07. 新しい日常
朝起きると、壁の時計を見てベッドから降りる。
「今日は平日だったな」
この世界の風呂は全て水の球体で、あのジェットバスに毎日浸かれるのだと期待していた私は、ホテルに到着したその日に早速、思い知らされる事となった。魔力は貴重らしい。誰でも持っているなら何故、とも思ったが、そこはきっちり管理されていた。週に一度は魔力を納付する義務が有り、
教会に備え付けられた立派な装飾のガラス玉は、個人を識別出来るらしい。魔力を納付すると、壁に刻まれた自分の名前が黒く表示され、一週間後に行くと色が薄れて只の凹みに戻っていた。
コックを回し、温水を出す。魔法の様に始めから温水が出る訳も無く、一分程待つと
一般市民は必ず白髪で、貴族は頭髪の所々が黒かった。階級や当主か否かに依り、黒髪の箇所は細かく定められていた。高位貴族になると黒の割合が増えて行き、全てを黒髪にするのは、国家元首にのみ許される事だった。それと少数だが、栗色や金色、
以前より筋肉の付いた
教会で観察して判ったが、年を取った人は徴収される魔力が少なかった。毛髪量が減ると、魔力も減るのだろう。権力者の肖像画で高齢者が少ないのは、その辺りも関係していそうだ。
バスローブを羽織り、部屋に戻るとテーブルにティーセットが用意されていた。湯気の上がるカップを持ち、唇に近付けるも未だ熱湯だった。この紅茶は置いておけば冷めるが、先週、偉い人の所で出されたお茶は、何時まで待っても冷めず、結局舌を火傷した。あれは魔力の無駄遣いだったなと苦笑し、この熱々のお茶は後で飲もうと決める。持ち手を
最初にこの街を見て、直ぐに仕事探しが必要だと思ったが、どういう訳か誰かに養って貰っている。誰か、と言うのは、始めに聞けなかったから、今更聞き難くなってしまったのだ。何れはちゃんと話さなければいけないと思いつつ、言葉の壁を言い訳にしている。言葉については一応、よく使う名詞や、行く、食べる、寝る、等の簡単な動詞を覚えた。言葉を教えてくれる先生が週六回は来るし、児童向けの教科書が有るから自分でも勉強している。
先生がいないときは、何時も
「貴方、疲れる、不要、長く、私、見る」
これ以降、ぱったりと見掛け無く為ってしまった。洗濯物が洗われて綺麗に仕舞われており、外出先から戻ると掃除が済んで整頓されており、気付けば淹れたてのお茶がテーブルに置いてあるものの、直接彼女を見る事は無くなった。これは間違って伝わったかと心配になって来たので、これから会うララに相談する予定だ。
外出の際は、ララ隊の八人が付き添ってくれる。そして大抵は知らない人の下へ連れて行かれるか、知らない場所へ連れて行かれる。私が出歩きたいと思えば、ドアを出た廊下に立っている誰かに言うと、三十分程で数人が集まる。街中で目に付いたカフェに入れば、付き添いの誰かが支払いを済ませてくれる。……随分と良いご身分だなと、事有る毎に白い前髪を見上げるも、その理由は聞けないでいた。一体どれ程の対価を求められるのか、想像も付かない。後から費用を請求されたとしても、果たして払えるのだろうか。何も言われない現状と、慣れない言葉を理由にして、問題の先送りを続けていた。
アイロンの掛かったシャツを着て、ズボンに足を通す。私が希望して、皆の制服と似た服を用意して貰った。本当は同じ物が良かったが、仕事をしない部外者に貸与するのは、流石に許可が下りなかった様だ。
温くなったお茶を飲んで待っていると、ララが数日振りに
「Hrhmgenhpvrgvrf. dūf nb 見る, enq nb 理解する」
そう言ったララは、口元に笑みを浮かべ、私の腕を引っ張る。ずんずんと歩いて向かった先は、廊下へ出るドアの前だった。立ち止まったララが、右手に持つ傘の柄でコツンとドアを叩く。変わった様子が無く十秒が過ぎる頃、何の前触れ無くドアノブが押し下げられた。勢い良く向こう側へ開かれたドアのその先には、見慣れた廊下は無かった。
壁際に立ち並ぶのは食器棚と流し台で、中央の作業台にはアイロンと、開いて伏せられた本が置かれていた。よく見ると、本の横にはティーカップにお茶
「Gēf hrxniēwāzvrf. 休憩 ce jāegenhxhzn fnvxf, nācēp yf nvxnv 少し ugcūgbf. hrhmgenhpvrgvrf, yf mnih 朝、仕事 yfzh 完了、確り!!」
目を
「不要、仕事、死ぬ、過剰」
出来る限り優しい声で、働き過ぎ無くて良いよと言ったのに、彼女の顔からは血の気が引いて行く。ララも、恐ろしい物を見る目を私に向ける。まだだ、きっと伝わる筈だと勇気を出して、覚えた単語を口に出す。
「一日、許可、休憩、残り、仕事」
彼女の足がぶるぶると震えている。何故だ? 一日の好きな時に休んで良いのに……さっぱり解らない。何が気に入らないのだろう。横に立つララの面白くなさそうな表情を見て、
「ララ、助ける。彼女、上手、仕事」
ララはやれやれと首を振り、彼女の背中を押してこちらの部屋に連れ込む。ドアを後ろ手に閉めると、傘の柄でコツンと叩いた。くいっと首を傾け、こっちに来いと呼ばれる。ララの耳元で揺れる黒髪を見て、地位が高いと顔に近い部分の黒髪が許されるのだったなと関係の無い事を思い出す。不満の無い生活を送っていた筈なのに、先程よりも重い足取りで部屋へ戻った。
――教科書に挿絵が載っていない抽象的な単語や概念的な単語は、解読が難しい。それでも単語を替え、文法を替え、ララが根気良く付き合ってくれたお蔭で、何とか収まった。
私は、年一日の休みで休憩時間も無く死ぬまで働け、と彼女に言っていたらしい。本来言いたかった事を伝えて貰うと、彼女は目を丸くしていた。そして、姿を隠す必要は無い事、ずっと傍に控える必要は無い事、誤解させたお詫び、これらを最早非凡な推察力を持つと言えるララが汲み取り、彼女に伝えてくれた。
丁度良い機会だったので、彼女の給金の出所を尋ねると、何と政府からだと言う答えが返って来た。何故私なんかに税金が使われるのか? そんな疑問に対して、ララは当然の様に
「GRFVWN?」
「Pvfv 知る pvfv する。世界 GRFVWN 完了」
よく解らない単語を聞き直す。
「pvfv?」
「全部、知る、全部、出来る。世界、助ける、終わる」
「それが……貴方」
終わる世界? 世界を助ける? 全部知っていて全部出来るのが貴方?? 混乱する頭を押さえて下を向く。一体全体何をどうしたらそんなに過大な期待を寄せられるんだ? しかも
ああ、嗚呼……働かない生活の代償は、余りに大きかった――。