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3-1 Devided Nation

 線状降水帯がもたらした集中豪雨は、7月のスタートダッシュに文字通り水を差した。最初の授業は始まったばかりだが、窓際の席に座るシルバーヘアの少年は、見飽きた窓の外を眺める。大きな雨粒は地面を容赦なく叩く。
 アンバーとライトブルーのオッドアイ、その特徴的な瞳が捉える景色は、昨日の空港を思い出させる。しかしそれから逃れようと目を閉じれば、そのまま寝そうだ。約1時間、耐えるしかなかった。
 昨日から降り続き、朝方から更に激しくなった雨の勢いは放課後になっても弱まらない。少年は、眠気と戦い続けた今日の授業が終わった安堵からか、もしくは雨が止まないことへの憂鬱からか、溜め息をつきながら通学鞄のハンドルに手を掛けた。
 フランス国旗を模した小さなアクリル製のタグが揺れ、裏返しになった。それに刻まれていた名前は、Luna。

 大雨を理由に、流雫は行きはロードバイクには乗らずバスを使った。雨足が弱ければ歩いてもいいが、そうなる気配は無い。流雫は諦めてバスを使うことにした。
 流雫が通う学校、河月創成高校の前から河月駅へ向かうバスが終点に着くと、市内最大の駅前は帰宅ラッシュを控えて徐々に人が増えていくのが判る。
 今日はバスの乗換のためだけで、特に駅付近の何処かに寄る用事も無い。流雫は、既に着いていた河月湖行きのバスに飛び乗った。
 どうにか座れた車内で、流雫は寝ることにした。雨だからと車で通勤した人が多かったのか、駅前から既に渋滞が始まっている。しかしそれは、少しでも寝ていたい少年にとっては好都合だった。どうせ乗り過ごしても、終点の河月湖ビジターセンターからは近く、多少帰り着くのが遅くなるぐらいだった。
 普段の2倍、40分掛かってバスはようやく最寄りのバス停に着いた。少しだけ雨足は弱くなっていたが、それだけでも御の字だ。流雫は傘を差し、ペンションまでの足取りを速めた。

 流雫の親戚が営むペンション、ユノディエールの手伝いは流雫の日課だが、バイト代は一応出る。それが終わると、ようやく自分の時間になる。時計の針は21時を指していた。
 流雫は自分の部屋に入るとスマートフォンを取り出し、ニュース記事をタップする。昨日、流雫の目の前で発生した飛行機事故の続報が、トレンドとして上がっていた。
 日本最大の空港、東京中央国際空港の滑走路で小型飛行機が着陸に失敗して墜落、炎上した。飛行機は長崎の離島、対馬から東京に向かっていた個人所有のビジネスジェット。乗っていた11人全員が死亡したが、遺体は全員シートベルトを装着したまま焼け焦げていて、全員身元不明だと、昨夜のニュースでは伝えられていた。
 そして流雫が開いたニュース記事には、事故調査委員会はダウンバーストと云う墜落に陥りやすい天候だったことや、目撃者からの証言として、その直前に起きたバードストライクと云う要因が重なったことが原因ではないか、として調査中と書かれている。
 「進展無し、か……」
そう呟いた流雫はスマートフォンを手元に置いて、宿題を片付け始めた。しかし、数分後には昨日のことを思い出していた。正しくは、否応なしに記憶が再生される。
 ……急に強くなった風が吹き付け、雨は横殴りになる。着陸を接地寸前でやり直そうとしたビジネスジェットの左側エンジンに、黒い何かが吸い込まれた。エンジンは火を吹き、揚力を失ったのか機体が傾き、やがて横転して機体が爆発した。流雫は一緒にいた少女の目と耳を塞ぎ、目の当たりにするのを必死に防ぎながら、その一部始終を見ていた。
 航空評論家の解説にも書かれていたが、一言で言えば不運が重なった事故だった。しかし、流雫には単なる事故に思えなかった。
 ……あのビジネスジェットは、流雫に2023年8月のあの日を思い出させる。
 流雫が乗っていたパリ発のシエルフランス機が東京で着陸をやり直し、30分遅れた……何も無くても1時間遅れだったのだが……時の原因となったのは、このビジネスジェットの緊急着陸だった。尾翼を飾っていた緑色の十字っぽいマークが同じだったことが、その時の飛行機だと云う証拠だった。
 この飛行機による遅れさえ無ければ、流雫は空港で起きた爆発と乱射……トーキョーアタックこと東京同時多発テロ事件……に遭遇しなくて済んだ。尤も、そうだったとしても渋谷で起きたテロであの悲劇が起きることは、どっちにしろ避けられなかったのだが。
 そして、鳥だと思われている黒く小さな物体は、ダウンバーストで上下左右に大きく揺れながらも、ビジネスジェットに向かって行くように見えた。それが左側のエンジンに吸い込まれた直後、エンジンは火を吹いた。
 空港周辺では飛行禁止となっているハズのドローンなら、可能性としては有り得る。それは昨日も、流雫が思っていたことだ。ただ、誰が何のために飛ばしたのか。最初からこのビジネスジェットを狙っていたのなら、何のために狙ったのか。疑問は尽きない。

