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1-6 Be On Your Side

 流雫の事情聴取が終わったのは夕方。既に日没を迎えようとしていた。自分が一番何が起きているか知ることができる位置にいたため、途中休憩を挟んだとは云え、2時間以上に及んだ。貴重な休日は、こうして終わりを迎えようとしていた。
「はぁ……」
流雫は、この日何度目かの深い溜め息をついた。
 ……あと2日で、あの日から半年が経つ。その半年前までの、何でもない日々が懐かしい。
 思えば、流雫の性格にカドが見えるようになったと同級生から言われるようになったのは、あのトーキョーアタックの直後に迎えた新学期からだった。正しくは、人との接触を避けようと自ら高い壁を設けていた。
 それまでも、流雫は何処か近寄り難かった。人付き合いが悪かった。しかし、それがより顕著に露骨になった。同級生だった或る少女の死が、流雫にとってあまりに大きかったのだ、と同級生は思っている。
 それは間違っていない。間違っていないのだが、同時に空港での光景が脳に焼き付いている。一生忘れることは無いだろう。それに似たことが、渋谷でも起きた。否、空港でのそれより凄惨だった。
 ……ツイてない。その言葉で片付けるには、あまりにも残酷で乱暴だった。

 再度警察車両に乗せられてペンションに帰り着いた頃には、昼間厚い雲に覆われていた空は雲一つ無い。雪は積もりもせず、地面こそ少しばかり濡れていたが降ったとは思えない。あの天気は何だったのか。
 宿泊客がいる手前、人質になっている間何が有ったか、流雫が話すことは無かった。親戚も、駐車場の人混みに混ざって見た一触即発の状態を聞き出そうと云うことは無く、ただ普段通りの日常を装うだけだ。流雫の性格からして、根掘り葉掘り聞き出すことは愚行でしかない。
 何時ものように手伝いをして過ごしながら、流雫は自分の部屋に入る。時計の針は、21時を示していた。すぐにメッセンジャーアプリを開く。
 「……怖かった」
アイコンのサバトラ柄の猫は、近所のコンビニで偶然見掛けて撮った地域猫らしい。そこをタップして、ミオとのチャット画面を開くと、その一言を皮切りに、ひたすらディスプレイを見つめながら、親指を忙しなく動かす。
「店を出ようとすると急に銃声がして、何人か撃たれて」
「人質になって、何人かは抵抗しようとして撃たれて」
「1人が発狂して犯人を撃って、それが僕にも当たりそうで」
「……僕まで撃ち殺そうと構えてきて、殺されると思って撃ち返した……」
「犯人は全員射殺されてた、でも何か……だからって後味が悪いよ」
一気に連投したが、すぐに全てに既読のマークが表示される。

 数時間前に警察署で話したことは、今のメッセージより細かいが、それで「話して楽になる」ことは無い。ただ、ミオに向けて打っていると、何だか少しだけ楽になる。
 ……これで本当によかったのか。流雫は警察に保護された時から、ひたすら自問自答を続けていた。
 何度自問自答しても、答えは変わらなかった。……これしか無かった。そうでなければ、今この場所でミオと「話して」いない。確かにあの時、銃口は自分に向けられていたのだ。
 しかし、
「お前が殺していれば!!」
と云う大声が、頭に残っている。
 いくら銃を持っても、自分が人を撃つことは避けたい。それは誰もが同じだ。銃を撃つことは、犯人と云えど人の命を奪いかねない。
 「手を汚す」ことは俺の役目ではなく、見知らぬ誰かがやるべきだ……。男はそう思っていただろうし、それはあまりに身勝手だと、非難することはできない。誰もが、人を殺しかねないことに躊躇するのは自然なのだ。
 ……しかし、流雫は銃を持っていたが、引き金を引かなかった。自分の手が可愛いから、ではなかったが、恐らく男にはそう見えた。そもそも銃を持っていないとは思わなかったのは、日本人の2人に1人が持っている……ならば此奴も持っていて当然だと思ったから、だろうか。
 
