無難な呼び方だった。それを呟いたウタは、自分の声がどこか震えているのを感じる。
──最初の一言って、なんでこんなに緊張するんだろう……。
「グリアナ卿、おはようございます!」
「おはよう。本当に来るとはな。それも朝一番じゃないか。」
柔らかくも堂々とした声で返されると、ウタは少しだけ安心した。しかし隣のルネは、ため息交じりにこう言い放つ。
「アンタが来いって言ったんでしょ?」
ウタはその不用意な一言にハッとしてグリアナの顔色を伺った。だが彼女は意外にも気を悪くするどころか、楽しげに笑うだけだった。隣に控える銀髪で黒い縞模様が特徴的な女性が静かに頭を下げ、ウタも思わず会釈を返す。
「おはよう、可憐な花。身分証を持たずにうろつかれるのは困るぞ。」
昨日とは異なり、グリアナの声には慈愛すら感じられた。ウタはルネの鞄から身分証を取り出し、グリアナによく見えるように掲げる。
「身分証、発行してきました!」
その仕草が可笑しかったのか、グリアナはまた笑みを浮かべた。
「確認した。すまないな。教会の中で待っていてくれないか?」
「早くしてよね。」
ルネの突っかかるような口調にも、グリアナは軽く流すだけだった。二人は教会の方へ向かいながら、ウタが口を開く。
「なんか、妙に突っかかってない?」
「昨日私にあんなこと言ってたくせに、もう別の人を傍に置いてるんだもん。見境なさすぎだよ。」
── 誰かいたっけ?
「あれはただ煽ってただけだったんじゃ?」
「そうなんだけどね、なんか── 」
言いかけたルネに、突然フードを被った人物がぶつかった。衝撃でルネが倒れ、肩から本が滑り落ちる。それを男は素早く拾い上げると、革紐を力任せに引きちぎり、奪い去った。
「な──!?本を盗られた……泥棒よ!そいつを捕まえて!」
ルネの叫びに気づき、グリアナがすぐに反応する。
「シャイラ!」
「はいは〜い。」
銀髪の女性が軽やかに動き出す。それと同時に、ウタも矢をつがえた。弓がギリギリと音を立てる中、ウタの心に迷いが過る。それでも引き絞った弦を解き放つ。
矢は異様な高音を響かせながら空気を切り裂き、盗賊を捉えかけた──だが、間一髪で男はそれを避ける。矢は石像の土台に深々と突き刺さり、その衝撃で男は転倒。勢いでフードが脱げ、彼の姿が露わになる。
「──混血?!」
ルネが驚愕の声を上げ、周囲の人々もざわめき始めた。男の顔には無精ひげが生え、頭頂部の毛は完全に抜け落ちている。しかし、青い毛並みの猫耳が頭に生え、側頭部には人間の耳が二つ。計四つの耳を持つ、混血と呼ばれる異形だった。
「あたしからは逃げられないよお、混血。」
シャイラが軽やかに回り込んで宣言する。グリアナも大剣を構えてこちらへ向かってきた。これで決まりかと思われたが、男は本を掲げ、ルネを見据えて大声を張り上げた。
「オレと取引しよう!」
その場の空気が凍りつく。
「お前、バカなのかニャ?泥棒が何を言い出すのか。」
シャイラが猫のような語尾で挑発するが、男は真剣そのものだ。
「本を盗んだのは謝る!だが、オレはこの本の鍵を持っている!鍵を開けたら本も返すし、鍵もくれてやる。だから見逃してくれ!」
ポケットから鈍い金色の鍵を取り出して見せた。だが、ルネの返事を待つまでもなく、グリアナが割って入る。
「黙れ、混血。この場で私に斬られる以外の道はない。」
その声に誰もが息を飲む。追い詰められた男は震える手で鍵を本の鍵穴に差し込んだ。その瞬間、本から青黒い煙が噴き出し、地面を這い始める。
「やめろ、開けるな!」
グリアナの制止を振り切り、男は鍵を回す。本を縛る鎖が砕け散り、眩い青白い光が辺りを包んだ。本が一人でに開き、金色の模様と文字が浮かび上がる──。
「魔族文字……。」
ウタは、ルネの呟きをただ耳にするだけだった。
同じ頃、ストーンヘイルの荒野で、一つの魔抜けが動き出していた。その動きは、今まさに解き放たれた光に引き寄せられるかのように──。