 強いままの雨音が響くだけの部屋で、灰色のシャープペンシルを走らせる手を止めていた流雫の意識を、スマートフォンの通知音が引き戻す。
「ルナ、やっぱり昨日のこと、気になる?」
サバトラ柄の猫のアイコン、その主からのメッセージに流雫は返す。
「どうしてもね」
「……だと思った」
「ふとしたことで、どうしても思い出すんだよね」
予想通りだ、と思った澪に流雫は答え、送信ボタンを押した。……やはり、この事故に纏わり付くトーキョーアタックとの関連性、と云う疑問に囚われていることが、自分自身でも判る。
 流雫はメッセージにせず、ただ呟いた。
「これも、何かの伏線でないといいけど……」

 流雫をルナと呼んだ少女のアイコンに並ぶ名前は、ミオ。その机に置かれたルーズリーフ用バインダーに貼られた、テープラベルに印字された名前は室堂澪。だからミオだった。
「ふとしたことで、どうしても思い出すんだよね」
ルナ……流雫から送られて来たメッセージを目にする澪は、流雫を誰よりも知る存在として、その言葉は至極自然なことだ思っていた。

 ……2人が知り合ったのは、2023年9月。きっかけは、銃刀法改正を巡るニュース記事だった。SNSにアップされた記事に、LUNAと名乗るアカウントで
「改正がテロへの抑止力になるとは思えない。それでも、今の日本で生き延びるためなら、社会悪だけど必要悪なのだろうか。僕は高校生だけど、持てるものなら持ちたい。それで、誰かが泣かなくて済むのなら」
とコメントが書かれていた。
 政府への擁護または批判、そのどっちでもない唯一のコメントに、誰も賛成も反対も入れていなかったが、それだけが澪の目に止まった。
 アイコンは登録に必須のSNSアカウントへのリンクを兼ねていた。流雫のアカウントに飛んで、メッセージを送ってみた。妙にワケ有りらしいが、興味本位ではなく、ただ
「持てるものなら持ちたい。それで、誰かが泣かなくて済むのなら」
が彼女に突き刺さった。綺麗事やステレオタイプなら、そう云うコメントは書かないだろうから。それも、高校生が。
 流雫と澪……ルナとミオの出逢いは、或る意味特殊だった。ミオからルナにアプローチした後は、遣り取りの舞台をメッセンジャーアプリに移したが、文字だけのオンラインコミュニケーションは変わらなかった。アプリでの文字の遣り取りで、互いをカタカナ表記するのは、昔からの名残だった。
 それだけで半年近く遣り取りを続けた後、2人は顔を合わせることになった。……澪にとって、初めて1人きりで異性と会う。ただ知っていたのは、山梨に住みルナと名乗る、同い年の男子高校生と云うだけだった。
 彼に悲しい過去を掘り起こさせることになるだろう、その後ろめたさも有ったが、しかしその後は何だかんだで楽しい1日になる、と思っていた。

 あの異常で最悪の出逢いから3ヶ月あまり。澪は今、流雫の恋人と云う立場にいる。とある少女の死が、澪と流雫を引き寄せたと云う現実を受け入れながら。しかしそれは、だからテロに殺されない、生き延びたいと云う、澪と流雫の原動力になっていた。
 「ルナはあの瞬間……見ちゃってるから……」
澪は打つと、すぐに流雫は返した。
「でも、ミオは見なくて済んだから、それだけは幸いだったかな」
 ……エンジンが火を吹いた瞬間、流雫は澪の目と耳を塞ぐ。突然視界を奪われた彼女は少し混乱するが、しかし飛行機の爆発の瞬間を見ることは避けられた。尤も、その後夜のニュースで空港カメラが捉えたその瞬間を見ることになったが。
 それでも、テレビと云うフィルターが、語弊を恐れず言えば何もかも他人事のようにさせる。その場に居合わせたと云うのに。
 ……耳を塞がれても聞こえた爆発音と、ジェット燃料の臭い。それは、今でも澪の脳に焼き付いている。それでも、直接見ていないだけまだマシだった。しかし流雫は、全て見ている。そして、幾つもの疑問が浮かんでは、あの2023年8月に起きた惨劇との接点を、常に探していた。
 それは、彼にとっては他人事ではなく、或る意味最大の当事者だったことが大きい。かつての彼女を渋谷のテロで失い、彼自身も空港のテロに遭遇して九死に一生を得た。その他大勢の人と同じで、ただその場に居合わせただけだった。それが、あんなことになるとは誰も想像すらできなかった。
 それ故の苦しみは、澪でさえも判らないものだった。何を言ったところで、所詮は他人事だと言われれば反論できない。

