第百二十二話 風のわたる日(7)
「休暇に入ってしまえば街は静かなもんです。でも休暇の前夜はいけません。昨夜はこの屋敷にもかなりの数の市街警備軍が詰めていたんですが、やれケンカだ酔っ払いだと、役人から市街警備軍までてんてこ舞いでね。ひとつひとつはどれも些細な事案ですけども、まぁ数がね」
「そんな大事な時に兄は休暇なんですか」
責める意味はもちろんないが、あえて忙しい時期に休むのは不自然な気がした。
「エリッツ様、休暇前夜の事案はどれも『些細』なんですよ。どれも似たり寄ったりで、指示がなくとも人数さえいればなんとかできる。判断や指示が必要な重大な事案は街が静かなときに動き出すもんです。旦那様が一日早く休暇に入って早々に切り上げられるのはそういうことです」
市街警備軍で長くやっている兄がそう判断しているのならそうなのだろう。エリッツはあまりピンとこなかったが、確かに昨夜エリッツが追いかけられた件などを通報したとして、わざわざ兄の判断と指示が必要なほどの事案ではない。その場に行った役人か軍人が仲裁しておしまいだ。あとは役所で調書を取るなどの作業はあるだろうがそれは軍の管轄外だろう。人員の采配なども兄でなければできないということもあるまい。
「街に人が減ってくると動き出すのは暗部の方々ですからねぇ。人混みにまぎれて、という展開もあることはありますが裏の裏を読み続けたらいつまで経っても休めやしません」
この料理人の男、どういうルートを持っているのかわからないがこの屋敷内の事情に通じている。
「そんなわけで昨夜は人手も足らなくて、屋敷内のことをわざわざ気にしている余裕なんてなかったんでしょうね。まさかご実家から戻られたばかりの奥様が『出動』してしまうなんて、誰も思わないでしょう」
確かに。それはそうだ。エリッツは深く頷いた。
「エリッツ様のお名前が出たからなんですよ」
「え? おれの?」
「お友達が通報したんじゃないでしょうか。エリッツ様が暴漢に追われていると」
もしかしたらカーラが逃げた後に役所に連絡してくれたのかもしれない。
「私はここで仕込みをしていましたから実際どんなやりとりがあったかは知りませんよ。馬車から降りた奥様がたまたま役人たちの報告を聞いてしまったみたいで。追われているのがエリッツ様だっていうからみんな大騒ぎだったらしいですよ。もしエリッツ様に何かあれば旦那様が……」
料理人の男はそこで言葉を飲みこんだ。
言いたいことはわかる。結局ここにも迷惑をかけてしまっていたようだ。エリッツは恥ずかしさにうつむいた。
「ただ街中を逃げているらしいという情報だけではどうにもできません。軍人の多くが街に駆り出されている状況ではなおのこと総力戦というわけにもいかんでしょう。その間にもどんどん役人に呼び出される」
エリッツも逃げながら漠然と市街警備軍が助けてくれないだろうかと思っていたが、よく考えれば移動しながら助けを待つというのは無茶があった。
かといってエリッツの立場上、相手が暴漢とはいえ万が一大怪我を負わせてしまった場合、今度はシェイルに迷惑をかけてしまうことになりそうである。ここは戦場ではないし、ましてやエリッツは役人でも軍人でもない。
「あとは詳しくはわかりません。人通りの多い街中を逃げているならば追加の通報が入るだろうとみんながやきもきしながら待っている間に奥様の姿が消えていたようですから。みんな屋敷の中に戻ったんだろうくらいに思ってたんじゃないですかね。奥様が街に出ていたと気づいたのはエリッツ様を連れて戻られたときだったと聞きました」
状況は飲みこめたが、やはりフィアーナの行動が謎である。結果的に奇跡のようなタイミングで助けてくれたわけだが、なぜあの店にエリッツや暴漢たちが戻ってくると考えたのだろう。
以前もフィアーナは兄に鋭い進言をした(そのせいでエリッツは大怪我をしたが)ということがあった。ほとんど口を開くことがなく何を考えているのかわからないが、実はかなり勘が鋭いのかもしれない。
正直あまり積極的につきあいたくはないが、今回のことはきちんと礼をいっておくべきだろう。
「エリッツ様、これも召し上がってください。今日は市場が休みなんで、試しに保存しておいた干し肉をちょいと工夫して作ってみたんです」
やわらかく煮た干し肉と木の実のようなものが小皿に盛ってある。休暇になると新鮮な食材が手に入らないので苦労するのだろう。
