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04. 異世界の風呂

 翼竜が背負っていた大袋には、血が(かよ)っていた。革だと思っていた素材は、()だった。ヒトで言うところの鎖骨の辺りに肩紐が生え、背中の袋へと伸びている。その袋に入ってみると、中はひんやりと冷たかった。僅かな(かび)臭さを感じつつ、先に中へ入った二人を見ると、彼らも私を見詰めていた。

 何か間違えてしまったのかと焦る私の後ろに続いて、鮮やかなルビーレッドのコートに身を包んだ隊長が入って来る。草原と丘陵が広がるこの地をワンピース姿で歩き回っていた隊長だが、愈々(いよいよ)翼竜に乗り込む段階になって革のコートを着込んだ。寒いどころか、汗ばむばかりに思うが、そこは得意の氷魔法で対処するのだろう。

 それに、洋服を汚さない為のコートでも無さそうだ。カンガルーの袋は不衛生で悪臭が溜まっていると聞くが、この翼竜の袋は快適そのものである。……ああ、この袋の様に、魔法が掛かったコートだったのかと合点(がてん)がいったところで、隣に来た隊長が、私の顔をじっと見る。たっぷり十秒は黙って、口を開いた。

「……Dūf Mzveqng」

 見詰め合っていた目を逸らされた。隊長が鼻を(つま)む。いや、真逆(まさか)、道中も綺麗めの水溜まりを見掛けたら体を拭いていたし、髪は何度か洗ったのだ。そこまで臭い筈は無い、と慌てて他の二人に視線を移すと、二人は揃って明後日の方向を見ていた。こちらを向かない隊長に力強く手を引かれ、袋から()い出た。

「Cmyvqbšnan ugyvxgn jne pvrah mghaqh!」

 隊長が大声で叫ぶと、近くの翼竜に四人ずつ乗り込んでいた隊員が直ぐに復唱し、周囲にも命令が伝達されて行った。命令だった、と思う。少なくとも、私の悪口を広げたのでは無いと信じたい。

 魔力を集めるガラス玉を持っていた男、他より顎髭(あごひげ)が目立つからヒゲと呼ぶ事にするが、私の後に続いて袋から這い出てきたヒゲは、ブリーフケースを持っていた。この大袋には、私の荷物を含めて様々な物が詰め込まれているが、その内の一つだろう。

 焦茶(こげちゃ)のブリーフケースを開くと、左半分に手のひらサイズの紙束、右半分に小瓶と革袋が入っていた。ヒゲが紙束から一枚を引き抜くと、それはカードだった。正方形の厚紙には、文章が型押しされているものの、インクは付いていなかった。

 ヒゲが杖の先端を(ひね)り外すと、中に黒い液体が見えた。成る程、ガラス玉で集めた魔力は、各自の杖に注いで使うらしい。そして、杖の魔力溜まりに指先を浸したヒゲは、そのまま凸凹(てこぼこ)の白いカードに指を(なす)り付けた。

 カードの細い罫線に沿って、魔力が流れて行く。罫線と接する様に文字が配置されており、(へこ)んでいた部分に次々と黒い文字が現れ始める。全ての文字に魔力が通ると、カードから水が溢れて、球形に立ち上がった。この球体はどんどん成長し、ヒゲより一回り大きいサイズで膨張が止まった。

 そうこうしている間にも準備を進めるヒゲは、ブリーフケースから小瓶を取り出し、コルクを抜いた。瓶を傾け、球体に向けてタラッ……タラッと二振りする。瓶口から親指へと液が垂れるのを気にもせず、直ぐに栓を締めて紙束の横に戻した。濡れた手をコートで拭き、今度は小瓶の隣にある革袋を手に持つ。

 革袋の中には、抹茶色の石鹸が入っていた。無骨(ぶこつ)な長方体で、抹茶チョコレートにも見える。腰に付けた鞘からナイフを取り出し、石鹸を薄く削る。鍋の上で切り、そのまま鍋に落とす様な手付きで、器用にナイフを滑らせる。チューリップの花片(はなびら)程の薄さになった石鹸が三枚、球体に投げ入れられた。

 この頃には、球体の水が回転を始めていた。洗濯機にも見えるが、経緯を考えると、やはり体を洗う魔法だろう。無色透明だった水は、石鹸を入れた事で緑がかってた。そこにヒゲが手を入れる。回転する水に、空気が入り込む。泡が見え始めたかと思うと、見る間に小さな気泡となった。

 ヒゲがブーツの紐を解き、足を引き抜いた。続いて、コートのボタン外していく。上から一つ、二つ、三つと見る見るうちに手が下がり、最後に両腕を揺すると、袖から腕が抜けて、コートが地面に落ちた。……折角球体の使い方を見せてくれたが、そろそろ向こうへ行った方が良さそうだ。

 球体の回転方向は、北半球と南半球で違うのだろうか。地球なら無視出来る程度の影響でも、魔法が絡むと解らないからな、等と既に切り替え始めていた私だが、結局ヒゲはそれ以上脱がず、シャツやズボンを履いた状態で、ざぶざぶと球体に入って行った。……詰まり、体と一緒に洋服も洗濯すれば、一石二鳥と言うことだ。

