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02. 異世界の人

 永遠にも思われた平地を抜け、木々が(まば)らに茂る丘陵地(きゅうりょうち)に踏み込んでいた。登った丘を下り、次の丘を越えた先に見えるのは、新しい丘だ。脚の影を踏み、歩を進める。太腿(ふともも)の裏だけで無く脹脛(ふくらはぎ)までも筋肉痛になり、気が滅入(めい)る。こうして動いている時は然程(さほど)気にならないのだが、休憩後の始めの十数歩は特に痛む。次の休憩を心待ちにすると同時に、待ち構える筋肉痛に気が沈む。

 先の展開が判っていようが、歩み続けているのだから、この丘の頂上にも辿り着いてしまった。背中の荷物をどっかと草の上に下ろし、汗ばむ脚は黒い土の上へと投げ出す。大きく息を吐き、代り映えのしない景色を眺めた。折角(せっかく)登って来た丘だが、次の丘へ行くには、また直ぐに降りなければならない。視線を後ろに向けると平地は既に見えず、越えてきた丘が連なるだけだった。

「このまま世界一周になりそうだな」

 腕から力を抜き、地面に寝転がる。見飽きた大空が目に映った。初めの場所から此処まで、確かに進んではいる。平地は抜けたし、丘陵地もいずれ終わるだろう。しかし、どこまで行けばこの世界の住人に会えるのか、皆目見当も付かない。ともすると、人を探して進んだ先にあるのは、世界をぐるっと回って出発地点に辿り着く結末かも知れない。

 やけに冷たい風が、疲れた身体に心地良い。暫く目を瞑っていたが、地面が僅かに揺れている様な気がして、身体を起こす。汗で湿ったシャツが、パキパキと音を立てる。吐き出す息が、白く天に上がる様子をたっぷり三呼吸は見て、跳ね起きた。鳥肌が立つ腕には霜が付き、寒さに震え始めている。捲り上げていた袖を一気に下ろし、足元に置かれたリュックを背負う。

 辺りを見回すが、何も見当たらない。視線を上げ空を見ると、二つ先の丘の上空に雲が集まっていた。あそこで何かが起きている。逃げるべきか、行くべきか。

「はっ」

 愚問だなと自嘲して、私は走り出した。(もつ)れる足にも気を留めず、丘を駆け降りる。靴の下で草が割れる音がする。霜を踏み壊す感触が徐々に減り、凍った地面が固くなっていく。荒くなる息を感じ乍らも、次の丘を登る。

 照り付ける陽射しに、凍る大気。この現実離れした現象を引き起こせるのは、魔法をおいて他に無いだろう。少なくとも私は、その様な気象現象を知らない。何しろ、先程までは寒さとは無縁の土地であったのだ。やろうと思えば、現代科学で再現は可能だろうが、此処は異世界なのだから、魔法であって欲しいと思う。登り坂が終わる頃には、集まっていた雲が薄れ、肺を刺すような冷気も和らいでいた。耳や指先は相変わらず冷たいが、どうやら魔法は終わってしまったようだ。

 仰ぎ見る空から、丘の中腹へと視線を下げると、そこには()()がいた。直立二足歩行しているから、サヘラントロプス=チャデンシスだろうか。いや、紫がかった赤色のワンピースから覗く腕は、毛を剃っているのかも知れないが、それでも猿人には見えない。ならばホモ=ハビリスと言いたいが、身長が一・六メートルはあるから、ホモ=エレクトスだろうか。丘の下へ向かって、何か叫んでいる。言語を使用しているから、原人でも無さそうだ。腰まで伸びる白髪を(なび)かせ、()()がこちらに振り向く。その顔に眼窩上隆起(がんかじょうりゅうき)は無く、(あご)も突き出ていなかった。一見して、ホモ=サピエンスに見える。教科書に書いてあったが、私はホモ=サピエンスらしい。詰まり、彼女と私は同じ仲間だ。笑顔で彼女に手を振ると、水の塊が飛んで来た――。

 彼女の立つ数百メートル先から、サッカーボール大の水がこちらへ発射された。数は五つで、着弾までは約二秒だったから音速は超えていない。そして慣性の法則は働いていなかった。何故そんな事が判るのかと言えば、身を以て体感したからだ。(せま)り来る水を見て、逃げようと思った瞬間には、既に捕らわれていた。ぶつかった衝撃は無かった。水の塊は、私の体を(はりつけ)にした。足こそ地面に付いているが、四肢と首元を覆う水は、物理法則など知らない様だ。空中に固定された私は、初めて身に受けた魔法に抵抗の術も解らず、闇雲に足掻(あが)いた。無論甲斐(かい)も無く、目の前に少女が到着する。

「Pnv nh yfv grfvwn?」

 少女が下から私の顔を覗き込み、その鈴を転がすような声で何かを尋ねている。混乱する頭の中で思い当たる言語を総当たりするも、何を言っているのかさっぱり解らなかった。状況を考えれば、私の身分や敵対の意思を確認しているのだろうが、この異世界で、それも身振りだけで伝えるなど果たして可能なのだろうか。思い悩んだ末、結局諦めた私の口を衝いて出たのは、情けない懇願だった。

