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第百二十三話 風のわたる日(8)

 半日だけのつもりがエリッツ自身の休暇の最終日になっていた。兄はとうに仕事を始めているし、シャンディッシュ兄弟も一日だけ滞在して帰って行った。だがエリッツが帰ろうとするとダグラスがごねる。
 兄たちと過ごす休暇はおおむね楽しかった。
 兄やマルクとボードゲームをしたり、ディケロが仕入れた最新の噂話を聞いてお互いの意見を言ったり、みんなが日常に戻ってしまってからは前ここに滞在した時同様に書庫の本を読んだり昼寝をしたりして過ごした。
 カーラたちには兄のいう通りに伝言を依頼して無事を伝えてもらったのでいいが、常に気にかかるのはシェイルのことである。
 エチェットという人と一緒なのだろうか。本当の意味での実家がないシェイルは休暇をどう過ごすのだろう。
 長いことシェイルに会っていない気がする。
 エリッツは起き抜けに書庫から持ち出していた本を開こうとして手をとめた。
 ――帰ろう。
 兄に会えばここから城に通えばいいと言われるだけなので、朝のうちに手紙を書いて渡してもらうことにする。明日からエリッツも仕事なのを知っているはずなので、兄が仕事から戻る時間まで滞在できなかったことはわかってもらえるだろう。
 ある意味着の身着のまま飛び込んできたようなものなので荷物はない。ベリエッタにもらったキャンディくらいだ。
 世話になった料理人に挨拶にいくと、昼食にと食べきれないほどのサンドイッチとフルーツを包んでくれたので一気に荷物が増えてしまったが。

