失ったもの
自分には生まれたときから婚約者がいた。
正確にはルクウェル家の長男として自分が生まれ、そしてヴェスタ家にブリジッタが生まれた時に、婚約が決まった。
自分の祖父ライアンが命を救ってくれたジョフリー・ヴェスタに恩を感じ、生まれた子供同士を結婚させようと約束した両家間の婚約。
しかし、二人の子供はどちらも男だった。
だからその約束は孫へと持ち越された。
母は最初から反対していたらしい。
だからヴェスタ家の子が男であることを願っていたが、その願いも虚しく、ブリジッタが生まれた。
「あんな平民あがりの家の子を嫁にするなんて、耐えられませんわ」
ブリジッタが生まれてからずっと母は夫に何とかするようにと訴え続けた。
しかし、父は祖父に意見をすることが出来ず、あっという間にブリジッタとの初顔合わせになった。
それまで散々ブリジッタのことを地味で冴えない子だと罵っていた、母の言葉を聞いていた。
地味で冴えなくても、その子と自分は結婚しなければならない。
でもいずれ誰かと結婚するなら、いちいち探す必要などない。始めから決まっている方が楽ではないか。
しかし、五歳のブリジッタは、想像と違っていた。
ブロンズ色の髪、赤褐色の瞳は温かみがあった。
母が言うような地味でつまらない子とは思えなかった。
ただ、とても緊張している様子だったが、二歳下の女の子にどう接していいかわからない。
しかも彼女は自分に向かって「魔王」と呟いた。
それが彼女のお気に入りの絵本の登場人物だと知ったのは、随分後になってからだった。
彼女の発言に機嫌を損ねた顔をしてしまった。
そして、初めての顔合わせは、失敗に終わった。
その後、その失敗を挽回することも出来ず、ただ年月だけが過ぎた。
母は相変わらずこの婚約に不満タラタラで、そんなことはない、ブリジッタは素敵だと言うものなら、忽ち母は烈火の如く怒った。
次第にブリジッタとの逢瀬は素っ気ないものになっていく。
自分が彼女に少しでも好意を寄せる素振りを見せると、母はますます意固地になり、彼女を悪し様に非難する。
それが聞きたくなくて、何とも思っていないように振る舞っている内に、感情を表に出さなくなっていった。
そして全てにおいて、無表情になった。
そんな自分に、彼女は変わらず話しかけてくれたが、次第に彼女の表情は暗くなっていった。
しかし、結婚して夫婦になれば、彼女にもっと思いを伝えられるだろう。
その時に彼女にこれまでの自分の行いについて、詫びればいい。
そう思っていたのだが。
その日は永遠に来なくなった。
母から夜会に従妹のマリッサのエスコートを頼まれた。
「私の婚約者はブリジッタです。夜会には彼女をエスコートします」
「でも、彼女はその夜会には行けないそうなの。せっかく従妹が来ているのだから、遠慮すると言っているわ」
ブリジッタならそう言うだろう。
「わかりました」
マリッサは母のお気に入りだ。彼女といれば母も機嫌が良い。
本当はブリジッタにもマリッサのように接して欲しい。
しかしそれを言おう物なら、途端に機嫌が悪くなり手が付けられなくなる。
そう思って参加した夜会で、ブリジッタと会った。
「これであの子も、誰があなたに相応しいかよくわかるでしょう」
「ブリジッタが参加しないと言ったのは、嘘だったのですか」
「嘘など言っていません。最初に参加しないと言ったのに、気が変わったのでしょう」
自分たちを見たブリジッタの表情が翳る。
彼女の目にはどう映っているのか。ただでさえすれ違いの多い自分たちなのに、彼女に誤解をさせてしまった。
しかし彼女はいつの間にかいなくなり、そしてあの事件が起きた。
そしてあっという間に彼女との婚約が破棄され、彼女は修道院に入ることになった。
それでもまだ望みはあった。自分の騎士団での地位を確固たるものにして、彼女を迎えに行けばいい。
そう思っていたのに、舞い込んできたのは彼女の「死」だった。
まさか。
もう二度と彼女に会えない。
信じられなくて、何度も確認した。しかしヴェスタ家に戻された彼女の荷物を見て、現実を思い知った。
彼女の「死」に打ちひしがれ、目覚めた行き場のない怒りは母へと向かった。
母がマリッサをエスコートさせなければ、自分はブリジッタと参加していたはずだ。
母がブリジッタからの手紙を勝手に処分していたことも、彼女が死んでから知った。
彼女は頻繁に自分に宛てて手紙を書いてくれていたのに、自分はどうだった。
いずれ彼女とは夫婦になるからと、彼女に寄り添おうとしなかったのは自分ではなかったか。
後悔と行き場のない怒りを母にぶつけ、心ないことを言い、そのせいで母は病を患った。
そして、疎遠になったまま、母も亡くなった。