 一見すると、男は事件解決に導いたヒーローに押し上げられた。あの銃弾がターニングポイントになったことは、誰から見ても判る。
 しかし、そのヒーローは流雫が役に立たなかったことに対する怒りを一気に沸騰させ、自分が撃った原因となった少年へ矛先を向けた。彼が撃てば、男は手を汚すことなく済んだのだ。
 一度人を撃っている以上、もう何度撃っても同じことだ……とは思っていない。ただ、手を汚すと言われようと、テロの脅威から生き延びるためには、それしか術は無い。
 ……生き延びたい、しかし手は汚さない。それは、最早難しいことなのだと、流雫は思った。

 この件は、正当防衛だとして処分されることとなった。流雫が撃ったのは武装集団そのものではなく、人質だった小太りの男だったが、犯人でない者……ましてや人質だった者に銃を向け、流雫への明らかな殺意が感じられた、と判断された。
 それまでに撃ったのは5発だが、1発だけ弾倉に残っていたハズだ。それが飛び出せば、流雫の額に穴が開いていた。しかも数センチも離れていない。銃口がブレていたが、あの至近距離では外さないだろう。
 銃を男に向けて撃つしか、撃たれない術は無かった。こう云う、発狂した人質に殺されそうになったとは云え、護身のために犯人でない相手に銃を撃ったケースは極めて異例のことだった。
 ただ、あれは複数の特殊武装隊員の目の前で起きたことだけに、目撃者が多いのは幸いだった。正当防衛が覆ることは無かろう。
 ただ、それでも後味が悪過ぎる結末だった。
「ルナが無事だと知った時、凄く嬉しかった。少し泣いちゃった」
「……あの時、人を殺したいと思ったワケじゃなく、ただ自分の身を護りたいと思って撃ったのなら、それは間違いじゃないよ」
流雫は続けてきたメッセージに打ち返さない。何と打てばいいのか、言葉が見当たらない。ただディスプレイに表示される言葉を眺めていると、5分後にミオから一言だけ来た。
 「あたしは、ルナの味方だから」
その一言に、流雫の心臓は大きく、少しだけ早く動く。……初めて銃を撃った日と同じだ。視界が滲む。

 「あたしは、ルナの味方だから」
その一言は、どれほどルナを救ったか、澪には判らない。ただ、自分が今この瞬間思うことを書いたまでだ。
「……どうして」
「何?」
ルナの一言に打ち返した澪に
「どうして、そこまで?」
とルナは疑問をぶつけた。そして続ける。
「顔も知らないし、声も知らない。なのに、昔から知ってるみたいな……」
 「あたしが、ルナの味方でいたい。ただそれだけだから」
ほぼ即答だった。そして、半ば反射的に打っていた。澪は数秒して、画面を見つめながら漏らした。
「……味方、か……」
 ……たった今、自分が送ったことは、本音ではあった。しかし、ついに言ったのだ、と思うと、言葉にできないような感覚がした。
 少しだけ、心臓の鼓動が早くなる。そして、何かが弾けたような気がした。

 流雫は、ミオの返事を呟くような声で読む。
「味方でいたい、か……」
そう言われるのは初めてのことで、流雫自身どう受け止めればよいか、判らなくなっていた。そしてその名を呟きながら同じことを打っていた。
「ミオ……」

 ミオ。それはかつて流雫が好きだった同級生の名前でもある。美しい桜と書いて、美桜。
 欅平美桜。高校に入学すると同時に知り合った。告白は2週間近く経った頃、彼女からだった。学校帰りの出来事だった。
 それまで、美桜と話すことは他の同級生より少し多い程度で……美桜が積極的に話し掛けてきたから返したまでだ……、接点も同級生であること以外、無いに等しかった。それが、何が決め手になったのかは覚えていないが、美桜は流雫を選んだ。
 ……戸惑いながら、流雫は受け入れた。
「……これでよかったのか」
と思いながらも、彼女の愛情を突っぱねるワケにはいかないと思っていた。
 周囲から見ると、もどかしさを超えて苛立つほどだったが、それも大型連休を過ぎると、急激に周囲が羨むほど「急接近」していた。
 美桜の好意は、流雫にとっての初恋を彩る。初めて故の戸惑いに苦戦しつつ、近付いていこうとする。それでも、未だデートはしたことが無かった。
 夏休みは、家族とできる限り長く過ごしたいと、数日以外はフランスにいることに決めていた。毎年恒例のことだ。
 終業式が終わると、ペンションで夏休みの宿題を最後の荷物としてスーツケースに突っ込んで出発し、翌日の未明に東京を発つパリ行の飛行機に乗る。
 だから、初めてのデートは2学期の連休に、と約束していた。そして、あの日。