「ま、待って! お、お願いします。助けてください。役に立ちますから!」      

 少女は目を見開き、後退る。この好意的では無い反応を見るに、知らない言語で(わめ)き出した私に衝撃を受けた様子だ。外国人慣れしていないとは、余程閉鎖的なコミュニティに違いない。若しくは、敵対する国の言語と聞き間違えたのかも知れない。参ったな……と途方に暮れかけたが、不意に拘束が解かれる。

「Pnv dūf hrfncebgng, eb yf mnxh? dn gēf xbfvzvrf om jvyfēgh, pneoūg gēf pneēfvz nb ugevfvaāg, vrg pnv nh pnev xbgvrf ue ghzf?」

 何を言っているのか、全く解らない。緊張と期待の見える表情から推測するに、これは重要な問いだろう。とは言え、内容が解らない上に、否定したところで何か説明が出来る訳でも無いので取り敢えず、(うなず)いておく。

「Jvyfēgn ugebqnf ucghirav jhfqvranf venhpvran uggāyhzā ue xentba」

 少女が安心した様に破顔した。警戒してこちらに向けていた傘を下ろす。右手に握る躑躅(つつじ)色の傘は、ワンピースと同じ色をしている。傘の柄には、紋章とルビーが(あしら)われていた。どうやら正解を引けたな、と安堵する。丘の下から駆け寄って来る人々が見えた。今になって荒い息に気付き、何とか整えようと大きく息を吸った。

 帽子の(つば)に見え隠れする少女の目は、こちらを(うかが)っている。顔立ちは十代後半で、新雪のような白い肌に虹彩は灰色だ。これだけなら、よく見るコーカソイドだが、特徴的なのはその毛髪だった。絹の様に白く、腰まで伸びている。頬に触れる辺りには灰色の髪も見えるが、(まゆ)(まつげ)も含めて全体的に真っ白だった。

 続々と男達が集まって来た。彼らも髪色は全体的に白く、揃いの制服を着ていた。ブーツに長ズボンにシャツにコート。この暑い土地でコートを羽織っている。首元にはスカーフを巻いているが、あれも暑いだろう。明らかに、普段この辺りで活動していない人達だ。彼らは私の黒髪を見ると、皆一様に驚いた顔をした後に、杖を構えた。

 また磔か……痛い訳では無いのだが、やられて嬉しいものでも無い。そう思って両手を上げていると、少女が声を張り、何かを言った。

「eā lrqmng, jrefbanv hni hbqbzn jergbgvrf. crfcēwnzf, pvņš ce jenivrgbgnvf grfvwn, vrg pvņš hrfncebg gūfh pnybqh, oa gēf pvņh ugirqīfvz om jvyfēgh, fnv nvrfāgh. cmghevrgvrf jerg pvņh jvrxyāwītv」

 私に向けられていた杖が下ろされる。ゆっくり近づいてきた一人が、駝鳥(だちょう)の卵程の大きさのガラス玉を差し出す。台座は大雑把に装飾された金属製で、玉の上部には対となる冠があった。金属とガラスの間には、傷付かない様にベージュの革が挟まれている。ガラス玉の中は空洞で、液体が入りそうだが、注ぎ口は小さく、玉の上部にストローを差し込む程の穴があるだけだ。ブラシは入りそうに無く、どうやって洗浄するのか不思議だ。

 差し出されたガラス玉を受け取ろうとすると、手を引っ込めて首を横に振られた。……私にくれる訳ではないらしい。首を傾げると、彼は玉に手を(かざ)す仕草をして見せた。彼を真似てガラス玉に手を近付けると、腕に抱えられたガラス玉が、不意を突くように持ち上げられた。ガラス玉は私の手に当たり、その触れた箇所からはタールの様に黒い液体がドロリ垂れ、内部に落ち始めた。頭がひんやりと冷たい。前髪に目を向けると、黒かった髪の色が薄れ、白くなって行く。正確には無色透明な毛が白く見える訳だが……成程、彼女達の髪が白いのは、これが理由か。

 三分程経つとガラス玉の半分が黒い液体で満たされ、私の手からも垂れて来なくなった。黒い水銀に見えるこの液体は、恐らく魔力と言う物だろう。初めて会った彼女が、いきなり水の塊を飛ばして来たのも、若しかするとこの黒髪に原因があったのかも知れない。

 身体検査を終え、荷物を預けると、彼らに連れられ丘を下り始めた。気遣っているのか(しき)りに話しかけてくれるのだが、相変わらずその内容は理解出来ない。言葉は通じなくとも、彼ら七人の指揮官が例の彼女なのは明白だった。先頭を歩く彼女は、傘を差して日除けにしている。あれは魔法の行使に必要な道具だと思っていたが、敢えて傘の形をしているのは、どうやら日焼け対策の為らしい。

 こうして道中は賑やかになり、更に丘を下った先には、翼竜の、恐らくケツァルコアトルスがいた。

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