エリッツは木の匙を使って肉を口に運ぶ。干し肉だったとは思えないくらいにやわらかい。
「やわらかいです」
感想ともいえない感想を述べたエリッツを見て料理人の男はうれしそうに頷きながら、また何かを出そうとしている。エリッツはあわてて口を開いた。
「フィアーナさんはどこにいるんでしょう」
礼を言って早く寮に戻ろう。カーラたちはもう帰省してしまっているかもしれないが、もしまだ残っていたら無事だったことを知らせなければならない。
「さあ、どこでしょうね。だいぶ早くに朝食を召し上がっていたみたいですが、どこか出かける予定でもあったんでしょうか」
そのとき、にわかに外が騒がしくなった。兄の部下たちが庭を走り、使用人たちも慌ただしく動き回っている。
「何があったんでしょうか」
厨房の窓から外を眺めながらエリッツが聞くと、彼はさして気にする様子もなく「もうお戻りになったようですね。なんだかんだといっていつも早く戻られる……」と、エリッツの隣に来て外を見る。
エリッツがよくわからない顔をしているせいか「旦那様ですよ」と付け足してくれる。
早く寮に戻ろうと思っていたがそれは難しくなったようだ。もちろん兄には会いたいし時間さえあればゆっくりしたいのだが、今の状況では落ち着かない。
「おや、これはえらいことだな」
一緒に外を眺めていた料理人の男がやれやれというように肩をすくめた。
「シャンディッシュ家のお坊ちゃま方もご一緒だ。お酒のおつまみと昼食をこしらえないと」
えらいことだと言いながも動きはのんびりしたものである。
今日はこっちで宴会でもやるつもりなのだろう。――ということは、まさかフィアーナは何かを察して早々に出かけたのだろうか。さすがにそこまで鋭くはないと思うが。
「料理長、旦那様と客人のご昼食をどうしましょう」
「旦那様が少しだけ御酒を召しあがるとのことです。急なので昼は軽くでいいとおっしゃっていましたが」
料理人たちが続々と厨房に集まってくるので、エリッツは邪魔にならないようにそそくさと退散した。
とりあえず兄たちに挨拶をしてこないと。昼間から飲むようなので早くしないとまた長居してしまうことになる。
ホールの方まで行くとダグラスたちの声が耳に届いた。エリッツの胸が大きく高鳴りつい小走りになってしまう。
たった一日休んでいただけでもいろいろと心配だったらしく、あれこれと部下にたずねている兄の声と、ディケロとマルクが雑談しているらしき声、使用人同士があわただしく段取りを相談しているようなひそやかな声が混じり何だか浮き立つような活気が漂っている。
エリッツ自身もなんだかんだといって兄に会えるのがうれしい。
ホールへ出るとすぐにダグラスがエリッツを見つけてくれる。
「エリッツ、心配した」
部下との話をわざわざ中断して、両手を広げる。エリッツは迷わずそこへ飛び込んだ。
「兄さん、久しぶり」
エリッツの頭をゆっくりとなでて抱きしめてくれる。
「それより昨夜は何があったんだ。怪我はないのか」
ダグラスの指が確認するようにエリッツの髪をすく。
「平気だよ。フィアーナさんが……」
そこまで口にして、きちんとした家の奥方が街で暴漢相手に立ち回ったなどという話を夫である兄にしてもいいものかと迷いが生じた。
だがそんなことはとうに兄の耳に入っているようで「ああ、聞いている。間に合ってよかった」などと心底安心したようにうなずいている。
普通は妻に対して危ないことをするなと怒るものではないだろうか。やはり変な夫婦だ。
「相変わらずだなぁ」
ディケロがあきれたように隣でため息をついている。
「なぁ、早試に通ったんだって?」
マルクも休暇の浮き立った雰囲気をまとわせてエリッツに近寄る。
二人とも休暇中なのだろう。元気そうで何よりだ。
いけない。雰囲気に流されかけている。
「兄さん、ちょっと寮に戻って友達に無事であることを伝えてくるよ。だから――」
「そんなこと人を遣ればいい。おい、誰か――」
ホールの使用人たちがいる方へ大声を張るダグラスの腕をエリッツはあわてて引っ張った。
「ま、待って、大丈夫だよ。自分で行くから。まだ寮に残っているかもわからないし」
言い立てるエリッツにダグラスは一度黙り、エリッツを正面から見つめゆっくりと口を開く。
「エリッツ、僕の休暇は今日で終わりなんだ。たった半日弟と過ごすこともできないのか?」
不貞腐れたような兄の子供っぽい表情にエリッツは「――じゃあ、半日だけ」と言わされていた。