16話 現環錯視
ストーンヘイルの正教会は町の中心にそびえ立ち、その荘厳な威容で人々を圧倒していた。銀灰色の石材で築かれたその建物には、亜人特有の曲線美を取り入れた装飾が随所に施されている。黒く磨かれた木材の扉は、経年にも関わらず重厚な威厳を失っていない。
その扉を、赤褐色の髪を揺らしながら、丸い耳を持つ女性騎士が軽々と押し開ける。力強いその姿は、どこか熊を思わせた。
彼女の名はグリアナ。正教会の騎士であり、「片腕の暴風」の異名も持つ聖騎士だ。ここは彼女にとって、幼少期から慣れ親しんだ故郷であり、騎士としての「家」でもあった。
しかし、その日の教会はどこか様子が違い、扉を開け奥へ進むとふと声をかけられる。
「おや〜、どうしたんですかぁ?朝の祈りならもう終わりましたよ〜」
荘厳な空気を破る間延びした声。
説教壇の近くに掃除中らしい銀髪に黒い縞模様の耳の虎人族の女性が立っていた。手には箒を持っている。
グリアナは微塵の表情も浮かべず、静かに歩みを進めた。全身にまとった甲冑は重厚そのもので、まるで鋼鉄で形作られた彫像のような威容を放っている。背に担ぐ大剣は見る者を無言で圧倒し、その存在感だけで周囲の空気を変えてしまうほどだ。彼女が歩み寄るだけで、人々の視線は自然と逸れ、時には足早に立ち去る者すらいる。
しかし、そんな事はどこ吹く風。虎人族の女性は笑みを浮かべている。
「見慣れない顔だな」
「えぇ〜?もうここに2年もいるんですけどぉ?」
「そうか。私がここを離れていた3年の間に来たのか」
虎人族の女性を観察しつつ、グリアナは呟く。虎人族は身体が大きい事で知られているが、それでもグリアナの胸元に届くかどうかという程度だ。
「アンタ騎士なの?名前は?」
ここまで圧倒的な威圧感を前にしてなお、これほど軽妙な口をきけるというだけで、賞賛に値する胆力と言えよう。
「名を尋ねるなら、まず己の名を明かせ。それが礼儀だろう」
「は〜い、シャイラって言います。見ての通り、シスターやってます」
シャイラは言うが早いか、その場でくるりと回ってポーズを決めた。その軽妙な仕草に呆れながら、グリアナは自己紹介を返した。
「私はグリアナ。正教会の騎士だ。時にはグリアナ卿とも呼ばれる」
その名に興味津々のシャイラは目を輝かせるも、次には首を傾げた。
「へぇ〜!偉い人っぽいけど、供回りとかいないの?」
「……それは……」
グリアナが言葉に詰まると、シャイラは急に顔を近づけてきた。
「何だ?」
「ビジュ良……」
「何だって?」
小声のつぶやきを聞き取れずにいるグリアナをよそに、シャイラは何かを思案し、ひらめいたように手を打つ。
「あたしが供回りに志願すれば雇ってもらえる?」
「……構わんぞ。しかし、騎士としてその忠誠を示せ」
その言葉に、シャイラは姿勢を正し、左拳を胸に当てて静かに目を閉じた。
「よし、誓え」
「……箒でもいいっすか」
グリアナは一瞬目を細め、周囲を見渡した。普段であれば、こんな不遜な提案に怒りをあらわにしてもおかしくはない。しかし、ここから先、数か月の孤独を思うと、怒る気力すら湧いてこない。
「……特例だ。認めよう」
グリアナの許可が下ると、シャイラは片膝をつき、剣に見立てた箒を両手で掲げて差し出した。
「この牙と爪を、ただ己のためには振るわぬことをここに誓います。この命を、貴方様と故郷のために捧げることを誓います。風が運ぶ声に耳を傾け、大地の鼓動に従い、三つ子月と太陽が見守る限り、正義と忠誠を守り抜きます。
誇りある亜人の名に懸け、私の魂は決して揺るぎません。」
その宣誓は驚くほど滑らかで、彼女の声は教会堂内に力強く響き渡った。厳かな空気と相まって、グリアナの胸には不意に感動が押し寄せる。これほどまでに心を打つ誓いの言葉を聞いたのは初めてだった。
ただ一点、剣ではなく箒を差し出している点を除けば、だが。
「シャイラ、貴殿の誓いを認めよう」
グリアナは箒の穂先を受け取り、そっと彼女の肩に触れさせる。そして間を置き、肩から穂先を離した。これで儀式は正式に成立したことになる。
シャイラは立ち上がると、再び左拳を胸に置いた。共和国の歴史において、これほど奇妙な誓約の場面は他に例を見ないだろう。
目を輝かせたシャイラが箒をひょいと取り上げ、間髪入れず口を開いた。
「給料っていくら貰えるんすか?」
