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第百二十一話 風のわたる日(6)

「お金ならさっきカーラからもらったわよ」
 眠気でふらふらとしながら店に戻ると、先ほどの女性店員にそういわれて座りこみそうになってしまう。
 道がわからないので大通りに出て人に聞きながらようやくたどり着いたのに、無駄だったみたいだ。しかも歩いて来たらものすごく遠かった。さすがに夜が明けるのではないかと思ったが、店内は超満員でその女性店員も忙しそうだ。そういえば大通りもまだ人通りがあったくらいだし、休暇前というのはこういうものなのか。
「ちょっと待ってて」
 そうことわってから、女性は配膳や注文などでくるくると動き回っていた。エリッツは立ったまま眠ってしまいそうだ。ちらりと客席を見たが、派手に壊れていたりしていることはなさそうで少し安心する。
「お待たせ。ごめんなさい」
 仕事がひと段落したらしい女性が戻ってきて、エリッツに事情を説明してくれる。
「まだ半刻も経ってないわ。カーラが四人分の食事代を払ってあなたが戻ってくるんじゃないかって少し待ってたのよ。心配してた。あ、あなたの分の食事代はギルとバルグが払ってくれたみたいよ。さっきの人たちにもし見つかったら面倒だからって、ここに来たのはカーラだけだったけどね」
 ギルとバルグというのはあの二人の事務官のことだろうか。どっちがどっちだかはわからないが。
「あ、あの、大丈夫?」
 眠すぎてときどき無意識に目を閉じてしまう。
「大丈夫ではないかもしれません」
 そういったエリッツの顔を見ながら、女性が両手を口元にやり大きく目を見開いた。
 どうしたのだろう。
 高い悲鳴が聞こえ、それがその女性があげたものだと判断することすら遅くなる。
 肩の辺りに衝撃を感じ、気づくと派手に床に叩きつけられていた。
 見あげると、あの男たちだ。なんというしつこさだろうか。街中歩き回ってエリッツを探していたのか、それともここで見張っていたのか。
 エリッツはゆっくりと上半身を起こす。大きな怪我はしていないが、眠い。
「やっと見つけたぜ」
「外に出な」
 何人くらいいるのだろうか。差し支えなければこのまま床で寝たい。
「聞いてんのか」
 床でぼんやりとしているエリッツの胸倉をつかみ、そのまま引きずられる。視界の端で女性店員が外に飛び出していくのが見えた。どこかに助けを呼び行ってくれたのかもしれない。
「おら、立て。このガキ」
 しかしエリッツをひっぱっていた力がすっと消え、エリッツはそのまま床に寝転んだ。何があったのだろうかと、一応軽く顔をあげると、店の入口から外の通りにかけて数人の男が伸びている。エリッツは眠い目をこすって、何とか体を起こした。
 すぐ横に異様な女性がいる。
「異様な」というのはこんな場所にいるのがおかしいという意味である。きっちりと結い上げたダークブロンドにあわいブルーのドレス姿だ。肘の辺りからレースの袖が花束のように広がっていて、細い腰は金糸で縁どられたリボンで飾られている。布の質感やレースの具合からかなり高価なものであることが一目でわかった。顔は黒のヴェールがかけられているが、エリッツは透かし見えるその貴婦人の顔を知っている。
「弟」
 その女性はひとことそう言った。
 義弟ですけどと、エリッツは心の中で訂正する。
「お、奥様、おやめください」
 すぐにとりすがるような女性の声が聞こえるが、ダークブロンドの女性はそのまま伸びている大男たちの腹を固そうなヒールのついた靴で順番に踏みつけてゆく。
 無言だ。総レースの可憐な靴下とそれをとめているリボンのひらめきが余計に異様な光景として目に焼きついた。
「ぐえ」という気色悪い声とともに、見たくもない吐しゃ物を見せられてしまう。もうやめて欲しい。
「奥様、奥様」
 侍女らしき女性が横で泣いている。
「帰る」
 女性はなぜかエリッツの手を取って、引きずらんばかりに歩き出す。眠りたいが足をとめるとすり傷だらけになりそうでエリッツは半ば目を閉じながら、懸命に足を動かした。

