過去との決別
「私は執務室にいる」
「あ、エルネスト様」
二人を残してエルネストは部屋を出て行った。
ジルフリードを前に、アリッサは何を言ったらいいのかわからなかった。
それはジルフリードも一緒だった。
死んだと思っていた相手が生きていたのだから。
「アリッサ?」
(えっと・・別人の振りをしてとぼけるとか、できないかな)
エルネストは彼女を「アリッサ」と呼んだ。ブリジッタとは言っていない。
他人の空似としてごまかせないだろうか。
「は、初めまして」
「はじめまして?」
アリッサの挨拶にジルフリードの眉がピクリと動いた。
「それは、あなたと私が初めて会うからで・・」
「生きていたのだな、ブリジッタ」
「は、はははは」
はぐらかそうとしたが、まったく通じなかった。
「そんな風に・・笑うのだな」
ジルフリードの呟きに、アリッサの笑顔が強張った。
「私はもう、アリッサ・リンドーとして生きています。ブリジッタ・ヴェスタという人間は、もうこの世にはいない」
「何があった?」
「それを聞いてどうしますか? あなたも、ブリジッタ・ヴェスタが死んでホッとした一人では?」
「どういう意味だ?」
彼の緑の瞳が一瞬揺らいだ。
「あなたこそ、その髪は・・」
よく見れば黒髪に白いものが混じっている。
「よくわからない。ある日気づいたらこうなっていた」
相変わらず抑揚のない言い方だ。さっき一瞬動揺したように見えたが、きっと気のせいだろう。
「私は・・君にとって、いい婚約者ではなかった。婚約者を失って、それを喜ぶ人間だと思われていたとは」
「そ、それは・・ご、ごめんなさい」
「いや、謝るのはこっちだ。いつでも君が側にいると思っていた。周りや、母の君に対する心ない仕打ちを、見て見ぬ振りをしてきた。君を守ろうとしなかった」
何があったのかしらないが、こんな風にジルフリードが話すのは出会って初めてだった。
「私とあなたは一時は婚約していた。でも、それは私たちの祖父が決めたこと。私たちの意志はどこにもなかった。そして、それを貫こうとする努力をしようともしなかった。それが私たちの失敗」
「もう、戻るつもりはないのか」
「墓場から蘇れと?」
「君の墓には、君の遺品だけが収められている。簡単だ」
「それで蘇って、私にどうしろと? またあなたの婚約者になれと?」
「・・だめか?」
「ブリジッタ・ヴェスタなら、『喜んで』と言ったでしょうが・・」
それ以上は言わなかったが、ジルフリードも馬鹿ではない。その続きを察して表情を曇らせた。
「アリッサ・リンドーはそうではない」
こくりと頷く。
「私は・・ブリジッタ・ヴェスタといつか結婚するという未来を信じていた」
「そ、それは・・」
初めて聞く彼の言葉だった。
「きっかけは、お祖父様達の約束だったとしても、私は私なりにブリジッタ・ヴェスタという人間を、将来の伴侶と思っていた」
「私も・・そう思っていました」
互いに過去形で話していることに気づいていた。もうどうやっても過去には戻れない。やり直すこともできない。
「私は・・ブリジッタは、あの夜、恥ずべき事は何もなかった。誰も信じなかったとしても、あなたには違うと信じてほしかった」
「そうだな。遅すぎたのだな」
「ごめんなさい」
「君が謝ることは何も無い。君が帰ってくる前に、君の話は散々侯爵から聞いた」
「エ、エルネスト様が? どうして?」
「ここへは、彼の騎士団時代の上司からの伝言を預かってきた。手紙でも良かったのに、直接届けるように言われたが、なぜなのかわかったよ」
「エルネスト様の?」
なぜエルネストの元上司がジルフリードを寄越したのか。
エルネストがそうするように手配したに違いない。
「君は、今は幸せか?」
「ええ。あなたは?」
「君が幸せなら、それでいい。これで私も、後ろを振り返らずに生きていける」
目の前の彼の姿が霞む。いつの間にか涙が溢れて出していた。
「ブリジッタは・・あなたのこと、好きだった」
そう言うと、彼は瞠目した後に、口元を緩めて笑った。
「改めて言うよ。これで私たちの婚約は、破棄でいいかな」
互いに新しい人生を歩むための婚約破棄。
「幸せに」
「あなたも、自分の幸せを見つけてね」