338章 マリ登場
ミサキはカウンターにやってきた。
「ミサキちゃんだ・・・・・・」
「ミサキちゃん、サインをください」
「ミサキちゃん、握手をお願いします」
一カ月もすれば、人気はなくなると思っていた。人間という生き物は、熱しやすく、冷めやすい。
ミサキのおもな仕事はサイン、握手。調理をするのは、月に一度の特別調理デーのみにとどまる。多くのお客様に期待されているだけに、申し訳ない思いは強かった。
サイン、握手をしていると、思わぬ客が入ってきた。
「ミサキさん、お久しぶりです」
「マリさん、お久しぶりです」
マリは演劇の仕事で、一緒に劇をした女性。時間は長くなかったものの、強く印象に残っている。
「マリさん、どうかしたんですか?」
「メンバーが集まらないので、劇団をお休みしています」
マリにとって、劇団は生活の一部。お休みを取るのは、よっぽどの理由があると思われる。
「ミサキさんと演技してから、監督と役者がぎくしゃくしています。お前らはド素人にも勝てないのか、どれだけ努力をしているのか、やる気はあるのか、と罵声を浴びせられることも増えました。役者はパワハラに耐え切れなくなって、バラバラになってしまいました」
他人を利用しようとしたものは、最終的にどん底に叩き落される。エマエマの発言は、核心をついていた。
「マリさんたちは、超一流の劇団です。監督に怒られるようなことはないと思うのですが・・・・・」
マリはため息をついた。
「ミサキさんは、ご自身の演技力を理解されていないみたいですね。セリフはいっていないものの、頂点に君臨できるポテンシャルをお持ちです」
「そうですか・・・・・・」
マリは眉間にしわを寄せる。
「一瞬だけですけど、オーラに圧倒されました。絶対にかなわない、絶対に勝てないと思ったの
は初めてです」
「演劇の「え」の字も知らない、初心者です。マリさんと比べれば、月と鼈くらいの差があります」
「ミサキさんは月で、私たちは鼈ですか?」
「逆です。私は鼈で、マリさんたちは月です」
マリは水を口に含んだ。彼女の瞳には、やりきれない、やっていられないという負の感情が混じっていた。どんなにのぼりつめた人であっても、悩みから解放されることはない。