 流雫が空港で警備員に助けを求め、制限区域で震えていた頃、同級生と遠出をしようと渋谷に出ていた美桜は、全身を所々焦げた白いワンピースごと血塗れにし、腕と足を有り得ない方向に曲げ、駅の改札前に倒れていた。
 アドトラックの爆発で、文字通り飛ばされた。ほぼ即死だった。その同級生は、駅の改札から見える洗面所にいてどうにか助かったものの、屍となった美桜を見て失神しかけた。
 その一報を流雫が知ったのは、空港での事情聴取が終わった後に立て続けになった着信のうち、最後に掛かってきた別の同級生からのもので、だった。

 流雫は通夜や告別式にも出なかった。エンバーメントされたとは云え、惨状が一目で判る美桜の亡骸は見るに堪えなかったと、誰もが言っていた。
 一部からは、恋人なのに冷たい奴だと言われたりもした。しかし、テロの犠牲になった、と云う思いつく限り最も理不尽な事実を受け入れることを、本能が拒んでいた。
 それからは、全ての同級生が流雫には腫れ物を触るように接するようになり、同時に彼も壁を設けた。そして、2週間もすれば互いに接することすら無くなった。挨拶を交わすことさえ無く、流雫の存在は無いかのような雰囲気も有る。
 美桜とミオ。かつての彼女と、今メッセージを送り合っている少女の名前の読みは同じだ。だからか、ふとした瞬間に、何処かに面影を探そうとすることが有った。全くの別人だと、判ってはいるのに。
 しかし、ミオからのメッセージは、どれも脚色を感じなかった。その全肯定ボットのようなメッセージは、リップサービスを超えて少し怖くもなるが、自分みたいな人を放っていられない、そう云う聖女みたいな性格なのだろうかと思う。
 ……あの日からの流雫にとっては、それから1ヶ月後に知り合った、顔も声も何も判らないミオの存在が支えだった。
「味方、か……」
流雫は呟く。
 ……こうなった以上、何が何でも、生き延びたいし生き残りたい。膨大な情報の海で奇跡的に掴んだ一欠片の希望は、絶望の深淵から流雫を引っ張り上げた気がした。

 昼過ぎ、ルナからのメッセージに安堵した後、澪は泣いて赤くなった目に目薬を注すと、鎖骨ぐらいまでの長さのダークブラウンのセミロングヘアを手櫛で整え、2人の同級生の下に戻った。目が赤いことを指摘されたが、埃が入ったようで目が痛かった、と誤魔化した。
 その後も気を取り直して遊び、欲しかった小さな猫のマスコットを手に入れた澪は、同級生と別れて列車に乗る。ロングシートに座りながら、ネットニュースを開く。そこでようやく、詳細を知った。

 人質の1人が発狂して犯人を撃ったこと、それと同時に特殊武装隊が突入したこと、そして人質が別の人質に銃口を向けて騒ぎになったこと、その全てが書かれていた。ネットニュースに出ていた動画には、遠目に人質が映っていたが、よく見えない。ただ、そのどれかがルナだ。しかし、
「生きてる」
と送ってきたことで、あの事件から無事に解放されたことだけは知っていたし、誰がルナかはどうでもよかった。 