 その後の記憶はとぎれとぎれである。目覚めたらベッドの上であった。窓のカーテンの隙間からさす光の具合からかなり日が高くなっていることがわかる。
 エリッツが連れてこられたのは案の定と言うべきか、ダグラスの邸宅であった。
 一体どういうことなんだ。
 フィアーナがあそこにいた理由も不思議だし、何人いたかわからないが大男たちをいとも簡単にのしてしまったことにも衝撃を受けた。
 そういえばフィアーナの実家にあたるシャンディッシュ家も軍部の関係者が多い。フィアーナの父は西方の国境を守るラウルド・シャンディッシュ将軍である。彼女もエリッツと同じように幼いころから軍部でも通用するよう教育を受けてきたのだろう。
 だからといってなぜあの庶民的な店で大男相手に立ちまわっていたのだろうか。
 そのとき、ドアが生真面目なリズムで二度ノックされた。
「失礼します」
 入ってきたのはエリッツも知っているメイドだ。以前この屋敷で世話になってときに身の周りのことをやってくれたうちの一人だ。
 てきぱきと洗顔用の水や、顔を拭くための布などを準備し、水差しも取りかえてくれる。忙しそうなので逡巡したが、エリッツは聞いてみることにした。
「兄さんは屋敷にいるの?」
「旦那様は先日から外出しております」
 余計なことを言わないように気をつけている様子がうかがえた。あまり困らせては気の毒なので、詮索はやめておくことにする。誰か話しやすい人はいないだろうか。
「お食事はここにお持ちした方がよろしいですか」
 すべての作業を終えたメイドがそう聞いてくれるが、早く部屋を出て誰かに事情を聞きたかったので食事は断って、とりあえず顔を洗う。
 比較的静かなのは屋敷に常駐していた兄の部下たちも半数くらいは休暇に入っているからだろう。
 少し迷ったが着替えをさせてもらおうと、部屋を見渡して愕然とした。
 以前この屋敷に世話になったときにはクローゼットいっぱいにエリッツのために仕立てた服が詰まっていて驚いたものだが、なんとクローゼットそのものが増えている。
 もともとかなり広い部屋なので圧迫感はないが、もとのクローゼットよりも大きい。こわごわと開けてみると、やはり。エリッツのサイズに仕立てた高価そうな服がびっしりと詰まっている。
 エリッツはそっとクローゼットを閉めた。

「旦那様でしたら、昨日からシャンディッシュ家に風迎えのご挨拶に行っていますよ。今日は一日向こうで休暇ですな。奥様は昨夜お一人で戻られたんです」
 気さくにエリッツに話をしてくれる人物で思いあたったのが、料理長の男だけだった。以前エリッツが料理を教えて欲しいと頼んだときもとても丁寧に教えてくれたのだ。
「さ、エリッツ様、よかったら味を見てください。今晩旦那様が戻られるんでお食事を準備しないと」
 問題はやたらとエリッツに物を食べさせようとするところだ。
「いただきます。……で、なんでフィアーナさんだけ戻ったんですか」
 フィアーナにとってシャンディッシュ家は実家だ。ここよりも居心地がいいはずではないだろうか。
「奥様はお酒の席があまり好きではないご様子ですからね。旦那様は、ほら、かなりお好きでしょう」
 風迎えのご挨拶といったら確かに夜通し飲みそうな感じではある。あの家にはディケロというフィアーナの兄もいてこの人がまたべらぼうに飲む。
 そういえば以前もフィアーナはまるで酒席を避けるような日程でこの屋敷に戻ってきたことがあった。酔っ払いの相手がよっぽど嫌なのだろう。
「あの、問題がない範囲でいいので、昨夜何があったか教えてくれませんか」
 料理人の男は困った様子もなく「ああ、奥様の『出動』の件ですね」と笑い声をあげた。

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