 やがて2人の話題は、フランスになった。澪が言うには、先刻のニュースで、いよいよ今月下旬にパリオリンピックが開幕すると云う話題が上がっていたらしい。2人してオリンピックには興味が無いが、流雫は生まれ故郷での世界的イベントがどんな盛り上がりなのか、両親とのビデオ通話で聞いていた。
 夏季オリンピックが本来の形で開かれるのは、2016年のブラジル、リオデジャネイロ以来8年ぶりだ。世界的なパンデミックの中強行して大失敗に終わり、オリンピック史に残る黒歴史となった2021年東京は、最早無かったことになっている。その反動からか、盛り上がりは異様なものだと云う。
 その話を聞いて、流雫は今年の帰郷をオリンピックと重なる夏休みではなく、春休みに前倒しして正解だと思っていて。尤も、その春休みにパリの地を踏んだ際、既に歓迎ムードが街の至るところから漂っていて、熱の入れようが窺い知れたが。

 日本が安全な国と言われていたのは、既に過去のものだった。強行された東京オリンピックは、開会式の最中に新国立競技場の外で反対派による暴動が発生し、総理大臣への殺害予告も発生したほどに大荒れとなった。
 会期中も、常に会場前では警察と反対派デモとの小競り合いが続き、閉会式も開会式ほどではないが暴動に至った。連中は選手やその関係者に手を出すことは無かったが、開場への出入りに厳重なガードが施されると云う光景も少なくなかった。
 海外メディアは連日、競技結果よりこの衝突を大きく報道した。そして、世界と国内の情勢を軽視して国の威信のためだけに強行した政府を糾弾した。
 「失われた絆をオリンピックで繋ぎ、感動で世界にエールを送り団結し、世界に勇気と希望をもたらす」
と云う、二転三転した末の意義に、国民の心を掴むだけの力は無かった。逆に、賛成派と反対派に完全に世論は分裂し、歩み寄りは困難な事態に陥った。
 そして、オリンピックに失敗した日本は、経済復興が喫緊の課題となる中、インバウンドの復活に全てを賭けた。その何処から見ても狂気の沙汰でしかなかった大博打は結果的に成功するのだが、それによる不法難民の入国も相次ぎ、それと関係性が有ると思われる凶悪犯罪も相次ぐようになった。
 色々な意味で大人しい国と言われてきた日本は、一転して少なからず危険な国だと見られるようになったが、それが愛国派でさえも否定できない事実になったのが、2023年8月の東京同時多発テロ事件、通称トーキョーアタックだった。
 1995年3月、日本転覆を狙うカルト教団が警察の強制捜査を撹乱する目的で東京で起こした無差別テロ、地下鉄サリン事件を凌ぐほどの死傷者数を出した日本最悪のテロが、またも東京で起きた。
 東京中央国際空港での爆弾と銃乱射、そして渋谷でのトラックを使った自爆テロ。それは世界と比べても、2001年9月に発生したアメリカ同時多発テロに次ぐ大規模なものだった。
 愛国派の一部では、トーキョーアタックもその難民の仕業だと云う理論が出回っている。ただ、トーキョーアタックも含めて、この1年近くの間に起きたテロの全てで、犯行声明は全く出されていない。
 そして、分裂したままの世論は新たな舞台へ移る。それが改正銃刀法を巡る是非だった。
 テロや凶悪犯罪に対する護身に用途を限定して、銃の所持と使用を認めると云うものだ。そして、トーキョーアタックから1ヶ月しか経っていないのに法改正が施行され、今や国民の2人に1人が銃を持っている。
 銃による自衛と云う究極の自助努力は、あくまで一時的な措置とされているが、数ヶ月で成し遂げられた6千万丁の銃の流通は、日本の治安への不安を浮き彫りにした。
 

 流雫と澪は、その持っている側に含まれる。ただ、澪は幸い銃を撃ったことは無い。
 しかし、流雫はこの4ヶ月半で既に3度、銃を撃っている。正確には、2月から3月にかけての1ヶ月あまりの間だが。
 撃たなければ殺される、しかし護身目的と云えど人を撃てば、殺すことだって有り得る。人を撃つと云う罪の意識を背負う覚悟を受け入れ、そして銃を向けられ殺される恐怖を一瞬で押し殺すことができなければ、銃を撃つことなどできない。
 その経験は、澪にはしてほしくない、と流雫は思っていた。全ては綺麗事でしかないことぐらい、痛いほど判っている。それでも、銃に縋って初めて身の安心を感じることができる今の日本そのものが、誰から見ても異常だった。

 「おやすみ」
と互いに送り合った後、流雫は残りの宿題を片付けようとした。そうしないと、日付を超える。
 澪は宿題こそ全て終えていて、流雫の事情聴取で父に同行した日にダウンロードしたゲームを始めていた。配信初日から毎日欠かさずログインしているが、今日は2日ぶりにゲームを進めた。
 ただ、個人的に面白いと思ったストーリーを進めていっても、やはり昨日のことは頭から離れなかった。

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