 東京の端の一軒家に帰り着いた澪に、父が声を掛ける。母は地域の安全に関する緊急集会で15分前に家を出た。1時間は帰ってこないらしい。その父、室堂常願は料理を始めていた。今日は非番で、朝から家にいた。
 澪はリビングにコートを脱ぎ捨てると、エプロンを着けようとする。
「ゆっくりしていろ」
と言う父に
「……ちょっと、話したいの」
と言い返す。……この日、自分が何を思いながら、気が気でない1日を過ごしていたか、少しぶつけたかった。
「知ってる?今日、河月のショッピングモールと云うか、大きなストアで銃撃が有ったの」
と澪は切り出す。
「ああ、ネットで中継が流れていたな」
父はそれに答える。澪は問い始めた。
「ああ云う時、例えば撃っても正当防衛なの?」
「ああ、自分に危害が及ぶ場合はな。それに見せかけて犯人以外を撃てば、それは立派な犯罪になるが」
「……じゃあ、もし……犯人じゃない人がどさくさに紛れて撃ってきた時は?」
「撃ち返した時点で、撃たなければ撃たれていたと云う命の危険を立証できれば、正当防衛だ」
そこまで答えて、父は16歳の一人娘の様子が普段と少し違うことを疑問に思った。
 「……どうした?何か有ったか?」
「……色んなケースが有るとは思うけど、そう云うイレギュラーと言うか不測の事態って、どうなるんだろう?……そう思うと、何か気になっちゃって」
澪は、俯きながら言う。
 何が引っ掛かるものが有るが、父は答えた。
「俺たち警察と云うものは、合法的に銃を持って、扱ってきた。それでも、いざ人に向けるとなると、やはり度胸が要る。威嚇射撃で済まないなら、犯人を狙うしかない。そもそも、射殺は最悪の事態に陥らないための最終手段だ。最悪を回避するためなら、迷っている暇は無い」
 最終手段、それは澪も知っている。10月最初の日、資格証を取得した直後に銃を手にした時から、事有る毎にそう何度も聞かされてきた。
 「正しい使い方や心得を十分知り尽くしているハズの俺でさえ、いざとなると少なからず怖くなる。特に今は、登録時に講習を受けても、正しい扱い方を知らない奴もいる。ノリで持つと云う感覚か」
「そう云う奴らが、平気で人を殺すための道具として手を出しかねない。誰もが凶器を持ち歩いているんだからな」
父は澪を見ながら続けた。それは、刑事としての一面だ。娘は自分から切り出した話を、ただ黙って聞いている。
 「もし、あの銃の引き金を引かなければならない事態に直面した時は、撃たれる覚悟はしろ。犯人は、防衛本能で必ず銃を向けてくる。銃と云うのは一瞬で全てが決まり得る凶器だけに、それだけの覚悟は必要だ」
澪が選んだオートマチック銃は、最も小さく軽量だった。グリップが、ちょうど澪の華奢な手で握り締められるほどの大きさだ。
「……判った……」
澪はゆっくり頷く。
 今のところ、幸いなことに澪自身はその機会が無い。それは、未だ平和だと云う証拠か。尤も、それが続くのか終わるのか、判るハズも無いが。

 夜、澪は宿題を片付けていた。ノートを閉じると、机のアナログ時計は22時を指していた。その時、彼女のスマートフォンの通知が鳴った。
「……怖かった」
その一言を皮切りに、メッセンジャーアプリのチャット画面がルナの言葉で埋まっていく。その全てに目を通しながら、澪は初めて、別の人質に銃口を向けられていたのがルナだったことを漸く知る。
 ……彼はこの数日で、2回も人を撃っている。当然、全ては正当防衛なのだが、しかし今日撃ったのはテログループではなかった。とある人質が発狂した末、銃口を向けてきた。まさか、人質と云う同じ側の人間に撃たれそうになるとは、ルナも誰も予想していなかった。
 ルナは澪と同じ単なる高校生で、普段の遣り取りからしても、彼はお世辞にも強いとは思えない。そして何時も、何処かに暗い影が見える気がする。
 そのルナが、どんなに正当防衛だと言っても、吹っ切れて平気な表情でいられるハズがない。今頃、今日のことを忘れようと、必死に藻掻いているのだろうか。澪はただ、思うことだけを打った。
 ベッドに潜ると、既に日付は変わっていた。もう数時間後には起きて、学校に行かなければならないことが、少し憂鬱だ。
 ……ルナが無事か、2時間以上気になっていたこと。無事だと知って、思わず1人泣いたこと。そして、彼に
「ルナの味方でいたい」
と送ったこと……。その全てを思い出していた。
 本当の名前も、声も、顔も知らない。ルナも、澪も。それだけの関係なのに、何か……彼が気になる。
 今、もしルナと逢ったのなら、すぐさま抱きしめて泣くだろう。それも、完全なる無意識のうちに。彼がどれだけ今苦しんでいるのかは想像に難くない。……恋人でも何でもないのに。ただ、今は寝ることだけだ。
 「……おやすみ、ルナ」
澪は呟き、夢の世界へと意識を落とした。

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