 球体の上部で、ヒゲの頭が見え隠れしている。息を大きく吸って、ざぶん。中で頭を洗う。段々水が黒みを帯びてきた。これを人に見られるのは恥ずかしいかも知れない。私が入るときは、石鹸を多めにしよう。あれ、若しかして同じ球体で続けて体を洗うのか……? 足と頭が生えて汚れた球体を見る。いやいや、そもそも、どうやって石鹸を洗い流すのかも判らない。次第に騒がしくなってきた後ろを振り返る。

 隊長は椅子に深く腰掛け、部下がポットでお湯を沸かす様子を眺めていた。あの椅子はヒゲが土から作り出したものだ。食事の際とは違い、ゆらゆらと前後に揺れる椅子だった。先程は出発間近だったが、私のせいでティータイムになった。そして隊長の求心力のお蔭なのか、誰からも責められない現状に安堵していた。それでも、これから体の汚れを落として、髪を乾かすところまで済ませるならば、ヒゲを眺めている暇など無かったのかも知れない。どこか時間を無駄にした気分になる。

 とは言え、魔法だ。待ち望んだ魔法である。他人の魔法に目を奪われるのも悪くないが、地球を()て異世界まで来たのだから、自分でやらないでどうすると言うのだ。あのガラス玉に触れた時点で、私に魔力が有る事は判った。魔力は魔法の行使に必要だと相場は決まっているから、魔力がある私は魔法を使える訳だ。

 高鳴る胸に身を任せ、焦茶のブリーフケースに手を伸ばす。カードの束から、一番上を()まみ取って隊長の下に向かう。隊長は、氷の小さいカップと、氷の削り器をテーブルに乗せて待っていた。エスプレッソを飲みたくなる小ささのカップには、黒い魔力が入っていた。削り器の方は卓球のラケット状で、持ち手から先端まで氷で出来ている。玉を打つ面には細かい穴が無数に空いており、チーズを削れそうだ。詰まり、これで石鹸を削れと言う事だろう。

「ありがとう隊長!!」

 通じない(なが)らもお礼を言って、氷のカップに指を――浸そうとしたところで、隊長に腕を掴まれた。反対側の手で、ヒゲを指差している。

「pnv tvaāg, eā fvrgbg līxh?」

 口元を(ほころ)ばせて、そう言った。ヒゲを包んでいた球体は、徐々に空へと浮かび上がっている。服が張り付いた脹脛(ふくらはぎ)が見え、続いて太腿(ふともも)が見え始める。暫くすると、全身に泡を付けたヒゲが地面に取り残され、球体は五メートル程離れた場所に落ちて崩れた。古い球体が地面に染みを残すと、ヒゲに踏まれていたカードから再び球体の成長が始まった。今度はあれで石鹸を洗い流すらしい。近くで副隊長が焚き火を起こしているのを見るに、乾燥は原始的な方法なのだろう。

 隊長に付いて、テーブルから離れた場所に移動する。差し出された氷のコップに右手の人差し指を突っ込み、左手に持つカードの文字に指を滑らせた。黒い文字がさっと浮かび上がり、(つい)に魔法が発動する。食い入る様に球体が出来上がる様子を見ていると、横で隊長が石鹸を()り下ろし、水に色を付けていく。……ヒゲよりたっぷり入れられた事で、臭い体をよく洗えと言う非言語の意思が伝わって来る。

 杖から炎を吹き出させている副隊長が寄って来て、球体を温め出す。手持ち無沙汰になった私は、手を球体に突き刺した。直ぐに空気が入ると思ったが、意外にも上手く行かない。隊長が隣で手本を見せてくれる。ゴポッゴポッと音がして、シュワーと細かい泡が出来上がる。このまま何時までも遊べそうだが、泡(まみ)れで立ち尽くしていたヒゲの姿が頭を(よぎ)る。

 そうだった。皆を待たせている事も申し訳無いし、この魔法にも制限時間が有る。入浴セットが入ったブリーフケースから小瓶を取り出すが、隊長は首を振り、右手でピースしている。球体に入れるのは二振りまで! では無く、どうやら(すす)ぎの際に使うものらしい。あのヒゲは、面倒だから石鹸と一遍(いっぺん)にして入れたのか。人に教えると言うのに、大雑把な男である。

 また隊長に感謝して、靴を脱ぐ。数歩後ろに下がり、助走を付けて一気に球体へ飛び込んだ。夏のプールに入る爽快感と、耳元でシュワシュワと微細な泡が弾ける音が楽しい。体を伸ばし、球体の上から顔を出す。真っ先に、ヒゲが風の球体に揉まれている様子が目に入る。焚き火の熱風で乾かしているらしい。あちこちから笑い声が聞こえ、テーブルの方を見ると、皆がこちらを見て盛り上がっていた。黒ずんだ球体に頭を引っ込める。頬に当たる水が生温(なまぬる)かった。

 水の中で髪を振り洗う。この後、体の汚れを落とし終えたらあの翼竜の袋に入り、空を飛ぶ。行き先は果たしてどんな所だろうか。異世界らしく魔術都市か、迷宮都市か、ひょっとすると冒険者ギルドなんて組織が実在するかも知れない。それと、他の何より先に言葉が通じないと、どうにもならない。連れて行かれた先に依っては、言語の問題は身分に直結するだろう。

 濁った水の中で、前後左右の感覚が(うしな)われる。唯一、上から降り注ぐ光だけが私を正気に留まらせていた――。

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