「私の感動を返せ!貴様には誇りがないのか?」
「集めよっか?!」
「” ほこり” 違いだ、馬鹿者...」
笑顔で箒を掲げるシャイラを見て、グリアナは深くため息をつき、頭を抱えた。それでも、彼女の心の奥には微かな笑みが浮かび始めていた。
これからの日々が、少しだけ賑やかになりそうだという予感と共に──
◇
熊人族のグリアナは、遅めの朝祈を終えると厳かな教会の外で静かに待機していた。供回りとは、騎士としての補佐役であり、弟子でもある存在として、そして雇い入れた雇用関係にある。
雇用の件については、すでに教会の管理者である司祭へ報告を済ませている。しかし、肝心のシャイラ本人が「話は終わっていない」と不満を露わにし、現在は司祭と正面切って話し合いの真っ最中だ。
背後のダークオークの扉が怒号によって微かに震えているのを感じたが、それは気のせいだろうとグリアナは意識的に目を逸らす。
ふと視線を巡らせると、町の中心に立つ石像の向こう側、大きな建物が目に留まった。銀灰色の街並みに不釣り合いな異質な構造物。看板には奇妙な記号とともに「温泉」と刻まれている。
「なんだ、あの建物は……温泉?」
グリアナが呟いた瞬間、背後で勢いよく扉が開く音が響き渡った。
「あ〜スッキリした! あの〇〇司祭、人をコキ使いやがって、ざま〜♪」
振り返ると、シャイラが満足げな笑みを浮かべながら堂々と扉を閉めている。その表情には達成感すら漂っている。
「終わったか。」
グリアナが短く尋ねると、シャイラは肩を軽くすくめながら歩み寄ってきた。おそらく司祭に散々文句をぶちまけたのだろうが、先程の発言の内容をグリアナには理解できない。
「あ、グリアナ〜お待たせ!」
「大丈夫なのか?」
「へーきへーき!」
元気よく笑うシャイラに、グリアナはふっと気が抜けたように肩の力を抜いた。再び先ほどの建物に目を戻し、指をさして尋ねる。
「ひとつ聞きたい。あれはなんだ?」
「あれはテオ様の石像っすね。」
「違う。その奥の『温泉』と書かれた建物だ。」
「あ〜あれは湯屋っすよ。行ってみたいけど、けっこう高いんすよね〜。」
グリアナはその言葉を受け、しばし考え込んだ後に一言だけ呟いた。
「旅の疲れを癒すには良いかもしれないな。」
その一言に、シャイラの耳がピクリと動き、目が輝いた。
「では、後で行ってみよう。お前も来るか?」
「マジで?! 絶対行く! 家族風呂ってのがあるんすよ!」
勢いよく飛び跳ねそうなシャイラに、グリアナは苦笑を浮かべながら話を切り替えた。
「まずは昼食だ。話はそれからだ。」
そう言って歩き出すグリアナの背中を追い、シャイラも軽快な足取りで続いた。その動きは妙にしなやかで、何か楽しげですらある。
「でも、教会で食べないんすか? あそこならタダっすよ?」
「教会は孤児や浮浪者の食事を賄っている。我らのように金を持つ者は、外で支払うことで世の中に還元する。それもまた役目だ。」
「よく分かんないけど、グリアナは立派っすね!」
そのあまりに素直すぎる感想に、グリアナは一瞬足を止めて腕を組んだ。そして考え込むような仕草を見せると、ふと目を細めて口を開く。
「……『グリアナ様』と呼べ。私にとっては良くとも、外聞が悪い場合もある。」
「は、はい……グリアナ様……。」
シャイラの虎耳がしおれたように垂れる。その姿に少なからず罪悪感を覚えたグリアナは、小さくため息をついた後で付け加える。
「……私たちだけの時は、好きに呼べばいい。」
「はいっ!」
ぱっと顔を明るくしたシャイラが再び笑顔で後ろにつくのを感じながら、グリアナは静かに歩みを進めた。
◇
昼下がりの食堂は、喧騒と温かな活気に包まれていた。
グリアナは、その賑わいの中に身を置きながらも、どこか無意識に別の存在を探していた。今朝、この場所にいたブロンドの猫耳娘たちの姿。もういないと分かっていながらも、視線は彷徨い、記憶をたどるようにテラス席の一つに近づいた。
ふと目に留まったのは、テーブルの上に落ちている小さな白い羽根だった。グリアナはそれを拾い上げ、無言でじっと見つめた。
「白い羽……鳩のものか。いや、わずかに人間が操るオーラの残り香がするな……」
ぼそりと呟いたその瞬間、隣にいたシャイラが突然勢いよく声を上げた。
「あ!グリアナ様、ここで待っててください!あたしが買ってきますから!」