 昼前だからか思ったよりも人が少なかった。遠方から戻ってくる人たちはすでに早朝に着いているようだったが、そうでもない人たちはおそらく朝帰省先を出て、午後くらいから戻ってくるのではないだろうか。寮に戻る前にとエリッツはシェイルの執務室をのぞいていくことにした。休暇に入ってから様子を見にこようと思っていたのにすでに最終日だ。
 いるかどうかわからないが、一応ノックをしてから重い扉を押してみる。返事はなかったが、鍵はかかっていない。
「シェイル?」
 執務室へ入ってすぐは打ち合わせなどにも使える応接になっている。その奥に続くのがシェイルが普段仕事をしている部屋だ。
 人のいる気配がある。返事はなかったが、ドアが開けてあるということは中にいるのだろう。
 そっとのぞくと、机で書き物をしている横顔が見えた。なんらかの資料と引き比べて、紙に何かを書きこんでいる。
 伏し目がちな黒い目を縁取る長いまつ毛が際立つ。そして資料の文字をなぞる長い指は相変わらず美しい。
 エリッツは挨拶も忘れてじっと見いってしまっていた。いることに気づいているはずだが顔をあげてくれないのでエリッツは控えめに口を開く。
「休暇から戻りました」
 やはり手紙をすぐに渡さなかったことを怒っているのだろうか。不穏な間があってエリッツは手のひらに汗を感じていた。
「おかえりなさい」
 やはりこちらを見てくれない。資料のページをめくる乾いた音が大きく聞こえる。
「あの、手紙の件――」
 すぐに謝ろうとしたエリッツの言葉をシェイルはさえぎった。
「休暇中はどこにいたんですか?」
 これは明らかに機嫌が悪い。
 シェイルにしてはめずらしいことだが、当たり前といえば当たり前だ。自分宛ての手紙を隠されたうえに、書き置きひとつですまそうとされれば、誰だって機嫌くらい悪くなろう。しかも問いただそうとしても当人はずっと不在にしているのである。
 エリッツは申し訳なさに思わず下を向いた。このままではそばにいられなくなってしまうと、焦りがこみあげる。
「あの、おれ……」
 とりあえず謝罪をしなければと慌てて口を開くエリッツの言葉はまたさえぎられた。
「寮で寝ているといっていたので、何度か問い合わせましたがずっと不在でしたね」
 そこではじめてシェイルはエリッツを見た。エリッツもシェイルの顔をじっと見る。しばらくお互いを探り合うような間があった。
「不在にして、すみませんでした」
 するりと言葉が出る。
 シェイルはハッとしたように目を見開いた。
「――いえ、大人げない物言いをしてすみません」
 ばつが悪そうに資料の方へ視線を戻し、作業を再開する。
 やはりすぐに戻るべきだった。
 先ほどエリッツと目が合った瞬間だけ見せたシェイルのさみしそうな表情が胸をえぐる。
 シェイルには休暇を一緒に過ごす人がいないのだろう。オズバル・カウラニーとの関係は悪くないとしても他のカウラニー家の人々が異国から来たシェイルをどう受け止めているのかはわからない。
 シェイルにだって知り合いや友達はいるだろうが、やはり休暇をとるためだけにあの公にはできない例の場所から遠く離れることはできないのではないだろうか。
 エリッツは一度だけ見たあの鳥かごのような寝室を思い出し胸が痛くなった。
「ラヴォート殿下はいらっしゃらなかったんですか」
 シェイルは少し困ったような顔で「陛下と避暑地に」と小さく言った。
「わたしも一緒に来るように言われたんですが、陛下と殿下と大勢の護衛に囲まれて避暑なんて居心地悪そうじゃないですか。仕事も片付かなかったですし」
 困ったように笑うシェイルに何といっていいのかわからない。本当にこの静かな城内に一人でいたのだ。同じように仕事をしていた人たちや警備兵たちはもちろんいただろうが、休暇最終日の昼になってもこの静けさである。エリッツだったらすぐに人恋しくなってしまう。
「ああ!」
 エリッツは重大なことを思い出して声をあげてしまった。
「あの、すみません。手紙、おれ、その……」
 休暇中ずっと心を占めていた手紙を直接渡せなかったことの謝罪、それから婚約者のこと、次々に頭をめぐってパニックになる。さっきからの話では特段婚約者と過ごしていた様子はなかったが、それでもやはり何らかの連絡があったのには違いない。結婚の挨拶は次の休暇で? エリッツはその場にしゃがみこんだ。
「エリッツ、落ち着いてください。さっきから手紙って何のことですか」
「え?」
 てっきり手紙のことでも怒っているのかと思っていたから、何のことだといわれても混乱は増すばかりだ。全部夢だったのだろうか。いや、そんなわけがない。
「休暇の前に、机の上に、その……エチェットさんという方からの」
 シェイルは「ああ、あの手紙のことでしたか」と、表情をやわらげた。その表情があまりにやさしくてエリッツは絶望的な気分になる。
 放心しているエリッツをそのままに、シェイルは資料室から椅子を運びこみ自身の椅子の横に置く。
「座ってください。一緒に見ましょう」
 そういって例のあわい封筒を引き出しから取り出した。それを見るだけでも勝手につらくなってくる。しかし一緒に見るとはどういうことなのか。
 わけがわからずに、エリッツはその場で立ったり、またしゃがみこんだりした。
「何をしているんですか。エリッツはきっと気に入ると思いますよ。早く座ってください」
 それでもエリッツは隣に腰かけることができない。
「エリッツ、ほら」
 シェイルに手をさし出され、反射的にその手を握りにいってしまう。そのままひっぱられた勢いでついにそこに座ってしまった。
「ちょっと、手紙があけられません」
 いつまでも手を離さないエリッツにシェイルがおかしそうに笑いかける。
 仕方なくエリッツが手をはなすと、シェイルは素早く薄いナイフで封筒を開封した。まだ開けてもいなかったのかとエリッツは不思議な思いでその大好きな指先を目で追う。
「あの、エチェットさんというのは……?」
「わたしの婚約者です」
 やっぱり。エリッツはその場で机に伏した。もう消えたい。まずい、涙が出てきた。

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