慌ただしく飛び出そうとする彼女を、グリアナは片手を挙げて制止する。
「待て。これを持っていけ。」
そう言いながら、腰の革袋から銀貨の詰まった袋を軽く投げ渡した。シャイラは慌てて受け取ろうとするも、うまく掴めず勢いよく胸にぶつけてしまい、「どふっ」と奇妙な声を上げる。それを気にする様子もなく、グリアナは再び羽根に視線を戻した。
「あの紫の女……小さいくせに、真っ直ぐ私を見ていたな。まるで……テオのようだった……」
静かな言葉が、空気を切り裂くように落ちた。
手袋を嵌めた甲冑の指で羽根を挟み、軽く擦り合わせる。瞬間、微かな火花が弾け、羽根は一瞬のうちに燃え上がった。その後に残ったのは、ふわりと漂う白い光。それは儚げに揺らめきながら、すぐに消えていった。
消えゆく光を静かに見つめるグリアナの瞳には、複雑な感情が薄い波紋となって揺れていた。それは言葉にしがたい思いだった。確かな形を持たず、どこか遠い記憶を引き寄せるようでもあり、未来の予兆を垣間見せるようでもあった。
胸の奥にひそむ微かなざわめき──それはただの空想とも思えず、何かが、いや、何かが起こり始めているという確信めいた気配を帯びていた。
◇
昼食を早々に済ませたグリアナとシャイラは、温泉へと足を向けた。
シャイラが朝から楽しみにしていた場所だ。
建物は宿泊施設を兼ねているらしく、外観にはどこか異国の雰囲気が漂っていた。木材と布を多用したデザインが、石造りのストーンヘイルの街並みとは大きく異なり、その柔らかい質感が心に妙な落ち着きを与える。
入口で彼女たちを迎えたのは、熊のような体格を持つ狼人族の店主だった。
「いらっしゃい。温泉はおひとり銀貨2枚だよ」
シャイラはその言葉を聞くや否や、目を輝かせながら勢いよく声を上げた。
「あの!家族風呂に入りたいんです!」
「家族風呂は宿泊のお客様専用だよ」
「ええー!じゃあ宿泊でいくら?」
「素泊まりでひとり銀貨5枚」
「高っ!」
店主とのやり取りを聞きながらも、グリアナの視線は内装へと向かっていた。壁や床の作りにはどこか異国の風情があり、ふと「ジパン」という遠い国の文化を耳にした記憶が蘇る。しかし、彼女にとってはさほど興味の湧くものでもなかった。
「ねえ、グリアナも何か言ってよ!」
「様をつけろ、と言ったはずだ」
シャイラが振り返ると同時に、グリアナは彼女の襟首を掴み、軽く引き寄せた。その行為にシャイラが息を呑むのを感じながら、グリアナは静かに店主に向き直る。
「夕食と酒をつけた場合、いくらになる?」
毅然とした一言に、店主の顔色が変わった。
「まさか……聖騎士グリアナ様でいらっしゃいますか?」
「? 如何にも、私がグリアナだが」
その瞬間、店主は深々と頭を下げ、慌てた様子で謝罪を述べた。
「これは大変失礼を……田舎暮らしが長く、世情に疎くて申し訳ありません。お代は結構ですので、どうぞこちらの部屋をお使いください!」
「それは断る。夕食と酒をつけて正規の料金を支払おう」
グリアナの冷静な言葉に、店主は恐縮しつつ料金を告げた。支払いをシャイラに任せ、グリアナは改めて周囲を見渡すと、静かに一言だけ付け加えた。
「良い宿だな。雰囲気が気に入った。また立ち寄ることがあるだろう。主人、名は?」
「リオンと申します。光栄でございます」
鍵を受け取ると、グリアナは礼を述べて階段を上がった。その途中、不意に口を開く。
「シャイラ、家族風呂とは何だ?」
「2人きりで入れるお風呂ですよ! あっ、温泉でしたね!」
その言葉に、一瞬足を止めたグリアナ。しかし今さら引き返すわけにもいかず、無言で歩みを進めた。
部屋の扉を開けると、薄いピンクの布が壁から垂れ下がり、木製のベッドには繊細なレースがあしらわれていた。甘い香りすら漂うようなその空間に、鎧をまとったグリアナが足を踏み入れると、すぐ耳元に囁き声が降り注いだ。
「さあ、グリアナ様。鎧を脱ぎましょう♡」
振り返る間もなく、シャイラが背後から体を寄せてくる。指先が撫でるように甲冑の隙間を探り、その動きにわずかに緊張が走る。
「なるほど、そういう事か……」
シャイラの意図を察したグリアナは、静かに唇を引き結んだ。内心で静かに闘志を燃やしながら、心の奥底で温かい何かが芽生え始めていた──シャイラが、密やかに笑みを浮かべるのを背中で感じながら。